茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
12月になった。12月の旧名は師走である。師走は“師が走る”と書くが、私も教員のはしくれである以上は走り回ってなんたらかんたら。
なにものかに操られるかのように、凡庸きわまりない事を書いてしまった。 たしかに、12月はあわただしいというイメージが濃厚なので、走る走らないは別として、ついつい焦ってあわてなくてはならないような気がしてしまいますよね。 でも、落ち着いて考えれば、ま、別に12月になったからといって、何が本質的にかわるわけでもなし、あわてたりする必要もないのである。 のんびりいきましょう。
もしあわてるべき人がいるとしたら、辞典の原稿の締切が着々とせまるのに根本的なところで悩みはじめて執筆が完全にとまっていてさらに来週からいろいろ忙しかったりして絶望感が高まっていたり、そこに加えて、ずっと前から頼まれている本の原稿が(共著者でなく)ぼくのせいで停滞しているところに催促のメールが来たり、もっと身近のところでは、明日の講義の準備がまだ半分くらいしか進んでいない(話のついでの Poincare の再帰定理がでてきたので、初めて真面目に証明を読んでしまった。せっかくだから、明日これをやりましょう)のに web 日記 logW をログウってたりするとか、そういう悲惨な状況にあるとかそういう人でしょう。
ああ、さすがに余裕がない。
来年度の時間割は夕方までにすべて決まったからあとは書き写して事務にわたすだけ。 (そのとき、自分用のコピーを取るのを忘れないこと! 変更や問い合わせがあると、毎年、右往左往するのだ。) 数学辞典の原稿の分量をようやく把握し、半分までの草稿を書いた。 (logW の元になったボルツマンの公式ものってるよ!) が、これから二つの異なったトピックスを書く予定なので、まだまだ先は長く、うねっている道なのだ。
そんなこんなで、いただいたメールに返事は書かないし(該当されるみなさん、ごめんなさい)、ここを書く余裕もなかった。
「日々の雑感的なもの」が更新されないと、とても寂しい。 個人的な意見だけれど、やっぱり、わたしは web 上の読み物では「雑感」がいちばんおもしろいと感じる。 コンピューターに向かっていても、つい、「『雑感』の新しいのを読みたいな」という気になってしまう。という声も届いている。
作り話ではありません。
ほんとうに届いています。
ぼくの内側から・・
でえい、今さら隠したってしょうがない。 そうです。 ぼくは、あんまり web 上で色々なものを読んでいるわけじゃないけど、すなおに、自分の「雑感」がおもしろいと思うのであります。 趣味も合うし、興味が似ているし、読むのに適切なバックグラウンドの知識ももっているし・・・って、自分で書いているんだから当たり前だけど、ま、世の中そんなものではなかるまいか? じゃ、自分用の日記を書いて一人で読んでいればいいじゃんかというと、それがまたちょっとちがうんだよなあ。 やっぱり、人のために、それなりに気を使った自分の書き物を、なんとなく半歩引いて読むのがやっぱり愉しいのかもなあ。 それってアホかな?
と、せっかく書いても、仕事で疲れきって自己中心の事どもを書き殴っているようでは、誰も喜んではくれないだろうなあ(俺以外)。
いよいよずっと寝る寸前まで仕事をしているので、「雑感」を書く暇なし。 でも、何もないと寂しいので、今し方、ある方に送ったメールのなかの一文をコピペして、本日の雑感に代えさせていただきます。
(ちなみに、いま、深夜の一時半です。雪の中大幅に遅れた電車にゆられて駒場に行き、講義をし、佐々さんに数学辞典の内容について相談し、あわてて学習院に戻って教務の雑用をし、夕方家に戻ってからずっと夜中まで数学辞典の作業をし、いま、ビールを飲みながらこれを書いているので、バランスは狂っているかもしれませんが、正直な意見です。)雰囲気は伝わるよね。 目上の方に偉そうな意見をしてしまった言い訳の部分でございます。 (←「目上」と言われるほど年上ではないとのお叱りをいただいてしまった。)
今日もコピペだ日記が楽だ!(自分で書いたメールのコピペだけど。)
おかげさまで、「ある種の方向性を理解しうるような数学者、数学者の卵(後者の方が大事であろう)を刺激する」という感覚がなんとなくわかってきた、あるいは、よみがえってきた。 そういう空気を発散する物にすべくがんばります。数学辞典の草稿がおもしろくない、という指摘を受け、最初は「だって分量が・・」と答えていたのですが、「いや、俺がやらねば誰がやる」と立ち直って書いた返事。
第4版への期待が高まりますなあ。 編集担当者ともメールのやりとりをしているのだけれど、紙魚対策のことをたずねてみたものか・・・
いよいよ佳境、実況中継メールコピペシリーズ。
あ、書き忘れた。知的誠実さと人間的傲慢さが混沌となった興味深い文ですなあ --- と思うのは本人くらいか。さっき送った第三部の草稿の「粗視化された状態空間」のところで、無限集合を定義した直後に「有限集合としよう」という謎の文がありますが、消し忘れです。すみません。
前のバージョンでは、マスター方程式が楽になるので、S を有限集合にしていたのです。しかし、次に Langevin を書くことにした以上、整合しないと読者が気持ち悪かろうという細やかな心遣いで、ここも連続変数に変えたわけです。意味不明で関連性の低い式を書き連ねる××××××に、みならってもらいたいものであります。
今月の(ぼくの)言葉から。
講義というのは、教員が自らを教育するすばらしいチャンスですからね。そのことを自覚していない人は結構いるのではないか? 自分も習ったから当然できるはずとか、今の専門ならば簡単にできるはず、とか。 予備知識はもとより、方向感覚とか世界観とか常識のない初学者を相手に、なにかを教えるというのは並大抵のことではないのだ。 自戒をこめての発言。
お互いに「先生」と呼び合っているような風土は研究にはあんまり向かないんですよ。研究だけじゃない。 今、数学辞典の原稿を準備しながら、ぼくの周辺の人たちは書きかけの原稿を互いに見せ合い、それに対して、お互い遠慮なく批判しあいながら仕事を進めている。 人の批判のいかに有益なことか、そして、人を批判したことによって自らが引き受けるプレッシャーと責任のいかに重いことか。 こうやって、われわれは、能力以上の仕事ができるのだと思う。 「先生がお書きになったものなら、間違いはないと信じております」とか言って相互チェックしなければ、やっぱり甘くなると思うのだけど。 そう信じて、ほとんど交流のない方の原稿にも、図々しいコメントを書き連ねる私であった。 そういった思いもあっての発言。
○○さん、Norton Utilities が届きましたよ。 これで、コンピューターのいろいろな問題が直るそうですよ。 ただし、Windows であることだけは、直らないらしい。ベタな Mac user 的発言。
ハーマイオニーたん萌えだからじゃないの?説明略的発言。
忘年会
年末は忙しいということになっているくせに、年末に宴会が多いというのも妙な話。 なにかの陰謀のにおいを感じますね。 日本社会を陰から支配するなんとか、みたいな。
そういった陰謀からフリーであるべく、忘年会は厳選して、居室のすぐ前でやるやつ一つしか出ません。
しかし、準備の様子を覗いたら、高麗さんの指導のもと、K 君と T 君が黙々と働いていたのはいかがなものか? それぞれ、一年と三年ほど前に卒業していったはずなのに。
M 君から、彼のいる研究室のメンバーになった外国人が、じつは、アニオタだったという話を聞く。
ぼくらの知らないマンガのことも知っているんですよ。 キャプテンハーロックとか。なぬ?
でえい。 「キャプテンハーロック」も知らんようなやつは、 もはや、教え子でも門弟でもないわっ! (もともと門弟とかいないが。)というほどのこともないが、ぼくらは会うといっつもアニメの話をしとるのかな(6/2/2001)?
しかし、
フランスでも「ハイスクール奇面組」が人気だったという情報は興味深い。 ほんとにおもしろいと思うのか? そもそも「まつも といよ」とか、「こやくしまる ひろ」とかああいうネタはどうしようもないだろうし、それを除いて何が残るんだ?
よく働いた一日。
いちおう思ったとおりの現象がきれいに見える。 SST としては正道である一種類の粒子のバージョンもやってほしいと頼むが、いずれやる、とのお答え。
食事から戻ると、佐々さんは大学院生の部屋に移動して、よりスムーズなアニメを見せていた。
二種粒子系のアニメを見た後、大学院生のみなさんの挑発、励ましに押され、佐々さんがその場でプログラムを書き換え、一種粒子のアニメの上映会。 (ぼくが提案してもやってくれなかったのに・・・)
さて、さて、きわめて非自明な非平衡効果が見えているような気がするが、いかがなものか? Sasa-Tasaki 論文に書いた思考実験の具現化であり、先入観があるせいか、われわれの予言通りのことがおきているようにも見える。 しかし、きちんと圧力や運動エネルギー分布のデータをみるまでは、何も言えないのであろう。
コンピューターの画面上で、赤い粒子たちがぐにょぐにょと押し合いながら動き、緑色の壁から反射されたり壁をくぐったりする。 画面をじっとみていると、赤い粒子たちがなにやら意味ありげなパターンや文字を描き出そうとし、ぼくに秘密のメッセージを伝えようとしているかのような錯覚にとらわれ、画面から目が離せなくなってくる。 こういう人は数値計算には向かいないのかもなあ。
清水さんとは、ぼくの数学辞典の草稿、清水さんの量子力学の本の草稿について、議論。 お互い「先生」とは呼び合わず(あたりまえだよなあ)厳しく批判しあうという理念を実践中。
緊急に処理すべきことをいくつか。 電話もかける。
主として、休養と雑用。
体調が今ひとつで悲しい。
どのくらい今ひとつかというと、夜寝る前のビールをやめるくらい。
お腹もでてきているし 健康のためにもいいのだろうけど。
どのくらい今ひとつかというと、雑感を何の理由もなく一日遅れでだらだらと書き足したりするくらい(←これも 26 日の夜中に書いている)。
どのくらい今ひとつかというと、けっきょく、もうビールを飲んでしまっているくらい。
大掃除の季節、らしい。
しかし、この乾燥して寒くていかにも風邪をひきそうな時期に、わざわざほこりを吸ったり寒い風に吹かれながら必死で掃除をするというのも妙な話。 そもそも年末忙しい上に忘年会なんかで体力を消耗したあげく大掃除まで敢行して体調を崩す日本人の如何に多いことか! 年末の大掃除という暗黙の慣習には、なにかの陰謀のにおいを感じますね。 日本社会を陰から崩壊させようとするなんとか、みたいな。
というわけで、陰謀をいち早く察知した私は、わが家では大掃除は年末ではなく気候のよい春休みにおこなうという新方針を数年前に打ち出したのであーる。 みなさんにも、春の天気のよい日の大掃除をおすすめします。 気持ちいいですよ。 (ま、暮れにも多少家の中をきれいにしたり、外を掃除したりはするけど。)
最近は、清水さんと早川さんの本の草稿を読んだりコメントしたりして過ごしている。
たった今、清水さんから送られてきた最新の原稿を印刷したところ。 ううむ、大作。 3章まででもこんなに長い。
以下、心の動きを実況中継。
「ひえー、ながい。」
「大変そうだなあ。」
「そうだ、ぼくの熱力学も大変だった。」
「よし、ちゃんと読んでコメントできることがあればコメントしよう!」
まえに、腰痛の対策として
一日に数十分、大股で足早に歩くことがとても効果的だと人に教わった。
幸いにも、自宅から大学まで、早足で二十分。 往復すれば、適度な運動になり、腰痛対策のみならず、いろいろな意味で体によさそうだ --- というわけで、昨日も、今日も、ちょっとした用事(清水さんから届いたファイルの印刷)を兼ねて大学まで冬の町を歩く。 いつもと違って重いカバンを持っていないので、両手を規則的に振りながら、なんか妙な言い方だけど、「まじめに」歩く。 これが、なかなか不思議に新鮮で、自分の中で生き物としてのバランスが、うまく取れてくるような気がするのだなあ。
基本的に(Dirac の量子力学に感動して物理学科に進学することに決めたと自称している)ぼくの趣味にあった本であり、かつ、ある種の読者を知的に刺激する「清水節」が随所におりこまれていて、とても愉しめる。 来春発売されたら、是非、みなさんも読んでみてください。 (清水さーん、宣伝したじょ!)
それでも、一生懸命読んでいると、自分ならこういう風に構成してこういう風に論理をもっていくだろうなあとか、やっぱりこういうところに力点を置きたいなあとか、この概念は導入したいなあとか、思うところがいろいろと出てくる。 実は、量子力学の入門書 --- 物理志望の学生さんも数学志望の学生さんも楽しく読め、正確な知識と考え方が身に付き、かつ、正しい知的刺激を受けるような教科書 --- を書きたいというのが、ぼくの(めっちゃ数多い)夢の一つなので、こうして清水さんの本を読んでいると、ぼくも早く書きたいなあという気持ちになってくるのだ。
あ、もちろん、その前にやらなきゃいけないことがたくさんあるのは忘れてはおりませんが。 (だいたい、「世紀の第論文」とか、シャレにならないくり延び延びになってるし。 実は、もう投稿可能な形にはなってるのですが、最後の仕上げを延ばし延ばしにしているのです。)
今年やり残したことを年内になんとか・・などということが言えるレベルとは決定的に隔たってしまっている私なので、かえって気楽にすべてを来年に持ち越すことができるのである。
というわけで、自分の論文も原稿も仕事(←これだけは、つねにバックグラウンドで頭のなかで走っているが)もとりあえずは横に置いて、清水さんの量子力学の本の草稿を読みながら、ベルの不等式と戯れる。 EPR 相関なんかはただ気持ち悪いだけの現象だが、ベルの不等式の破れこそが量子論の真の性質を表すのだ --- という何度か聞いた標語の意味をはっきりと理解したと思う。 これだけでも大きな収穫である。
ごちゃごちゃ言う前に、物理はおもしろいと実感する年の瀬であった。
年の区切りなど意味はないのだが、そんな理屈も吹き飛ぶほどに、今年の研究者としての自分は不甲斐なかったという強い思いを抱きつつ一年の終わりを迎えつつあります。
私的には例外的に忙しいことが三つくらいあった多忙の当たり年。 仕事の方でも予期せぬ事があってめちゃくちゃ時間とエネルギーをとられた。 言い訳なら四年分くらいあるかもしれないけど、でも、でも、そういうものじゃないのだなあ。 甘やかしちゃいかんのである。
別に論文を書かなかったとか、そういうことはどうでもいいんだけど、ほとんど何も生み出さなかった、自ら新しい一歩を踏み出した実感がなかった、ほんとうに新しい風景をみたという気がしなかった、研究者としてのエネルギーがもう全然たりなかった、要するに、ダメだった。
こういうときは、年の変わり目とかいう古来の考え方も悪くない。
来年は、いろいろな意味で体制を立て直して、今まで以上に有意義に月日を過ごそうではないか、と決意を固めつつ今年の雑感の結びといたします。 (←平凡なおわり方というのも悪くないでしょ?)
年末の挨拶を書き忘れていたと思ったら、(暦の上では)日付がかわってしまったので、ちょとずるいけど31日付けの雑感。
きんとんを作ってみても、ミキサーにおける撹拌される相と止まったままの相の分離(ずり系 SST だなあ)、裏ごしの力学、甘露煮の汁と砂糖とすりつぶした芋を急に混合した場合の「だま」の発生、加熱による粘性の増加、粘性の高い流体中の突沸、などなど、ロゲルギストエッセイ風の話題には事欠きませんが、そういったところを掘り下げるのはもうちょい年齢を重ねてからにいたしましょう。