茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
4 月 1 日といえば、ぼくの曾祖母の誕生日であり、彼女が生きていたときには、多くの親戚が高田馬場の彼女の家に集ったものだった。 曾祖母は長命であり、ぼくが生まれたときには生きていた。 ぼくがものごころついた頃にも生きていた。 ぼくが大きくなっても生きていた。 ぼくが結婚したときも生きていた。 ポスドクの職が決まり、妻と妻のお腹のなかの娘といっしょに渡米することになって挨拶にいったときには百歳くらいだったが「どこに行っても人間は人間だから安心してあちらで子供を産んでこい、おまえたちが玄孫(やしゃご=ひいひい孫)の顔を見せに日本に戻ってくるまで待っているから」と言い、そのあと、当時の円とドルの交換レートからするとドルで給料をもらうのは有利かという点についてひとしきり話した。 そしてアメリカで彼女にとっては最初の玄孫であった娘が産まれた。 それからしばらくして、ぼくが学習院に職を得たので、ぼくら一家は帰国した。 このときにも彼女は生きていた。
曾祖母の話を書き出すときりがないし日記の趣旨(←なんだ、それ?)ともあわないので、このくらいにしておこう。 つづきは、次の4月1日にでも書こうか。
かつて、ピタゴラス学派では、この世の数はすべて有理数であると教えていたそうだ。 しかし、あるとき、そのピタゴラス学派のなかで、一辺の長さが 1 である正方形の対角線の長さ(ルート 2 だけど)が無理数であることが発見されてしまった。 ピタゴラス学派の人たちは、困ってしまったわけだが、ちゃんと数学のできる人たちだったろうから、どうしても無理数が必要だっていうことはちゃんと理解した。 それが真実なんだから仕方ない。 しかし、自分たちでは理解したものの、教義の方は変更しないことにして、無理数の存在は教団の秘密にしてしまったという。 真面目なのか不真面目なのかわからないすごい発想である。
driven lattic gas のように粒子数の保存する非平衡系では、平衡系ではみられなかった独自の長距離相関が生まれることが(川崎先生の先駆的なお仕事以来)知られている。 ぼくは、「長距離相関なんかこわくないぞ」ということをデモンストレートすべく、もっとも単純なモデルでもっとも単純な摂動計算をやっているのだ。 無限系で摂動をやるとすべてうまくいって、摂動の範囲で、長距離相関がちゃんとみえるし、かつ、そいつは熱力学的な構造(SST で扱うべきはずのもの)をぶちこわさないことも納得できる。 ぼくらにとって望ましいシナリオが浮かび上がっていて、あとはまとめるだけで、こいつはめんどーだよなとか思いつつ日を過ごしていたのだった。
ところが、同じ計算を周期的境界条件の有限系でおこなうと、なんと、みごとに時間積分からログ発散がでて、摂動論が破綻してしまうことがわかった、というわけ。 ぼくは、ちょっと(じゃなくて、無茶苦茶)大げさだけど、ルート2をみつけてしまったピタゴラス学派の人たちのごとくあせっていたのであった。
ルート2の方は、まさに新しい数の世界を開くきっかけだったわけだけど、幸いにも、その後おちついて整理していくと、ぼくの出会った発散は「流れの方向に沿った周期境界」というある意味で非現実的な設定と摂動論の組合せから来る病的な結果であることがはっきりしてきた。 境界条件も、まともに粒子浴にかえてやれば、発散はぴたりと収まる。 ほっ。
あとは、この計算から、どこまで SST の援護射撃ができるか、というところで、なんとなく停滞しながら、摂動論をひっかきまわしております。
おお。佐々さんも昨日の日記(日々の研究 4/6/2002)で数値計算が SST とあわないと正直に報告しているぞ。
ぼくの昨日の日記のネタと呼応したのはうれしいが、あわないのはやっぱし悲しい。
理学部入学式。桜は既に散り、初夏のようなよい季候。
われわれは、例によって、新入生への教員紹介で一言ずつ(のはずが、みんな長すぎ(←ぼくも)。部屋は暑いし)自己紹介。 今年のぼくの新機軸は
まだまだ言いたいことはありますが、ぼくに少しでも興味をもった人は大学のぼくのホームページをみてください。 計算機の授業でホームページの見方を習うと思いますから、そうしたら、先ずぼくのを見てみるのが宿題ね。(↑ううむ。「宿題」というところは、ちょっと先生ネタすぎ。) 見てるか〜?
ちなみに
サークルなんか入らなくても大学生活は充実するからね。は旧機軸。
理論物理の現在の地図を見ると、風の谷のナウシカに世界に似ているではないか。 数値計算とよばれる腐海が漸次患部を広げつつ、古代から続く諸都市のような諸理論が次々と飲み込まれてゆく・・でもさ、ナウシカの世界(←以下すべて映画版を前提に書いています。マンガの方は途中までしか読んでいない。)では、腐海は人々が汚してしまった世界を浄化しているわけでしょ? 人間の都市への脅威になるからといって腐海を焼こうとする人間たちは、自然の合目的性(わははは)を理解していない愚か者なわけですよね。
上の文章を書かれた人は、そういう遠大な数値計算擁護論を打ち出したかったのだろうか??
「ナウシカ」という作品の最大の魅力が主人公ナウシカのキャラクターであることには何の異論もないんだけど、こっちも歳をとってくると、先験的に正解を洞察してしまっていて(戦略的な悩みはもっていても)根源的な悩みはもたないナウシカより、悲惨な状況のなかで人間としてあがこうとするクシャナに思い入れを抱いてしまう瞬間もたまにあったりするのだった。 (でも、クシャナはさっさと「かわいく」なりすぎ。)
物理に話を戻すけれど、数値計算は、昔から書いているように「航空写真」であって、真の「探検」の代替にはなりえない。 数値計算が隆盛をきわめているのも、単に楽だからという経済原理のあらわれにすぎず、腐海のように隠れた存在意義があるからじゃない。 こんなことは自明の理だと思うんだけど。
社会現象としては、ぼくよりもひとまわりほど上の世代あたりから、大学院時代からずっと数値計算に頼って「研究」をしてきたという「新人類」があらわれはじめた。 その人たちのなかには優秀な人もいるが、しかし、その後、計算機に依存せず、本当に立派な理論的業績をあげた人はぼくが知る限りいない。 研究者として駆け出しの時期に自分の能力の極限まで頭をつかって考えるという訓練をしていないからなのか、あるいは、うまくいくかどうかわからない理論に挑戦するよりはさっさと計算機で結果を出すことに慣れてしまっているせいなのか、そのへんは知らない。 ぼくは、こういう人たちは、(そういった仕事にも一定の役割があるとかいった議論はもちろん承知しているけれど、とことんつきつめれば)けっきょくのところは、ダメだと思っている。 (もちろん、「偉く」なったり賞をとったりすることが目標なら、ダメじゃないですよ。 立派な方は何人もいらっしゃいます。)
すでに時は流れて、そういう人たちの一部は、「大先生」になっていて、その弟子とかの人もいっぱいいるわけだけど、そんな先生たちを無批判に目標にしていて、最初から「数値計算をやろう」なんて言ってる人たちはもうダメダメだとぼくは思っています。 (この「雑感」の読者のなかにも、そういう人たちは少なからずいらっしゃるでしょうね。 気にしないで下さいね、と言うくらいならわざわざ書くことはないので、ぜひ、気にして下さい。)
あれを書いた人は、すでに理論的に意味のあるやるべきことが尽きてしまって、あとは数値計算くらいしかやることが残っていない死んだ分野について書いていたことを知った。 つまり、腐海がよいものか悪いものかといったこと以前に、腐海にのまれるのは、すでにその分野が死に絶えてしまっていることの現れといいたいようだ。 これは、これで、面白い視点である。
新入生への履修ガイダンス。
ぼくは万年教務委員なので、これも何回目だろう? すっかりベテランになってきた。
きのうの教員紹介であまりしゃべらなかったので、地をだして、しゃべりまくる。 (つぎに話した化学の稲熊さんは、開口一番「ぼくは普通に話します」とおっしゃった。)
午後は教授会。
少なくとも物理の(あるいは理学部で研究するような科学の、と言ってもいいと思う)研究を考えたとき、数値計算だけで真にすばらしい成果に到達するということはありえないと思う。 たしかに数値計算は、ぼくらに新しい世界を「みせて」くれる可能性はあるけれど、「みる」だけでは「わかる」ことにはならない。 ちょっと利口になるかもしれないけど、賢くはならない。 単に「みた」ところから、さらに本質的な一歩を踏み込んでこそ、物理における(あるいは理学部的な科学における)真の「理解」が得られるとぼくは信じる。 (これは別に目新しい見解ではない。 言い古された話だし、数値計算のプロの多くの方は、そういう認識をもっているとぼくは思っている。 (もちろん、「紙と鉛筆の理論」だったら自動的に「理解」につながるなんてことは、これっぽっちも思っていない。 「紙と鉛筆の理論」だって、ほとんどは(数値計算と五十歩百歩の)ルーチンワークであって、些末な知識を与えてくれるにすぎない。 ))
以上の点については、あまり異論はないと期待するのだけど、それもぼくの偏見かもしれない。 でも、ぼくとしては、こういう意見を引っ込めることはなかなかできそうにない。 もし、数値計算の結果だけで十分おもしろい、というような意見をいう人がいらっしゃれば、そういう人は不幸にも科学の本当のおもしろさを味わったことがないのだと言うしかないんだけどなあ。
分業がおこなわれるのは避けがたいことなのかもしれないけれど、たとえば(ぼくが比較的知っている分野ということで)統計物理や物性基礎論の様子をみると、明らかに、数値計算の比重が大きすぎるし、かつ、今でも拡大しつつあると思う。 これは、やっぱり、バランスを欠く状況だと思う。 すでにプロになってしまった世代は仕方がないのかもしれないが、若い世代が全力で理論的な研究に取り組もうとする機会が失われつつあるということには強い強い危機感を感じてしまうのだ。
いや、いつの世だって、ほとんどのものはクズなのだ。 真にすぐれた物はいつでもごく少数の例外にすぎないのだから、時の流行にとやかく言うことはない。と諭してださる方もいらっしゃるでしょうね。
たしかに、それは正しいのかもしれない。
でも、少なくとも今のぼくは、そこまで悟り切れない。 科学者社会というものをそれほど信用していないと言ってもいいかもしれない。 よくないと思う流れをみんなが諦観していれば、その流れはとどまることなく広がっていき、ついには、学問分野全体が取り返しのつかないところまで行ってしまうということは大いにあり得る。 そう思うから、しつこく、気に入らないことは気に入らないと言い続けているのでありました。
少し前(4/6)に書いた「無理数の機密漏洩野郎の末路」の話について、
秘密をばらしたやつは、教団に暗殺されたという話ではなかったか?とのご指摘をうけました。
実は、ぼくの方でも、一昨日本屋である一般数学書を立ち読みしていたら、その冒頭に、この話があり、そこにも、その人の最期については諸説あるが、暗殺されたらしい、みたいなことが書いてあったので、あれれと思っていたのです。
難破して死んだというのは、ラッセルの「西洋哲学史」に書いてあった気がしていたので、さっきパラパラ見たのですが、勘違いだったみたい。 (ばちがあたって)難破して死んだヒッパソスという人(←無理数機密漏洩の人とは別人だと思うけど、無理数の人の名前を忘れてしまったので・・)は、
科学的・数学的な発見といえども個人のものでなく、教団(ピタゴラス)に属するという掟(←これもまた理解に苦しみますが)を破ったらしい。 (SST の研究には、そういうことはないです、って当たり前か。)
ピタゴラスは、「霊魂の移住」ということを説いていたそうです。 よく知りませんが、日本人のわれわれにとっては輪廻転生の信仰は馴染み深いものだし、ま、けっこううなずける教義ではあります。
ピタゴラス教団には、さらに、「霊魂の移住」と同じくらい重要な教義がもう一つあったそうです。
それは、
豆を食ってはいけないだそうです・・・
なんか知りませんが、これでいくと、ぼくなんか、おそろしい罪人でございます。
明日からの講義にむけて頭と心を調整中。
そこで、というわけではないけれど、前から気になっていた
ランダウの理論物理教程を復刊してもらうための投票をすませてきました。
もう少しで目標の100票に達する(そうすると出版社に圧力がかかるのかな?いまいち理解していない)ようなので、ご賛同くださるみなさんの投票をお願いします。
(ランダウってなんだ?という人のために説明すると長くなって講義の準備ができなくなるので、「もっともすごい教科書のシリーズ」とだけ書いておこう。)
さてさて、ぼくが講義やゼミで疲労困憊したり、佐々さんの提起した密度ゆらぎのスケーリングの問題を考えたりしている間に、ランダウの理論物理教程を復刊してもらうための投票は順調にすすみ、規定の100票を軽く突破したようです。 みなさん、ありがとうございます。
投票者のコメントをみると、研究者や大学教員が絶版になっていると知って驚いて票を投じているというケースが多いみたいですね。
お。11 日には、あの大栗博司さんが投票されていますね。 たしか、十数年前に一度お会いしたきりではないかな?
おお。12 日には、なんと Abrikosov 大先生まで。 でも、先生はロシア語版で読めるんじゃないですか? (ていうか、なんで日本語読み書きできんだよ?)
「これだけ重要な本なのだから出版社には出版をつづける義務がある」という意見には大いにうなずけます。 しかし、出版社は商売で本を出しているというのも事実だし、今は、彼らにとって決して楽な時代ではない。 考えてみれば、ぼくらが学生の頃は、教養部の本屋さんやちょっと大きな書店の理系コーナーにはランダウの「力学」、「場の古典論」、「量子力学」などが平積みになっていた。 で、(勘違いで買う人も少なくなかったでしょうが)たしかにどんどん売れていた。 (ぼくも、友人 M の影響をうけて、大学一年のはじめからランダウの「力学」や「場の古典論」を手にして喜んでいた。) あの状況がつづいていれば、出版社がわざわざ絶版にするわけもないですよね。 あれからの何年かで、買う側のふるまいも変わってしまったということだと思います。
そういう意味で、出版社がすぐに復刊に踏み切るか --- さらに、たとえ一時的に復刊しても、永続的に出版をつづけるか --- どうかは、デリケートなところかもしれません。
今でも、図書館の蔵書などをもとに絶版書籍の複製をつくるサービスというのがあるようです。 でも、これは学生などではなかなか手がだせない。
たとえば、ランダウよりはちょっと(←わはは)格が落ちますが、ぼくの「熱力学」については、万が一出版社が絶版にした場合は(今のところ、大丈夫っぽいですが)、ぼくが本全体のファイルを無償公開できることになっています。 実際、これだけコンピューターのネットワークが発達した時代なのだから、本としての商品価値がないと判断されたものについては、そうやって広く読んでもらうのが最良だと思う。
もちろん、本で儲けようとしている出版社がそういう儲からないことを進んでやってくれるわけはないので、今のランダウなんかの翻訳をそのまま公開するとかいう話は実現しないでしょうが。
ひとつの可能性は、著作権とか翻訳権が切れたところで、新たな翻訳を勝手につくって無償公開するということでしょう。 おお、なんと斬新なアイディア!というわけではなく、これは山形浩生さん(および彼に賛同する人たち(←ぼくも協賛テクストに参加している))が「プロジェクト杉田玄白」で実行されていることの完全なパクリであります。 でも、考えてみると、本当に重要だと思える文献については、そうやって商売抜きで翻訳を公開するくらいのことをするのは半ば当然のことかもしれない。 読みたいと思った学生さんは、日本中どこにいても、すぐにテクストを入手できる。 (でも、読むには時間がかかるし、理解するにはもっと時間がかかるけどね。) 読みたい仲間が集まれば、出力を印刷所にもちこんで、必要なだけ本をつくることもできる。 誤訳や誤植の訂正だって容易にできる。 いいことづくめではないか。
ただ、杉田玄白にのっている作品をみると、もともと著作権を放棄しているもの以外は、かなり古いものばかりだ。 著作権が切れるのには時間がかかるから当然そうなってしまうのだ。 (ちなみに山形さんは、ファラデーの「ろうそくの科学」とかデカルトの「方法序説」とかの訳も無償公開している!) ランダウはすでに亡くなっているけれど、著作権や翻訳権が切れるのはいつになるのだろう? あと、英語から重訳する(仮にぼくがやるとなるとそれしかない)とすると、そっちの権利もあるだろうし、それ以上に、英訳が信頼にたるものかどうかという点も問題になってくる。 (英訳が本当にしっかりしていれば、へたにロシア語から直接訳すよりも、英語からきちんと訳す方がいいだろう。(もちろんロシア語から本当にちゃんと訳せる人がいれば別だけど。)) ま、道は長そうである。
ランダウ以外で「プロジェクト杉田玄白」方式で翻訳すべきだと思えるのは、Dirac の量子力学と Feynman の lecture notes だろうな。 既存の Feynman の翻訳はあまり評判がよくないから、本当にちゃんとした訳をつくるだけでも大いに意味がある。 それで Dirac や Feynman のもっとも優れた訳本を完全に無償で公開できるとしたら最高だなあ。
ぼくは、まとまった翻訳をするつもりはもうないし、専門書の翻訳というのは一般に無駄な行為だと思っている(これについて、あまり書いたことはなかったですね。前に清水さんが書いていたのとほぼ同じような意見です)のですが、これほどに歴史的で、かつお世話になったものの翻訳ならやってもいいかな。 やりたい順番としては、
大病院の待合室でしばらく時間をつぶすはめに。 (別に困ったことはありませんので、ご心配なきよう。)
この機会に、まとめずに放置してある(数多くのものの一つである)driven lattice gas の摂動について再考。
nearest neighbor までの相互作用のあるモデルにしておけば、平衡の相関が exponential decay しているところに非平衡効果が加わると、
ことが摂動計算でありありと見える。
SST で見るべきは前者であり、後者は別のメカニズムから生じる「あまり面白くない」部分だというストーリー。
少なくとも摂動では、完全にそうなっている。
いったい摂動をどうやって越えるか。 前々回に Raphael が来たとき、ホテルのロビーで別れ際に議論したときにもった漠然としたプランは未だに漠然としたまま。
格調があり、しかも、しっかりとした日本語。 かつ原文の言葉遣いを大切にした正確な訳(見比べた範囲で)。
要するに、英語を丹念によみ、構文と言葉の意味を丁寧に分析し、著者が何を言いたかったをじっくりと考え、それをじっくりと吟味した日本語で表現する。 ある程度の素養があれば、基本的には、誰でもできることのはず。 なぜ、それをやらない(できない)人がこんなにも多いのだろう? (というより、「目立った単語の意味を辞書で調べ、それらを並べて(本の内容や趣旨に照らして)想像力で結びつけて、こなれのいい日本語を書く」という作業を「翻訳」と称するのはやめるべきだと思うなあ。)
Dirac の量子力学についてはこれだけしっかりした訳があるのに新たに訳し直すというのは意味がないですね、やはり。 だいたい訳し直すとしても、 Dirac の没年は 1980 年代だから、それから版権が切れるまで五十年、六十年待ったあとで、この教科書が教科書として意味をもつかどうかは、さすがに、わからない。
ランダウは少し前に亡くなったけれど、考えたら、共著者のリフシッツはまだ生きているんじゃないかな?
やはり「プロジェクト杉田玄白・物理名教科書版」はただの夢か・・
リフシッツはかなり前に亡くなっているそうです。 心からご冥福をお祈りいたします。
よっしゃあ。あとはピタエフスキーか。
ここ2、3日は、ビールを飲みながら面倒な計算をきちんとする、という正しい夜の過ごし方をして、格子ガスの摂動論の結果を整備していたのであった。 大ざっぱな計算の結果が予想のとおりで喜んでいたのだが、今日、計算していると、予期していなかったきれいなキャンセレーションがあって、実は二粒子過程の二次摂動からは長距離相関がでないのではないか、というおそるべき予感が走った。
混乱したまま、夕方、所用のため少しでかけたので、歩きながら、一回目の摂動のあとのホッピングの効果を足しあげる方法についてずっと考える。 最初、あまりにも足しあげが面倒なので、そう簡単には白黒つかないのでは、という気になる。 が、帰路についたあたりで、ふと、かしこい計算の仕方に気付く。 その路線で考えてみると・・・・、ふむふむ・・・・・、やはり長距離相関を生むと思っていた部分は完璧にキャンセルしてゼロになってしまった。 あちゃああ。
確率過程の摂動論には、(確率の保存に起因する)制限があって、統計力学や量子論の摂動論とちょっと勝手がちがうのだ。 摂動計算なんて、機械的な作業だけれど、それでも、みとおしよく計算していくために、いろいろな「直感」に頼ってしまう。 今回は、確率過程の世界に不慣れなぼくの(誤った)直感の招いた失敗であった。 ま、こういうことを重ねながら、新しい世界の土地勘をみがいていくんだから、しかがたないかな。
さあて、では、三粒子過程の二次摂動は、どうなるか。 (すべての項を数え上げるとなると)あまりに面倒な計算になりそうなので、やりたくなかったのだ。 やってみるしかないかな。 少しだけ、直感も増して、計算の道具も増えたし。 あとはビールを買い足すか。
きのうの夜に見たテレビ。 (そこしか見ていないので、番組名チャンネルは知らない。)
手品師がカメラにむかってアップになっている。 トランプの束(一組全部あるような気がしていたが、実際にどうだったかはわからない)をもち、数字のある側をこちらにむけて、「これからトランプのカードを見せますから、どれでも一枚好きなカードを選んで覚えて下さい」といったことを、お茶の間の視聴者のぼくらに、言う。
なんのこっちゃいと思いながらみていると、数秒間、カードを指でずらしながら、ざああっと見せてくれる。 言われたとおり、でたらめに、一枚選ぶ。 「決めましたね。もう、変えないで下さいよ。」 といいながら、トランプを見る手品師。
いったい、どういうオチをつけてくれるのだろう、といぶかりつつ、「俺はハートの3にしたけどね。」と言うと、横にいた息子が驚いて、「えっ。俺もハートの3だ!」 なにっ?? これはやられたか、と思う間もなく、「あなたの選んだカードはこれですね」と、勝ち誇ったようにハートの3のカードをカメラにむかって見せる手品師。
がーーん。完敗です。親子そろってやられました。
それにしてもお見事。こんな方法で手品ができるとは。 おもしろかった。おもしろかった。 久々にテレビでおもしろいものをみた。
後から反省してみると、これは、いわば「(確実ではないが)高い確率で成功する手品」の一種なのでしょう。 多くのカードを次々と見せられたとき、人間が、ほんとうにすべてのカードのマークと数字を(余裕をもって)認識できるわけではない。 手品師が指でカードをたぐりながら見せてくれたとき、隣のカードと重なってかろうじて数字がみえたカードもあれば、ある程度、はっきり見えたカードもあった。 それは偶然生じたばらつきのように感じたけれど、実は、緻密に計算された動きだったのでしょう。 (あとはカードの順番を工夫すれば、あるカードが、まわりのカードから浮き立って見えるようにすることもできるはず。) それで、実際に、みている側が選択の対象にするカードは、実は、ほんの何枚かなのだろうと思います。
ぼくの場合、候補にしたのは三枚。はじめの方にスペードかクラブのジャックがあるのに何となく注目していたのですが、これは、ちょっと最初過ぎだからよくないな、という気がしていた。 つぎに、たぶんクラブのエースが目について、こっちに変えようかなと迷い始めた。 でも、エースというのは、あまりに特殊な気がして、よくないぞ、と思っていたところ、ハートの3がみごとに目に飛び込んできて、あ、こっちの方がいいかもな、と思ったところで、残りのカードがざああっと目の前を通り過ぎてしまったのでした。 これが、数秒間の心の動き。
おそらく、これこそが、手品師が計算したわれわれの反応だったのだろうと思います。 われながら、けっこう凡庸な反応をするものですな。
でも、目の前をとおりすぎるカードをみながら一枚を選ぼうとしていたときには、自由意志にしたがって文字通り「任意に」一枚を選んでいる、と心から感じていたのですよ。 人間の自由意志の感覚なんて、その程度のものかもしれない、とかいって自由意志と物理法則とかいうディープな話題につっこんでいくと面白いけど、ま、それはまた今度。
しっかし、三粒子の過程となると、一次摂動でも、項ががちゃがちゃとたくさんあって、計算があってるのかあってないのか、めちゃめちゃ自信がない。 もう一回、ちゃんと書き下してみよう。
昨日(4/21)のブラウン管ごしのカード当て手品だけれど、当然ながら、当たらなかった人(少なくともお一人はいらっしゃった(ていうか、実は、テレビのスタジオでも当たった人は半分強くらいだったと言ってたかな?))にとっては、それほどおもしろくはなかったでしょうね。
そういう意味で、実際の反応がなかなか読み切れないから、企画としてかなり危険ですね。 あと、相手に予備知識があると成立しないという重要な特徴もある。 ぼくも、まさかカードを当てるつもりだとは思わないから、虚心坦懐に選んで(選ばされて)しまったけれど、(ブラウン管の中から)当てると事前に聞いていれば、何かバイアスがあるに相違ないと判断してその裏をかこうとしたちがいない。 つまり、「あのテレビでやった手品、好評だったからもう一回やってください」と言われても、ぜったいに、二度とできないわけだ。
これほど工夫されたものではないけれど、ある意味で同じ趣旨の「手品」として、ぼくらが子供の頃テレビでやった「超能力者」ユリ・ゲラーの時計直しというのがあった。
これは、とても単純な企画だ。 ユリ・ゲラーが、スタジオで適当に超能力をいくつか見せたあと、「テレビも前のみなさん、家のなかに壊れた時計があったら、テレビの前にもってきてください。これから私がテレビを通じて念力を送って、その時計を動かしてみせます」とか言うのである。
で、日本全国のお茶の間では大騒ぎになって、おじいちゃんが死んだとき動かなくなった腕時計が仏壇にあるはずだからとっておいで、とか、のぼるが去年ドブに落ちたとき壊れた時計があっただろう、とか、お父ちゃんが叩いたら動かなくなった目覚まし時計が押入にあるからもっといで、とか、壊れた時計を引っぱり出して、あわててテレビの前にもってくる。 すると(よく覚えていないけど)「わたしと同じように壊れた時計を手に持って念じてください」とかユリ・ゲラーが真剣な顔をして言うわけだ。
当時の時計というのはみんな機械じかけで動いていた。 故障して動かなくなった、とはいっても、大破しているのでなければ、たいていは、どこかの歯車の微妙な接触とか、ゼンマイの錆とか、そういう些細な原因で不具合が生じていることが多かったと思う。 だから、何年も放置されていたのを、あわててがたがたと引っぱり出せば、それだけの拍子で多少なりとも動き出したとしても、とくに不思議はない。
というわけで(いや、ま、ほんとに超能力でなおしたという可能性だって一応あるかもしんないけど(ないと思うけどね))、たちまちの内に「スタジオの電話が鳴りっぱなし」状態になって、
何年も動かなかった(←ずっとほったらかしてあったんですよね?)腕時計を出してきて念じてみたら(←がたがた動かしたでしょ?)動き始めました!!ユリゲラーの超能力はすごい。(←ユリゲラーが念じていないときに同じことをやって比較してみましょう。)しかも、念じるのをやめて時計をしばらくほうっておいたら、また止まってしまいました!!!(←だから壊れてたのが、ちょっと刺激で動いただけなんでは?)みたいな報告がどんどんと寄せられるわけです。 この場合は、番組の盛り上がりの観点からすると、別に成功率が高くなくても大して問題にならない。 日本中に鳴り物入りで放送しているのだから、ごくごく一部の人の時計が動いただけでも、十分に、「スタジオの電話鳴りっぱなし」にはなるでしょうから。 実際、このときには、「時計が動いた!」という人は、小学校の各クラスに何人かずつくらいはいる、というくらいの成功率だったような気がする。
やれやれ。もう金曜日か。今日は忙しい。
実はここ一週間くらい腰が少し痛むので、講義も腰をかばいながらやっているのである。 板書は困らないが、黒板消しを落としたあと拾い上げるのがつらい。
昨日は、講義二つとゼミをこなしさらに書類も作成し夜はビールを飲みながら非平衡系の考察を遅くまでつづける、という風に朝から深夜まで大いに働き能率的に時間をつかったのですが、けっきょく、今日はそのつけがまわってきて一日中へろへろへろしているのでは、まったく能率的じゃないのかもしれないなあ。
と、せっかく日記を書いたのにサーバーが死んでいるので公開できないではないか! (といっても急いで公開する価値のあるものじゃないけど。)
腰はあいかわらず痛いけれど、それなりに頭もさえていて、集中力も戻ってきて、細々と(←「こまごまと」のつもりなんだけど、「ほそぼそと」と読めてしまうなあ)計算したり、いろいろなアイディアを練っては捨てたり、とがんばっている。 もちろん、こうやって、非平衡系での圧力や化学ポテンシャルの定義の問題点や可能性などなどを吟味していくという作業はすべて無駄に終わってしまう可能性も低くはないわけだが。
というわけで、今夜は格子ガスの圧力の定義についての再再再再検討。
現在、佐々さんが数値計算で使っている「壁を押す」方法はなかなかよい。 「圧力=壁を押したときの手応え」という基本思想に忠実だし、平衡状態に使えば、もちろん、よく知っている結果と一致する。 それでも、定常分布が不明な非平衡系にもちゃんと使える。 ぼくも、前にやった展開計算の途中で使ってみたが、うまくいった。
しかし、わざわざ「壁を押す(そして、緩和するのを待つ)」というのは、理論でも数値計算でも、なかなか面倒である。 なんとか、系の条件を動かさず、「そっと圧力が測れる」ような「非破壊測定」はないものだろうか?
なんとなくうまいアイディアが浮かんだところで、子供が風呂からでた。
よし、お風呂に入っている間に、このアイディアを結実させるぞ、やりたければお湯で実験もできるし(?)、と意気込んで、風呂場へ。
湯船につかって体を休め、精神を自由にしながら、諸々のポイントを検討。
平衡系の圧力には、ホッピングはいっさい関係しない。 格子間隔を微妙にかえることは何を意味するか。 ううむ、エネルギーを体積で微分したもの、という次元を引っぱり出すのだから・・・
のぼせた(がアイディアは没になった)