東アジア海文明の歴史と環境(学習院大学・復旦大学・慶北大学校)

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日・中・韓 共同現地調査

2006年水利班・韓国水利遺跡調査
2006年港班・泉州~アモイ(中国・福建省)調査
2006年黄河班・黄河故河道(中国・河南省)調査
2006年運河班・古邗溝(中国・浙江省)調査
2006年交流班・日本海(日本・北東北~北海道)調査

2006年水利班・韓国水利遺跡調査              2006年12月21日(木)~12月26日(火)
水利班地図 参加者:
村松弘一、小山田宏一、柏倉伸哉、福島 恵、呉 吉煥、李 文基、禹 仁秀、洪 性鳩、李志淑、崔 垠植、李 相勲

 本調査は2006年7月におこなった河内平野の狭山池調査を踏まえ、それらの文化・技術が伝わってきたと考えられる朝鮮半島の水利遺跡と都市との関係について池を中心に調査することを目的とした。この作業は同時に東アジア海文明の基盤となった稲作の中国→朝鮮半島→日本列島へとつながる道をたどることにもなる。
 12月22日には、金堤市に位置する碧骨堤を訪問した。碧骨堤は4世紀、 碧骨堤 百済王権のもと建設された朝鮮半島で最も古い記載の残る堤防遺跡である。3kmにわたる堤防および石門が残っている。調査の結果、狭山池と同様の敷葉工法であることが報告されているが、堤体の保存がなされているわけではない。この堤防の灌漑対象区を確定することは難しく、防潮堤ではないかとも言われている。ただ、一帯は朝鮮半島南部で最も大きい湖南平野で、碧骨堤が扶余に隣接する一大農業地帯を支える重要な水利施設であったと考えたい。難波宮と狭山池の関係を思い起こさせる。
 12月23日は扶余において、百済王墓群である陵山里遺跡を訪れた。陵の西には陵山里寺遺跡・百済羅城がある。羅城も敷葉工法による。市内に入り、宮南池を訪問。いわゆる苑池である。苑池の文化は中国から朝鮮半島、さらには日本の平城京の東院庭園にまでつながっている。
 12月24日に永川市の菁堤を訪問した。琴湖江の東方にひろがる平野の東に位置する灌漑池で、岩盤でできた高台が狭まった部分に堤防が築かれている。2基の重修碑があり、ひとつは康煕年間のもの、もうひとつは表面に丙辰銘(法興王23年、西暦536年)、背面に貞元十四年銘(西暦798年)が見られる。その後、慶州で雁鴨池・書出池を訪問した。
 12月25日は尚州で恭倹池を訪問し、安東では、近年、韓国で最も古い稲作と貯水池の遺跡が発見された芋田里遺跡を訪れた。





2006年度泉州およびアモイの港湾都市機能・景観調査
                                2006年12月29日(金)~2007年1月6日(土)
港班地図 参加者:
森部 豊、中村威也、福島 恵、陸 長瑋

 港班は、福建省泉州およびアモイの港湾都市機能について調査をおこなった。
 12月29日に上海へ到着した港班は,30日午前に福建省泉州市へ空路で移動し、鏑として泉州市海外交通史博物館を調査。31日は泉州西郊の調査。磁灶鎮にある唐末から宋代の窯で日用品を作っていた金交椅山古窯遺跡、かつてのマニ教寺院の遺跡でマニ仏が現存する草庵寺院、安平橋、最後に六勝塔を調査した。ここから目にした泉州湾の風景は、地図上からは得ることのできない港湾都市・泉州の地理的景観を理解す 六勝塔 る上で大いに役に立った。
 1月1日は泉州市内の調査。午前中、開元寺へ行く。寺院建築物の柱には、かつて泉州にあったバラモン寺院の遺構が使用されている。この開元寺の境内には、古船陳列館があり、泉州湾から出土した宋代の木造船・当時の交易品目(香辛料など)が展示されており、泉州を拠点とする南海貿易の様相がうかがえる。午後、宋代の市舶司の遺跡、イスラム寺院を調査。市舶司遺址は自力で探索したため、道に迷う。2日、泉州市東郊へ。明代に建築された倭寇対策の崇武古城を調査。午後は洛陽橋、宋代以来の碑刻が数多く現存する九日山へ。碑には航海の安全を祈念するものがあり、またその撰者に市舶司関係者の名も見え、泉州が交易拠点として栄えていた証左となる。3日、厦門(アモイ)へ日帰り調査。アモイは近代以降、急速に発達してきた港湾都市。ここでは、共同租界のあったコロンス島、南普陀寺、胡里砲台などでアモイの景観を調査した。
 4日は泉州市内の媽祖を祭る天后宮を調査。廟の建築物には、開元寺と同じようにバラモン寺院の遺構が使用されている点が興味深い。天后宮のすぐ前は宋代以来の泉州城の南門であった徳済門の遺跡。現在は発掘・整備されている。その後、泉州市街地のそばに流れる晋江を実見。かなりの川幅を確認でき、直接には海に面していない泉州の港湾都市としての機能の一端を確認することができた。






2006年黄河班・黄河故河道調査                    2006年9月2日(土)~7日(木)
黄河班地図 参加者:
鶴間和幸、市来弘志、長谷川順二、塩沢裕仁、宇都宮美生、
胡 雲生、王 大学

 黄河班は河南省延津県~新郷市~衛輝市の現地調査を行った。目的は、この地域に残る前漢期の黄河河道を探ることである。黄河は戦国以来、現在の河道よりも北側にあたるこの地域を流れていた。前漢~後漢期に黄河は濮陽付近で河道を変えるが、この地域では河道の変更は起きていない。大規模な河道変更が起きるのは金代になる。
 この地域における黄河河道の特徴としては、上記の通り「古代~金に至る長期に渡って安定した河道」という点と、「金代の変更以降、河道が再 太行堤
び戻ることはなかった」という点である。黄河はその高い泥砂含有量によって、その両岸に自然堤防を形成する。故河道を探索する方法の1つには、黄河によって形成された自然堤防を探し出すという手段がある。古代の河道(自然堤防)は、それ以降に起こった洪水や河川決壊などの水災、または人間活動によって削り取られ、痕跡が失われていることが多いが、今回の対象地域は上記の二点の特徴から痕跡が残っている可能性が高い。
 現地で案内された痕跡の一つに、太行堤(右写真)がある。現在の延津県にあるこの堤防は、現在の黄河からは30km程離れている。『延津県志』によれば、古代黄河の堤防だという。堤防の周辺は砂地が多く、堤防自体も砂が多く含まれている。砂は非常に細かく、濮陽付近の古黄河、また済南に流れる現黄河で見た砂と似ている。恐らくこの砂は古代黄河由来のものなのだろう。
 この堤防は数年前までは10数mもの高さがあったが、ここ数年の開発の進行、特に中国で近年進展している高速道路網の建設により、中央部分が削り取られてしまったとのことだ。今回の調査では2~3m程度の高さが残っていたが、数年後にはこのわずかな痕跡も消えてしまうのだろう。このような絶妙のタイミングで現地を実見できたのは収穫であった。






2006年運河班・古邗溝調査                   2006年7月28日(金)~8月4日(金)
運河班地図 参加者:
浜川 栄、水野 卓、青木俊介、久慈大介、王 大学

 運河班は揚州・高郵・淮安の現地調査を行った。目的は、文献に見える中国最古の運河・邗溝(揚州~淮安に建造)と東アジア海文明の関係を探ることであり、最大の課題は邗溝が基礎となった現「京杭大運河」(以下「大運河」)の航行であった。
 春秋時代の前5世紀前半、呉王夫差が邗城を築いた現・揚州市西北角の蜀崗の南東部から幅約10m、長さ3kmの「古邗溝」が東に伸び、 カン溝碑
「大運河」に通じている。しかし、邗溝の揚州以北の渠道は「大運河」と同一ではなく、やや東北行して今はない射陽湖等多くの湖沼を連結して淮河に達していた。長江・淮河を経て黄海に通じる邗溝は、6世紀、隋代の改修で「大運河」の一部となり、東アジア海文明の形成に重要な役割を果たした。唐代、鑑真(揚州出身)・円仁など多数の僧侶や遣唐使が頻繁に航行した事実からもそれは首肯できる。
 一部でも揚州~淮安間の「大運河」を航行するのが今回の最大の目的であり、また最大の難関でもあった。なぜなら、現在揚州付近の「大運河」には客船がなく、貨物船などに乗せてもらう以外ないからである。揚州市内ではそうした交渉はできず、計画は頓挫するかに思われた。しかし、揚州北郊の邵伯に移動し、渡し船の船頭に相談すると、快く小汽船を手配してくれた。その結果、高郵市まで約36km、2時間半の航行が実現したのである。「大運河」の水深は最大8m、幅は最大300mあり、予想以上の規模であった。頻繁に往来する貨物船の積み荷は、多くが華北で産出する石炭らしい。上海港などから輸出されるものであろう。「大運河」は今も中国と海外をつなぐ重要なパイプなのである。中国でも忘れられかけているこの事実を体感できたことが今回の調査の最大の成果であった。
 しかし、淮安以北の「大運河」は荒廃が著しいと聞く。次年度以降はそうした地域を調査し、「大運河」のマイナス面についても考察を深めていきたい。






2006年交流班・日本海(北東北・北海道)調査          2006年8月8日(火)~8月11日(金)
日本海調査地図
参加者:
鶴間和幸、鐘江宏之、家永遵嗣、馬渕昌也、下田 誠、大多和朋子、
牧 飛鳥、小宮山嘉浩、甲斐玄洋、近藤祐介、張 東翼、李 文基、
禹 仁秀、崔 垠植、張 暁虹、傅 林祥、呂 静

 日本海調査の一環として、上記の日程で現地調査が行われた。今回の調査では青森県五所川原市に位置する日本中世の代表的な港湾遺跡である十三湊遺跡を中心に、東北及び道南の歴史と日本海を通じた交流と交易を伝える遺跡・博物館などを訪れた。調査の全貌について紹介する事は出来ないので、ここでは十三湊遺跡を例に、調査の概要を紹介したい。
 十三湊遺跡での調査はまず現在の十三湖とその周辺の様子を歩いて確 硫黄山鳥居
認した後、歴史民俗資料館にて十三湊遺跡の全体像についての理解を深めることから始められた。その後、五所川原市教育委員会の榊原滋高氏に案内していただき、旧十三小学校(現在は十三湊遺跡の遺物整理室)で、遺跡の概要について説明していただいた上で、陶磁器を始めとした様々な出土遺物を見せていただいた。その後実際に遺跡を歩き、領主館の周囲に存在していたと推定される堀跡などを実見し、十三湊遺跡での調査を終えた。
 十三港遺跡の出土遺物は現在、旧十三小学校において整理・保管が進められているようであるが、その数は非常に膨大で中国・朝鮮製陶磁器といったものを多く含んでおり、往時における十三港の繁栄を偲ばせるに十分なものであった。また、榊原氏からは、十三湊遺跡の構造について、領主館や家臣団屋敷があったと考えられる地区と町屋地区の間には成立年代に若干のズレがあったと考えられている、といった事など最新の発掘成果に基づいた多岐にわたる貴重なご教示をいただいた。また、冬場の十三湖の凍結や強風による砂の堆積といった話も現地調査ならではの貴重な経験である。
 今回の調査では、十三湊を始めとした東北・道南地域の海を通じた交易・交流がいかに盛んに、そして広域に及んでいたかを実感する事が出来た。今後はさらに調査を深め、交流を支える人の活動と、そうした活動によってもたらされる物の動きをよりトータルに捉える事が必要であろう。






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