日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


3/1/2002(金)

薄曇りで、春っぽい気候。

そういえば、つい先日、息子の部屋を片づけてやっていたら、丸めたポスター型のカレンダーが二本でてきて、少しチャンバラごっご(といっても、ヴイーーン。ヴイーーン。ふしゅうう。ふしゅうう。 You should have not come back. とかやるスターウォーズ世代なのだが)をしたあと、捨てようと思ったら、一つは 2001 年度版だが、もう一つは今こそカレンダーとして使える 2002 年度版であることを妻に指摘され、おお、これは俺に使えという the force のお導き、ようやく大学の居室に日付をしるすものが何一つない状況を脱することができたぞ、情けは息子のためならず、と大学に持ってきたのでありまして、それで、さっそく来週の予定とかを書き込んでみると、なんとおそろしいことよ、来週はほぼ毎日予定があるというまるで多忙な人のようなスケジュールになってしまって、歯医者さんの予約にも困るほどなのである。 いや、来週会う予定の人たちとは、みな、前々から心底会いたかったので、なんの問題もないのですが、普通こういう風に予定が連なることがないので、ついとまどってしまったのでした。

スケジュールの話が出たついでにもうちょっと書いておこう。

昨年の私は、物理学会のシンポジウムを皮切りに、研究会とか国際シンポジウムとかいろいろなところに出ていって講演をしてしまった。 (四カ所で講演をしたと思っていたのですが、まじめに数えると五カ所でした。 いや、別に、どれかを忘れていたというのではなく、人間は四つくらい以上になると「たくさん」としか認識できない、という現象の現れかと。(ここで、各々の講演に関する雑感の記事にリンクをはるとかっこいいのだが、けっこう面倒なのでやめる。)) さらには、何を思ったか、21世紀の物理を展望すると称する座談会に二つも顔を出して言いたい放題をしゃべってしまった。 これは、もう、ぼくの基準からすると猛烈な大活動でありまして、われながらがんばったことであるなあとか思っていたのですが、しかし、しかし、たとえば佐々さんのスケジュールとかを見ると、もう滅茶苦茶な勢いで研究会とか集中講義をこなしていて、ぼくなんか、どうあがいても足下にも及ばないことがよーーくわかった。

というわけで、今年は少しでも佐々さんに近づくべくがんばろうと誓ったかというと、そうでもない。 やはり、人にはそれぞれ向き不向きがあるのだから、無理をせず、自分らしい道を歩むのがよいのじゃ。 よって、今年は、研究会とかシンポジウムとかは、原則として出席しないという従来の方針に復帰しようと思ってすでにその方針でいろいろと対処させていただいております。 (すみません。) どうかわがままをご理解いただければと思います。


ぼくが教務の雑用とかでボケっとしている間に、田中さんからぼく宛に質問のメールが来て、さらに、ぼくがボケボケっとしている間に、S 君がメールでどんどん答えてくれているぞ。 ぼくはというと、あとから田中さんの質問を読んで「ええと、それって問題かも」とか適当に思って、それで S 君が送った答をみて「あ、そうじゃ、そうじゃ。やっぱし問題ないんだ。ほっほっほっ」とか言ってまして、これってまるで隠居じゃんか。
3/7/2002(木)

4 日に那須野さん(粉の流れ、SST などなどについて議論)、5 日に原さん(主として共著の本についての打ち合わせの予定で、「主」以外のことについて主として話した)、今日 7 日には佐々さん、と訪問者つづいた。


佐々さんがいらっしゃる前に、二月のおわりくらいに考えていた(2/28)driven lattice gas の摂動論と平均場近似と long range correlation についての第一歩的考察をちゃんとつめておこうとねばる。

他の理論などから知られている「距離の -d 乗でゆっくり減衰する相関」を、単純素朴な一次摂動で導いておこう、というプラン。 (知っている人は知っているだろう、と思っている。) 簡単な積分をした結果、

(r^2)^{1-(d/2)}=r^(-d+1)
(↑ ^ はべき乗を表す)という減衰をする寄与がみつかっていたのだけれど、これではべきが違う。 でも一階微分をとれば、ちょうど r^(-d) になるから、複数の寄与を足し合わせたとき一階微分が出てくることになるにちがいない。 ここまでは前日までに考えていたことだけれど、つい時間がとれず、当日を迎えてしまった。

確率保存から来る摂動への制約を考えると、上の r^(-d+1) がもろにでてくることがないのはわかる。 しかし、どうしても一階微分が自然に出てこない。 午前中に自転車で外出して走りながら考える。 高速で風をうけて移動することで頭のなかの不要な考えがはやく排出されるので(←???)、どこかでぱっと閃くはずなのだが・・・・。 その前に所用がおわって家に戻ってしまった。

お昼もおわって、大学に行き事務で一仕事すませ、やべえな佐々さんがきちゃうよおと思いつつ、ふと殴り書きの積分計算をみる。 積分は初等的だし、こっそり MATHEMATICA でもチェックした(学生さんにはないしょだよ)ので、正しい。 が、さいごのべきの計算は、ほんとは、

(r^2)^{1-(d/2)}=r^(-d+2)
じゃねえか! 「2 と 1 のかけ算ができない数理物理学者」がここにいたぞ。

てえことは二階微分がほしいのじゃないか、そんなもん出るのか??・・・・あ、そだ。こう粒子を入れ替えた配置がこれとこれなんだから、何一つ余分なことを考えず、めっちゃすなおに虚心坦懐に四つの寄与を足してみると・・・・・、なんだ、もろに二階微分の差分形ではないか。 やっぱり r^(-d) の減衰はきわめて単純なしかけで見えるのだ、とささやかな安心。 お、すでに佐々さんが来る予定の二時ではないか。 (←佐々さんはこの頃、学習院のなかで迷っていたらしい。 おかげで、間に合ったのである。) 残るのは、このゆっくりと減衰する寄与の係数が、平衡系ではゼロ、非平衡系では非ゼロになることを見ること。 と、そこで佐々さんが到着。

混乱をかかえたまま、半分くらい嘘をいいつつ(それを訂正しながら)、摂動論について佐々さんに話す。 平衡系でも「ゆっくり減衰する相関」が見えてはまずいので、なぜキャンセルしているかについて混乱しつつ整理。 キャンセルのしかけはわかったが、とすると、キャンセルしないのはどういうときだよ? と、そこで佐々さんが「二次元なら(ゆっくり減衰する相関)が出るにちがいない」と指摘。 ううみゅ。時間がないので一次元だけやっていたが、ええと二次元にすると、この配置とこの配置がでてきて、流れがなければ対称性よりこうなって「ゆっくり減衰する相関」は見えず、えええと、流れがあると対称性がなくなって、かつ、粒子たちは

佐々「こう並びやすい」
たしかに。すると、こうなってああなって、・・・・・・、おお、ここでも二階微分の形になって、ちゃんと「ゆっくり減衰する相関」が出て来るではないか。 すべて標準のシナリオどうり。

これで何かが解決するわけではないが、われわれの描く全体像のなかでは、一安心の観察であった。 「long range correlation おそるるに足らず」とは言い切れないが、「long range correlation で SST 即死」とは言わせない。

つづく議論で、long range correlation や保存ダイナミックスのゆっくり減衰するモードの解釈、などなどについて、景色が見えるようになってきた私である。


三名も訪問者をむかえてきわめて有意義だったが、ぼくの普段の基準からすると、一週間で年間の総訪問者枠(←そんなものはない)を使い尽くした感もあり。
3/8/2002(金)

川路先生の最終講義と退職記念パーティー。 川路先生があと少しで学習院を去られるというのは、理屈抜きで寂しいし、残念。

最終講義での(ぼくの)質問

川路先生の研究の歴史をみると、四十年以上前に学習院に来られた頃から、すでに半導体の表面での電気伝導を研究されている。 それを今日からみると、二次元電子系の世界に踏み込むと、様々な新しく美しい物理が見えてくることを予見していたかのように思えてしまう。 はたして、四十数年前の川路先生は、そちらの方に迎えば何かがあるぞという「におい」のようなものを感じていたのでしょうか?
への川路先生のお答えは、単に、
私はおもしろいと思うことをやった
であった。

しかし、単におもしろいと思うことを一生懸命にやった人が、みな、分野のパイオニアになりノーベル賞級の仕事をするわけでは決してない。 けっきょく、川路先生のような人は、本当におもしろいことだけをおもしろがり、くだらないことをおもしろがって時間とエネルギーを消耗しない、ということができるのだと思う。 要するに、彼はすごい人だという、身も蓋もない話。

実は、三月末の退職を前にしても、川路研はまだまだ収束していない。 川路先生、助手の川島さん、そして大学院生の T 君(←彼の残した数多くの伝説についてはいずれ語る時があろう)は、最終講義があろうと、パーティーがあろうと、修士論文の発表会が終わろうと、気にかけることなく、量子ホール効果の本質を明らかにすべく、日々新しい実験をつづけているのだ。 すごいよね。

パーティーの最後のスピーチでの川路先生のお言葉

今になって、自分は物理屋として果たして「ほんまもん」だったか、と自分に問うている。
は、われわれ自称物理屋にとっては、とてつもなく重い(ので、川路先生も連ドラ見てるんだ、とかいったつっこみはつつしむように)。
3/11/2002(月)

今朝方、

「なんか春みたいな天気」と毎日言っているけれど、そうこう言っているうちにほんとうに春になってるのかもね、よく考えるともう三月だし
とか間抜けなことを妻に言ったあとで、ふと思い出したんだけど、大学時代に物理学科のクラスメートの一人が、とうとつに
そういえば、東京では、春って何月からはじまるん?
と、ぼくに尋ねたことがあった。 (別に悪意あるしゃべり方とかいうのとは違うんだけれど、ちょっと性急で周りの空気をあんまり読んでないんじゃないかなと思わせるちょびっと詰問調のしゃべり方、ていうと、ま、わかるでしょう?そういうしゃべり方の人だった。)

この質問にはさすがに少々面食らったけど、不思議さも手伝って、

今は三月だとか四月だとかいうカレンダーは太陽の運行に基づいて機械的に決めたもの。 でも、季節感というのは、人間が自然のなかで生活しながら、さまざまな要素を総合的に感じつつ生みだしてきたものだ。 「いつから春か」などという境目は、その年の気候に応じてゆらぐものだし、あるいは、感じる人によってだって変わってくる。
という当たり前の事実をまじめに論理的に説明してあげた。

相手も、いちおう、論理的な説明とかを理解する力のあるはずの人だったと思うのだけれど、ぼくが話し終えるや否や(例のしゃべり方で)

いや、ちがうよ。 決まっとるもんだよ。 ぼくの田舎ではちゃんと何月から春、何月から夏、と決まっとったよ。 東京でも決まっとるはずだ。
とまくしたてるので、
おまえ、おれの説明きいてねえだろう!
とつっこむ気力も失せたのであった。 (ていうか、つっこんでも、通り抜けるんだよね、こういう人たちって。(そもそも、聞いてないし。))

他にも、「夜の十二時を過ぎれば、朝である」という主張も(別の人から)聞いたことがあるし、なんか、そういう人たちっていうのは確実にいるみたいなのだ。

で、だからどうしたっていう教訓につなげようとは思わないけど、そういう世界観の人ってあまり科学には向かないような気がしないわけではない。


そうそう、8 日の
本当におもしろいことだけをおもしろがり、くだらないことをおもしろがって時間とエネルギーを消耗しない
だけど、ちょっと誤解があったかも。 ぼくが言いたいのは、いろいろな物理を知って自分を豊かにしていくというプロセス(←勉強ともいう、でも、別に学生に限ったことでなくプロも続けるべきこと)についてではなく、実際に研究に入り込んで自分の進む方向と時間・エネルギーの使い方を考えるときのことについて、なのだった。 せっかくだから、いろいろな事を知って、より広い物理の世界を見渡せる方がいいよね。
3/12/2002(火)

手紙書いたり、歯医者に行ったりはしたけれど(あと、食事もしたな)、それ以外は「弱い on-site の斥力の働いた driven lattice gas」の問題をずっと考えていた。 (long-range correlation が圧力などの熱力学量の示量性をこわさないこと、などを具体的に示したい。) 紙に書いて計算したり評価したりする段階にぜんぜん達しないので、ただ、椅子にすわって目を閉じて考えてたり腕をくんで歩きながら考えてたりするだけなので、端から見るとなんかだらけているだけの感じ。 外見しかみない神様が見ていてもさぼっていると思うだろうなあ。 時々考えが行き詰まるとその辺にある雑誌(つっても J. Stat. Phys とかだけど)とか生物の本とか web とか見たりしてるし。

で、一生懸命考えて、いろいろ気分はわかった気がしないではないけど、ひとつもまともな事はわからないまま日が暮れてしまった。 見通しが立たないままあたりが暗くなると、けっこう無力感を感じたりもするものであるなあ。 別に太陽エネルギーを使って理論物理をやっているわけじゃないんだけど。


3/15/2002(金)

雑用をさぼっている割には、あまり進んでないが、今日は、一次摂動にでてくる和の評価ができたので、まずまずか。


なんだかんだ言っているうちに、午後からなま暖かい風が吹いてほんとに春が来たみたい。

ところで、11 日の「東京では、春って何月からはじまるん?」の人は、別に「何月ごろから春か?」という気候の傾向を尋ねたのではなく、「何月の1日から春と呼ぶと定められているのか?」という正確な定義を尋ねたということを念のために明記しておこう。 彼にとっては、その年々の季節感があってそこから季節の変わり目を人が感じるのではなく、地方ごとに定められた日付がありそこで季節が変わると宣言されるものらしいのだ。


「論文を書く、書かないの話」というのを前(1/21)に持ちだして書きたいことを書いたのですが、その後、早川さんとか牧野さんから、ちょっと一面的であるということを暗に陽に指摘された。 たしかにその通りなのでフォローせねば、と思いつつ月日が流れていく。

完全に忘れない前に、軽く書いておくのだ。

なにから書こうか。

ええと、めっちゃ個人的なことから。

どーでもいいことですが(←でも「どーでもいいことなんか読みたくない」と思っている人はこのページには来てないよね)、ぼくは大学院のドクター2年のときに結婚した。 で、たぶん、結婚する寸前くらいに、同じ分野の少し年長の人(I さんだけどさ、って原くらいにしかわかんないか)に

結婚するんだってね。じゃ、かあちゃんのためにも、せっせと論文書かないとね。
と言われた。

ぼくはこの助言があほらしいとは思わなかった。 というより、もともとそのつもりだったような気がする。 実際、この時期はけっこうがんばって論文を書いた。

もちろん、「かあちゃんのため」というのは、単なる物の言い方に過ぎない。 結婚なんかとは関係なく、自分が研究者として人生を生きていくのだ、ということを、自分にも、他人にも、はっきりさせる一つの(唯一のではないけれど、かなり最良に近い)方法は、自分の研究をしっかりとした論文にまとめて公にしていくことだと思う。

計算結果や数値計算をだらだら並べただけの似非論文ならいざしらず、きちんとした物理的なアイディアに基づいた実験の結果や理論(や数値計算結果)を他人にもわかる形にまとめ上げるというのは、決して当たり前ではない、重要な作業である。 その過程で、自分自身の動機付けや理解について深く再考する必要があるはず。 さらに、ちゃんと英語の論文にまとめた仕事があってこそ、会ったことのない(可能性としては、世界のいたるところの)物理学者に研究者としての自分を知ってもらえるのだ。

だから、学生さんとかポスドクとか、そういう立場の研究者が、自分の仕事をしっかりとした論文にまとめあげることを真面目に考えるのは、とても意味のあるきわめて健全なことだと思います。 (あと、将来のポジションのためにも、しっかりとした論文で自分を知ってもらう必要がある、というきわめて切実な側面もありますね。もちろん。) そのためには、純粋な研究とはまた別の技術も必要だし、そのための努力も不可欠だでしょう。 でも、それは、やるだけの意義のあることなはずだから、是非ともがんばってください。

裏返しに言えば、ぼくが前(1/21)に書いた「論文書かない方がいい」みたいな理屈を、たとえば大学院の学生さんが振り回して、自分の力不足のいいわけにだけはしないでほしい、ということです。 ぼくが念頭において批判したいと思っていたのは、立派な研究室を構えているレベルの人たちのことでした。 そのあたりが舌足らずでしたね。

まだ舌が足りてないかもしれないけど、あたりも真っ暗になったので、このへんで。


3/22/2002(金)

今週の活動のコンパクトな記録: 月曜日はおうちで計算、火曜日はラファエルが来た、水曜日は卒業式で、木曜日はムックの原稿。 ううむ、ほとんどこれに尽きている。 金曜日はおしゃべり(会議)ばかり --- に尽きてしまうといやだから、新歓コンパがはじまる寸前まで頭を使ってるのだ。

さっき思った(本当に)どうでもよくほとんどの人に意味不明なことの記録: カバーって、ライヴとかシングルの裏(裏じゃないけど)とかでやってるとさりげなく楽しいけれど、まとまってカバーアルバムっていうと妙に商売っていう気がしてしまうので抵抗があったりする。やっぱ新しいオリジナル曲が聴きたいなと思ってしまう。オリジナル曲がオリジナル論文みたいなもんだったら、スタンダードや古い曲のカバーってのは、既存の結果を自分なりにまとめなおして提示するレビューとか教科書とか講義とかに対応するのかな?って、やっぱり、この比較は無理がありすぎるので、やめ。でも Autumn Leaves のカバーってきくとやっぱ Somethin' Else のやつ、ってああいうのはカバーとはよばんか。


3/26/2002(火)

細いまっすぐな道の両側にびっしりとビルが建っていて、道の真正面に、灰色の大きな建物がある。 夢でみている風景だという自覚がある。 ぼくが移動して視点を変えると、それに伴って、遠近効果で両側のビルと正面の建物の位置関係が変わってみえる。 現実の世界では当然のことだが、夢のなかでもそういう視覚効果が正しく再現されることに、夢の中で驚いている。 当然ながら、われわれの脳には、視点が移動したときの像の動きをもとにして、物体の位置関係を知るという処理能力がそなわっている。 しかし、夢のなかで正しい像の動きを再現するためには、これとは逆の処理をおこなう必要があるはず。 そんな「3次元グラフィック機能」がわれわれにそなわっているというのは、驚くべきことだ、と夢のなかで驚嘆していたわけだ。 この議論はもっともだし、この夢での映像はちょっと驚くべきものだと、目が覚めている(と少なくとも本人は自覚している)今考えても思える。 そこで、一つの仮説として、今の自分が夢を見ているのは確実だが、実は肉体は目覚めていて実際にこの道とビルと建物の風景をみていて、その視覚像が夢に輸入されているのではないか、という可能性を真面目に検討してみた。 これは、目覚めてみると、賛成できない考えである。

夢が少し進んだ所で、今度は家のなか。 格子のはまった大きな窓の外に、葉をたくさんつけた大きな木のシルエットがみえている。 これは視点移動の効果を知るのにうってつけの状況だと思い、頭を上下左右に動かしてみる。 と、実にみごとに頭の動きと連動して窓の格子と木のシルエットの重なり具合が変化し(たと感じて)、やはり夢のなかでも視点移動に伴う視覚像の変化をシュミレートできるのだ、と感心した。

目覚めてから思うと、見ていた画面は、アニメによくあるみたいな、二枚のセルだけを重ねて視点移動にあわせてずらす、というやや安上がりな3次元グラフィックスだったような気もする。 いずれにせよ、長年夢をみていて、こういうのは初めてだったので、深い意味はないけれど、ここに書いておこう。


3/27/2002(水)

家族につきあって The Lord of the Rings をみる。 映画としていいかどうかは別にして、予想通りたいへんよく作られており感心しました。 あと、どうでもいいけど、ぼくの仲良しの人と前に喧嘩した人がパンフに解説を書いてるのを発見したので、精神衛生のため気付かなかったことにした。

「原作を愛する人は見ない方がいいかも」なんてことは読書人(←最近聞かなくなった言葉だのお)には今さら言うまでもない(と書いていて思い出すのは、大昔に、カラマゾフの文庫本を買ったらカバーに変なロシアのおっさんの写真がうつっていて、それがどうも映画のシーンらしかったこと。(カバーは速攻で捨てたけど。)あんなもの映画にしてどーすんだろ、と誰でも思うよね。(付記:早川さんによるとソ連のカラマゾフの映画は秀逸な映画だそうです。)一人の台詞だけで二時間おわっちゃうじゃん。)ことだけど、ひとつだけ、ネタバレ覚悟で、見てきた人だけが知っている秘密を書いてしまおう。

ホビットもエルフも人間がやってるぞ! (これは、けっこう、ひきます)

物理の話がでてこないのでさぼっているみたい。 それなりに、いろいろ雑然と考えつづけてているのだが、どうも気合いをいれてとことん整理するところまでいかない。 やっぱり(広い意味で)さぼっているのかもしれない。

以下、その一部。

大野さんに教えてもらった

S. Butler and P. Harrowell, Factors determining crystal-liquid coexistence under shear, Nature 415, 1008 (2002)
を、SST についての強い情報が得られないかという観点から、検討。 「熱力学はない」という結論は皮相的だが、かといって、SST と比べても「矛盾はしない」という弱いことしか言えない。 もう少しなんとかならないか、あきらめず、考える。

なんか、われながら、ちんたらやっている driven lattice gas の摂動論。 三体の寄与を考えて、相互作用の摂動の二次までみると、長距離秩序がみえることを納得。 二次摂動はめんどう。

Sasa-Tasaki の SST 論文には、「多孔質の壁」というのがでてくるが、これはなんなんだ、と考えつづける。 この道具を持ち出す背後には「非平衡定常状態の化学ポテンシャルを一意的に定める方法がある」という強い仮定がある。 そのことを明示的に認識した上で、もう一度、ふりだしに戻って考える・・


3/28/2002(木)

さて、

ゆで卵を(ふつうに横向きにおいて)テーブルの上でまわすと、勝手に立ち上がるのはなぜか
という長い歴史(←とはいっても、ゆで卵の歴史よりはちょっと短いであろう)をもつ問題についての新しい論文
Moffatt, H.K. & Shimomura, Y. Spinning eggs - a paradox resolved. Nature, 416, 385 - 386, (2002).
が、今日くらいに発売の Nature にのるらしい。 (しかし、昨日とつづけて Nature の論文に言及するとはびっくり。 ほとんど読まない雑誌だから。)

毎日新聞の紹介記事とかを読んでもあまりピンと来ません。 しかし、地球物理学者の中村さん(←大仏率のナカムラさんとは別人です。ナカムラさんはカタカナ表記なので、区別がつきますな。)の日記の 3 月 26, 27 日の記事にある紹介を読むと、がぜん、おもしろそう。 なんと摩擦が働いても保存する量があり、それを利用して、卵が立つことを示すそうです。 (中村さんは、著者の一人から直接いろいろ聞かれたそうで、そのあたりの記述も楽しいです。) Nature が出たら、読もう読もう。


3/29/2002(金)

やあ、びっくり。

きのう ゆでた孫 ゆで卵の論文のことでリンクした中村さん(← 3 月 28 日の日記に卵論文のさらなる解説があります)と、苗字が同じなのでついでにリンクした(←すみません。軽んじるつもりはないのです)ナカムラさんは、実は、なんと同一人物であり、研究の真面目な解説をするときは中村を名乗り、研究から離れた小粋な(←お、なんか江戸っ子っぽくなった)着想とかしょうもないだじゃれやギャグを書くときはナカムラを名乗っていた、なんてことはあり得ないけれど、実はお二人は大学時代のクラスメートで窮地のじゃない旧知の仲だということが判明してしまったのであった。 世の中せまいものです。 おまけに、彼らの学年に同じ学科に所属していた学生は全員が中村姓だったというから、驚くではないか。

(↑上の段落には嘘があるよ!わかるかな?)

自分のことは何も書かず、人の話だけで日記がおわってしまった。 なんかくやしいぞ。


くやしいので追記。 (アップするのは、かなり先かも。)

教授会のあと、夕方の東京の渋滞を抜け、夜の東名高速を走る。

次第に雨足が強まり、ついには、台風のときのような大雨になる。 あたりは真っ暗で、突風にふかれた水しぶきが滝のようにふりそそぎ、路面は激しい水の流れにおおわれラインさえ見えなくなる。 ついには激しい雨のしぶきのためにすぐ前の車のテールランプさえほとんど見えないという視界の悪さ。 おそろしいけれど、車を止めると、後ろから追突される危険があるので、走り続けるしかない。 かろうじて見える左側の壁の影をたよりに左車線(と思しきところ)を走るのだが、高速バスの停留所か何かで壁が大きく左にずれているところでは、危うくコースを誤るところであった。

何度か台風を含め悪条件のなかを走ったこともあるが、今回はほぼ最悪であった。 無事に切り抜けられて喜ばしい限り。

とくに気の利いた感想もないが、ほっとしたので書いておこう。

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言うまでもないことかもしれませんが、私の書いたページの内容に興味を持って下さった方がご自分のページから私のページのいずれかへリンクして下さる際には、特に私にお断りいただく必要はありません。
田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
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