茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
ふう。 明日の講義で配る正準変換のノートがやっとできた。 時間がないのと内容が内容なので、細かい導出はノートに書いておいて黒板ではおいしい部分とか心とかだけを話すという作戦であります。
ぼくが見た範囲ではどの教科書でも、正準変換についての議論は変分原理を使ってやっている。 しかし、これをやるためだけに新しい変分原理を導入するのは結構面倒だし、はっきり言ってこのあたりで混乱してしまう人(学生というより、教える人とか教科書を書く人とか!)も実は結構多いのである。 というわけで、ぼくのノートでは、いっさい変分原理は使わず、正準変換についての基本的な結果を直接ごりごり示しているのでありました。 (変分原理経由の議論は、深く理解している人にとっては直観的ですぐれている。 講義でさらっとやる程度なら、こういう能率的な導出の方がよいのではなかろうか。)
最近、講義の下準備に時間をとられているなあ。 週末はレポートの採点だし、来週には期末試験問題も作らねば。
むかしから、「たいふういっか」という言葉を聞くと、必ず、一瞬は「力持ちの台風とうさん、優しいけれど怒ると怖い台風かあさん、そしてオイラはやんちゃ者の台風小僧」みたいな「台風一家」を思い浮かべてしまうのだけど、これってきっとかなり普通の事なんだろうと思う。
しばらく書かないでいるうちに、今学期の講義はすべて終わっている。
と日記だけみるといとも簡単に終わったようだが、今学期はいっぱい教えていたので、なかなか大変だったのである。 はじめて化学科に教えに行ったのも愉しい体験であった。 また、暇ができたら、そのことも書こう。
来学期は、来学期で、なんと生まれてはじめて(といってもガキの頃にやるはずはないのだが)非常勤講師としてよその大学に出かけていくことになっているのであった。 ていうか、隠しても意味がないので、駒場で「現代物理学」という選択科目をやります。 講義題目は「マクロな系の物理学」で月曜の2次元じゃない2時限。 ご興味のある方は、どうぞ。 大学教員が非常勤で教えるというのはかなり普通のことなのだけれど、出不精でどこにも行かないぼくとしては、よそでも講義を持つというのは革命的大英断なのです。 ま、いろいろ考えた上でのことです。 また、講義のプランなどについて、詳しく書きましょう。 (ただし、あまり考えていないのも事実だが。)
で、ともかく、講義が終わったら試験シーズンになってしまって、早速、採点しなくてはいけない答案がどどーんとある。 金曜日には、これが、さらにどどどどどーんとばかりに増える。 こう書くと、採点からの逃避で日記を書いているのだろうと邪推される方もいらっしゃるだろうけれど、いやいや、それは邪推などではなく、まさに正推(←なんて言葉あるかな?)でございます。
しばらく書かないでいるうちに、今学期の採点はすべて終わっている。みたいに、いとも簡単に終わらないかねえ。
昨夜は、深夜まで Sasa-Tasaki の SST 論文の改訂と referee への返答を書く作業。 まあ、随分と長いあいだ放置してしまったものだ。 いや、別に、SST の科学的探索を放置していたわけではなく、単に、論文を出版するための科学者の社会的営為を放置していたわけですが。
書いていたらどんどん乗ってきて、おそらく、今までで最長の referee への返答になったぞ。
今日になって、(試験やら入学課の人と会ったりする雑用の合間に)佐々さんと関連するメールのやりとりをしていて、
B. Derrida, J. L. Lebowitz and E. R. Speerという論文のイントロで、various promissing attempts として、Sasa-Tasaki and references therein を引用してくれていることを教えてもらった。
Exact free energy functional for a driven diffusive open stationary nonequilibrium system
Phys. Rev. Lett. 89, 030601 (2002)
以前に取りあげた(10/5/2001 など) Derrida-Lebowitz-Speer のlarge deviation functional についての美しい仕事の続編で、今度は、流れのある系を扱っている。 彼らの着実な成果にはただただ脱帽。 これから論文を家にもってかえってよおく読みます。
しかし、陰険なレフェリーにいちゃもんをつけられて未だに出版の目途が立たないぼくらの論文を、various promissing attempts の代表格として引用してくれるとは、さすが、Joel おじさん! すばらしい。 そういう風に、オープンで、前向きで、積極的な姿勢こそが科学を進めるんだよ。 今までの数値計算で熱力学がみえてないから、これも駄目に違いないとかいう態度じゃ進展はないって。 読んでるか、referee C さんよ。
もちろん、科学として大事なのは、どの雑誌に載るか、とか、誰それの論文に引用してもらった、とかそういうことじゃなくて、どれくらいよい科学かってこと、それだけ。 それでも、ぼくら科学者だってそれなりの社会的存在だから、こういうエールを受けると素直にうれしい。 元気がでます。 ありがとうございました。 読んでくださってますか、Joel と Gene?
大量の書類やら未整理の計算用紙やらを処分。 まだまだ汚いけれど、当社比では、もう至高の片づき具合。 なんか、生まれ変わったように能率的に仕事ができそう(な気がする)。 がんばります。
とはいえ、driven lattice gas の摂動計算についての膨大な未整理の計算が発掘されたのはショック。
こんな計算を日々やっていたのだねえ、わたしは。
それなりに意味のある結果もあり、それなりの知見も得たのだけれど、けっきょく、それほどすごいことにはならず、面倒で何一つきちんとまとめずに、他のことに移ってしまったであったなあ。 今となっては、計算用紙には番号もふられていないし、ぐちゃぐちゃにシャッフルされているし、何がどこまで出たかもわからないし、ぜんぶ捨てるしかないのでした。
ま、理論物理学者というのは、こうやって成長して行くものなんでしょう。
よく働いている私なのだ。
物理学者的に、というより、物理的に、よく働いているというべきかも。 ともかく、佐々さんとの論文改訂作業なんかをしてた割には、なんと、昨日(といっても、深夜だから日付は今日だけど)のうちに三科目とも試験の採点がぜえええんぶ終わってしまっているというから、われながら、すごい。
大嫌いだった試験の採点も年をとるとだんだん好きになってきた ─ なんてことは、ぜったいなくて、今でもいやでいやで仕方がない。 そばに論文があったり面白そうな本があったりコンピューターがあったりすると、ついそっちに手がのびそうになる。 でも、でも、この夏は、たまりにたまっている論文のまとめとか、考えたいことを考えるとか、ともかく、猛然とやりたいことがあるので、給食とかでまずい物をまず全部食べてからおいしいものを食べる心境で(と書いてみたが、ぼくらの時代はまずいものはいっぱい出たけど、是非食べたいようなおいしいものって出なかったなあ。いっぺんだけ、揚げた麺に熱いスープをかけて食べるラーメンもどきが出たことがあって、ガキの頃からラーメン好きだったぼくは大感動したのだけど、本当においしかったのかどうかは、今はわからない。いずれにせよ、あれは結局二度と給食には登場しなかった。)、あえて、つらい採点を終わらせてしまったのでした。パチパチパチ。
というわけで、答案返却は原則として可能なのですが、この夏はちょっと特殊事情があって、お返しできる機会はすごく少なくなりそうです。
明日 22 日は大学院入試の筆記試験。 ぼくが採点に入ってしまったら来客お断りモードになるので返却はなし。 明後日の 23 日は、朝から大学院入試の面接、 そのあと会議で、丸一日つぶれるので、返却は不可能。 24 日は、今度部屋の窓のサッシを取り替える工事をしてくれる(←うれしいような、めんどうなような)らしくて、そのために、部屋の荷物を移動する(といっても、部屋の内部の物質量を変えずに、壁を動かして体積を変える ─ という商売物的な話で、なんかめちゃくちゃ大変そう)作業があるので、なんかわやくちゃでしょうね。
この機会に雑誌でもっている Phys. Rev. Lett. を全部捨てようかな、と思っているのだ。 いや、別に、referee C がむかつくからじゃなくて、全巻をネット経由で全部みられ今となっては、印刷したのを部屋に置いておく意味はゼロだから。 荷物移動や片づけを手伝ってくれた人に答案返却することにしようか、なんて、書いてみたが、手伝わされたあげく不本意な結果の答案をもらったりすると、やりきれないだろうから、この案はやめ。
考えると、24 日以降は、部屋が工事モードになってしまうので、大量に印刷したり、大きなファイルをやりとりしたり、といったどうしても大学でなくてはできない仕事以外は、極力家にもってかえってやることになるだろうなあ。 なにせ、今日、大学に行って、途中でトイレにいこうとしたら、これも工事中で便器が全部はずれて壁に便器の後だけが不気味に残っていたので、大いにびっくりした。 不便きわまりないと書いてみて気付いたが、不便という熟語の語源はこういうところから来ているに違いない。 (ナカムラさん、ごめんなさい。また翌日になってネタを追加してしまいました。)
というわけで、この夏は巡り合わせが悪いので、ま、あわてずに、新学期になったら取りにきてみてください。
あー。
がんばり過ぎたせいか、今日は、へろへろになってしまった。 暑いし。 年齢を重ねるというのは、こういうことなのかねえ。 困ったもんだ。
それでも、本棚にあった PRL を撤去する作業は完了。 大学院入試関連業務へ。
窓サッシ工事のための荷物移動作業。 せっかくなので、記録の写真をとっておいた。
ちょっと解像度を落としすぎたかもしれないけど、左の写真が、荷物や机や本を移動したあとの状態。 窓から2メートルくらいの範囲をいったん空っぽにして、新しい仮の壁をつくり、それからサッシの交換をして、最後に壁を取り除くらしい。
今は、窓から2メートルにほぼ何もなく、かつしきりの壁もないので、統計物理の講義とかでよくしゃべっている非平衡状態(しかもきわめて不安定なやつ)が実現している。 ここで、自然な統計的法則に従うなら、壁から2メートルの真空は、たちまちのうちにいろいろな物やがらくたで満たされるはずなのだが、そこは、それ、強い意志の力でエントロピー増大をおしとどめているのである。
右の写真は、今までの鉄製の窓サッシ。 窓の外には、すでに足場が組んであるのが見えている。
さて、この結構ぐちゃぐちゃな状況が、これからどうなっていくのか?
待て次号。
少し前(7/11)に、
台風一家というどうでもいいことを、ついできごころで書いてしまった私だが、こういう心底どうでもいいような話に限って、人からレスポンスがある、という経験則はまたしても真実となってしまった。
あの記事をネット上にあげてから、ほんのしばらくしたところで、一通のメールが届いた。 差出人は、nakamura である。
にゃるほろ。 こういうくだらないネタに即座に反応してくる nakamura といえば、中村広しとはいえ(←なんか、中村広という人みたい)、一人しかいないだろう。 大仏率のナカムラ氏に違いあるまい。と多くの慧眼なる読者は思われたに違いない。
慧眼なる私もそう思った。
しかし、きわめて慧眼なる私は、もーナカムラさんはこんなしょうもない話にわざわざメールをくれて困った宇宙プラズマ物理学者だなあ --- とか思いつつも、わずかに引っかかる物を感じたのだ。 メールの nakamura 氏は、私の日記への反応に続いて、「力持ちの台風とうさん、優しいけれど怒ると怖い台風かあさん、そしてオイラはやんちゃ者の台風小僧」とくれば、
そして、おじさんは冬将軍というネタを思い浮かべると書いているのだ。
む?
なんだ、ナカムラさん?
おもろないやないけ!
駄洒落にもなっていないし、パロディ色もないし、とくに脱力するわけでもない。 いろいろ考えても、深い意味があるようにも思えない。
「あ、でも、くだらないジョークってのがナカムラさんの持ち味じゃないの」というあなたは、まだ、ナカムラさんという人を知らない! (←いや、別に知らなくてもいいんですけど。 (と書いていてみて、ぼくはナカムラさんをしっているのかと考えると、ぼくは彼とは会ったことはおろか、電話で話したことも、道ですれ違ったことさえもないのだった。道ですれ違うといえば、ちなみにぼくは、ヤスシキヨシと渋谷の歩道橋ですれ違ったことがあった。すれ違ったあと、いっしょに歩いていた友達とぼくが「今のヤスキヨやんか」と話していたら、わざわざ向こうも振り向いて、「俺たちを知ってる奴らがおったぞ」みたいな感じで、こちらを見ていた。当時、東京の人はほとんど彼らを知らなかったのだねえ。あれからすぐに爆発的漫才ブームが日本を席巻し日本中に彼らを知らぬ人はほとんどいなくなること、その後彼らのうちの一人は国会議員となり、もう一人は様々な問題を抱えて早々に世を去ることなど、あのとき誰が予想し得ただろう・・・・って何の話だ。)) たしかに、ナカムラさんが、しょうもない(注:今さら言うまでもないかもしれませんが、関西弁の「しょうもない」は関東弁の「しょうがない」に対応する言葉ではありません。「しょうがない」に対応する関西弁は「しゃあない」です。「しょうもない」はあえて訳せば「つまらない」や「くだらない」になるでしょうが、終局的には翻訳不能な概念かもしれない。)ジョークを繰り出すのは事実だ。 しかし、ナカムラさんといえば、こてこての日本的文脈のなかに、浮きまくったいかにものアメリカンジョークをみごとに挿入し、われわれ読者を文化的差異と反復のもたらす漸進的横滑りの快楽で陶酔させてくれる --- みたいな高級技をさらりとこなすほどの力量の持ち主なのだ。 彼の場合のしょうもなさは、絶妙の背景のなかに絶妙のしょうもない話をはさみこんでくるが故に、しょうもなさそのものがある新しい次元を開く自立した力となりうるほどのしょうもなさなのである。 「しょうもなさの達人」と呼べる域に達した人といってよいだろう。 (←こう言われても、うれしくないよなあ。)
これだけのことを瞬時に考えた私は、すでにナカムラさんあてに書きかけていたメールの手をいったん止めて、もう一度、差出人のアドレスを丁寧に確認した。 (←最初からしろ。) なんだ。 @ の後がぜんぜんちげえや。 やはり、これは別の中村氏であった。 上でおもしろくないとけなしてしまったので、どこの中村さんかは書かないことにしよう。 前に登場した(3/28)中村さんとも、もちろんちがう。 中村さんだけど匿名の第三の中村さんである。 (関係ないけど、理論物理学者の伝記映画で「ダイソンの男」ってのは、どうかな、Freeman 先生?)
と、これだけのことなら、取り立てて日記に書くほどのことでもないであろう。 ところが、もうしばらくたったある日、ぼくのところに正真正銘のナカムラ氏からメールがきたのであった。 内容は、微分形式と電磁気学についての、きわめてアカデミックなもの。(ナカムラさんとぼくがやりとりするメールの主内容はすべてアカデミックなものです。当然だろうけど。)
だが、アカデミックな本論だけでは終わらないのがナカムラ氏である。 彼も、また、「台風一過」と聞くと、「台風とうさん、台風かあさん・・・」と考えてしまう、というコメントにつづき、彼は、
「フロベニウスの定理」というのを見ると、「風呂辺に臼」というちょっとシュールな情景を思い浮かべてしまうということが述べてあった。
風呂辺に臼ううむ。これぞ、正真正銘のナカムラさん。
大きな声に出して言ってみようではないか。 シュールさを、よりひしひしと感じることができよう。(←すみません。本当は言ってません。そばに家族がいるし・・・)一過に一家に一台、風呂辺に臼。
ぼくは、一頃、ペロン=フロベニウスの定理を使った量子多体系の論文をいくつか書いた(そして、この定理の安直な応用に飽きた)のだけれど、この呼び方だと、
ぺろおん、風呂辺に臼となって、風呂でのぼせて、(例の時計みたいに)ぺろおんとなった臼の姿が目に浮かんで、よりシュールではなかるまいかなどと考えつつ、ナカムラさんからもらった微分形式の解説を感心しながら眺める私でありました。