茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
5 月か。(といっても、まだ1日になったばかりの深夜なんだけど。)
logW をざっと眺めると、4 月は長かったなあと感じる。 月初めに書いたネタが既になつかしいわい。 やっぱり、まわりにいる学生さんたちの顔ぶれが大きく変わり、講義のクラスも新しくなると、それなりに緊張感があるということか。
我が家の近所で、国家権力を後ろ盾にしたとある団体が道路脇に何台も大きな車を止め、様々な装置を用いて、地中弾性ベクトル波を発生させている。 ところが、媒質が完全に弾性的でない上に特異な境界条件をもつため、このベクトル波のエネルギーが保存されず着実に減少していくのである。 減少したエネルギーの一部は、実は疎密ス カ ラ ー 波となって別の媒体を伝搬し、われわれの肉体に物理的心理的の種々の影響を及ぼしつつあるのだっ! (道路工事がうるさいってことですけどね。)
「ス カ ラ ー 電 磁 波というのは、いったい何なのでしょう?」と尋ねるアナウンサー。 ついさっき前野さんの日記のつっこみを読んだところだったので、なんとお答えになるかと思ったら、(前野さんのおっしゃるのと変わらず)「要するに、静電気のことでなんですよ」であった。
これは、前野さんのいうとおり、ちと、まずいぞよ。 「電磁気関連で俺の知っているスカラー量は電荷だけだ、だから、ス カ ラ ー 電 磁 波とは電荷に関わるものでしかあり得ない、そんな波はないぞ」といっているわけだから、まったく相手の言い分への批判にはなっていない。 いわゆる一つの既存のパラダイムの内側で安直に出した答えと思われてしまいかねない。
聞きかじるところでは、あの方たちは、「二つのコイルで作った電磁波が逆位相になって打ち消したときエネルギーの収支があわないから新しい未知の波が生まれている」と主張されているようだから、批判するとしたら、
さらに、大槻先生の「彼らは最新の科学用語を使うので、たちが悪い」というご意見に対して、アナウンサーが「具体的に、どういう用語でしょうか?」と聞いたところ、
たとえば、フ リ ー エネルギーって、
それは擬似科学用語(しかも、最新ちゃうで)やろがっ!と反射的にラジオにつっこむ私であった。(その後は、実際に、科学用語を挙げていらっしゃいました。)
いや、まじめな話、大槻先生にじかにコメントすべきなんだろうけど、先生とは一度だけパリティの座談会で顔をあわせた程度だし。大槻先生の知り合いと話すチャンスなんかも当分ないよなあ・・・
というのが普通の結び方だけど、どう考えても大槻先生と相当に近い人と、明日いっしょに昼飯を食うんではないか。
プルースト、長い八巻を読了し、九巻へ。 嗚呼、×××××××はもう・・・(ネタバレを避けております)。 この長い小説も、あと二冊になってしまったのか。 寂しいなあ。
さてと、私が隠れてこっそりと生物の基礎教養を勉強していたことは、多くの人にべらべらしゃべっているとおりである。 とはいえ、そのために通常の研究の時間は割く余裕はないので、元来、小説を読んでいた短い時間(一日のおわりとか、気力が出ない中途半端な時間とか、あと、そういう気分の時とか)を生物のお勉強にあてていたのだ。
プルーストを読み進んでいるということは、すなわち、生物お勉強はいったん中断して、また小説を読み始めてしまったのである。 理由を分析するに、
で、本題の(←本題かなあ?)プルーストに戻ると、ぼくは「花咲く乙女たち」のあたりがとても好き(アルベルチーヌたん萌え、ともいう)なので、そのあたりの想い出を胸に抱きつつ、八巻はけだるく愉しく読んだのであった。
それにしても
俺もそろそろいい年になり、世の中にあふれる本たちの中に本当に読むべきものなどほとんどないこと(まして、毎年話題になる本たちの中には、読むべきものなど絶無に近いこと)を、理屈でなく、納得した。 そろそろプルーストを読もう。と思って読み始めてからどれだけ経つのだろう? なにせ小説を読む時間はそもそもほとんどない上に、最初の方の巻は二度以上読み返したし、いろいろな事情で中断することも多いし(実は、他の本も飛び入りで読んでいるし)、しょっちゅう前に戻って読み直したりしているし、きわめてゆっくりした読書である。 もう数年間はずっとこれを読んでいるのか、と思ってからよく考えてみると、コペンハーゲンのホテルで二度目の「スワン家の方へ」を読んでいる自分の姿を思い出した。 あの街に行ったのは、人生で一度きり、すでに十年ちょっと前になる。
やれやれ。 こういう時間感覚を持つようになったというのが、年を取った最大の証拠だろう。 (しかし、うちの子供たちにとっては、物心ついてから、父ちゃんはずっと同じ小説を読んでるわけか。どんな父ちゃんだ。)
しかし、これほどに月日をかけて、のろのろと読んでいると、内容がすべて頭に入っているとか、そんなことは、もう、ぜんぜんあり得ない。 むしろ、昔読んだ部分などは --- 現実の人生にも似て --- 記憶のなかにとけ込んで、おぼろげな記憶や想い出になってしまっている。 ぼくが無性に好きなバルベックのあたりは、もはや現実の記憶との境目あたりに行ってしまっていて、ホテルからみた遅い午後の海の雰囲気とか、海岸できゃぴきゃぴ騒いでいる女の子たちをどきどきしながら見ていた感じとか、もう自分の昔の体験みたいな気さえしてくるのだ。
これと似た話で、うちの子供たちがまだ小さかった頃、エルマーの本を読んでやっていた時(ぼくは子供の本の朗読の名手だと自分で思っているのです。最近は子供に読み聞かせることなんて、ぜんぜんなくなってしまったけど・・)、竜の背中にのったまま海の潮が満ちてくるのを感じていたいやあな心持ちや、そのときの竜の背中の暖かさとかまで肌で思い出したような気になって「ああ、これはぼくが昔体験したことだ」という(ニセの)想い出に涙が出そうになったことがある。
子供の頃から精神生活の半分くらいを活字の世界で過ごし(←といっても、きまぐれに好きなものを読むだけなので、読書人として読むべきものをきちんと読んでいたりは、まったく、しない)、こうして大人になった自分自身の内面の世界(←くっさ〜)に思いを馳せるだに、それは現実の世界での多くの人々との関わりと、本の世界での体験が、不思議に混ざり合って累々と積み重なった不思議な構築物であるよなあと思う。 活字の力、というか、言語の力の、なんと大きいことよ、という凡庸な感慨がひしひしと。
それで、なんだ、一部の人文系の人のいうところの「言語学的転回」とかそういう話にもっていくのかというと、ま、そうでもないわけです。 なんとなく話がつづかなくなってので、ここらで終わりにしちゃえ。 これは、よくも悪くも、雑感あるいは S = k logW でございます。
駒場にむかう途中、井の頭線の渋谷駅ホームの売店にて、講義の前に飲む午後ティー(←途中の駅にはってあるポスターの中からあややのつぶらな瞳にみつめられて宣伝をされては、買うなという方が無茶な話である(買わないとお茶がないので無茶になるわけだが(おお、これが「無茶」の語源か?(んなわけない))))および「少年ジャンプ」を購入。 二人の子供たちがちゃんと打ち合わせをせず、それぞれ同じジャンプを買ってきてしまうというミスをしたことがあるので、明日はそのようなことがないようにきちんと話し合うようにと昨晩言ったところ、どちらが買うかで話し合いがまとまらず、けっきょく父が買ってくることになったという次第である。 だから、私は子供たちのために仕方なく買っているだけで、自分ではこんなものはさすがに読まないのである --- ということもなく、まあ、ちょっとは読みます。
といっても、(K さんじゃあるまいし)若い頃からずっと読み続けているわけじゃない。 おそらくは大学院をおわって渡米したあたりで全く読まなくなり、それからは、さすがに復帰することはなかった。 いつの間にか子供が大きくなり、勝手にジャンプなどを買ってくるようになり、ぼくも、ぼちぼちと読むようになってきた(といっても、三つくらいしかフォローしていないのだが)のである。
それにしても、自分でジャンプを買うなんて何年ぶりになるか。 十年じゃきかないけど、二十年ではないから、十数年ぶりというところか。
昔読んでいた頃と比べると、マンガも大きく変わってしまった。 「亀有」だけが未だにつづいているのは、驚異である --- と思ったらピッコロ大魔王がでてるじゃん。
などと、ジャンプが手元にない人にはわからないオチは無視するが、実は、ぼくはドラゴンボールも連載では見たことがないのだ。 ぼくらが学生で、みんなでジャンプを読んでいたころは、ちょうどアラレちゃんやひばり君の連載が始まった頃だったと思う。 希望に燃えたヤングであったぼくたちは、「にこちゃん大王ガ故郷ノ星ヘ帰レルノハ何時ノ事ダラフ?」とか「やあ諸君、また H 君が変態漫畫たる『ストップひばり君』を笑ひ乍ら読んで居るぞ。剣呑、剣呑」などと熱く語り合ったものである。 しかし、そういう馬鹿を言ってた W とかも、今や日本の情報学界にはなくてはならない人物になっているのだなあ。
子供の頃から精神生活の四分の一くらいを漫画の世界で過ごし、こうして大人になった自分自身の内面の世界(←くっさ〜)に思いを馳せると、って、まあ、それほどのことじゃねえか。
ほんとうは、議論すべき課題はたくさんあるのだが、今日は精神的に雑談の気分であり、これでよかった。(物理の話ももちろんしたが。)
5月12日だった」と学科主任からのメールが。
これからやるかよ、と思うだろうが、けっきょく、やる。 こういうものは、時間をかけてしまわず、せっぱつまって、一気に(しかし細心かつ堂々と)やるのがよいのですよ。
実は似たような原稿がもうひとつ。 そっちは風呂上がりにビールを飲みながら、かな? (でも、プルーストの続きも読みたいよお。)
水曜日の「英語でファインマンの輪講をする授業(4/16)」には、ついに、オリジナル実験装置が登場。
T 君が
This machine is called SATO TYPE 2.と言って取り出したのは、二種類の色(明るさ)が素早く交互に現れるのを見たときに人間が感じる flicker(ちかちかって感じ?)を体感するための装置である。 この部分の Feynman の記述がきわめて不明確なので、実際に試してみようと S 君(←イニシャルだけじゃ誰だかわかんないよね!)が作成したもので、先週の発表の際に S 君が携えてきたのだが、けっきょく発表がその部分まで進まず、むなしく持ち帰ったのであった。 その後、改良を加えた TYPE 2 が、今週になって登場したわけである。
SATO TYPE 2 の主要部分は、四枚羽根の簡易の扇風機で、その羽根に一枚おきに白い紙が貼られている。 さらに、扇風機の正面には、あえて風をさえぎるように紙がはられ、一部分だけ羽が見えるように四角い穴があいている。 (この目隠しの紙は黒いラシャ紙等であるべきだが、なんか、「トレーニングルームのスケジュール」みたいなのが印刷してある(いかにも適当な)白い紙なので、文字がすけて見えてしまっていた。) この扇風機がスライダック(←これが TYPE 2 になって付け加えられたのだ!)つまり電圧を変えられる電源につながっており、オプションの蛍光灯によって羽の部分を照明するようになっている。 (これだけの物をもって、学生さんの多い南三号館の三階まで来るのは、かなり勇気のいる行動であるのお。)
部屋を暗くし、蛍光灯で羽を照らしながら、スライダックを調整して扇風機の回転数を徐々に変えていくと、
なるほど、こういうことか。 Feynman の今ひとつの説明でわからなかったことが、よくよくわかるではないか。素晴らしい。
しかし、これだけでは Feynman の書いていることは完全にはわからないので、はやくも、SATO TYPE 3 への要望や提案が(英語で)どんどん提出される!
その後の T さんの発表も、OHP プロジェクターを二台使った色の感覚の錯覚の実演付き。 いよいよ、楽しい科学実験デモの実習授業として盛り上がりをみせて来て、うれしい限りである。 (あ、でも、元来の趣旨は英語での発表の練習なのだから、デモをやらないといけないということはないのですよ。)
月曜に伏木さんと佐々さんに会うのに備えて、剛体球(あるいは剛体円盤)系での化学ポテンシャルの「非破壊測定」の方法を整備。 どうも格子ガスにしても、非破壊測定の提案がぼくの十八番になりつつある。
得られた化学ポテンシャルの表式をみつめながら、shear のかかった系での非平衡秩序を調べる平均場近似を着想し、しばし悩む。 SST 関連で、(確率過程モデルを除けば)理論的に進められることはないのではという絶望と諦念に到達しては、しばらくすると、また、あきらめきれずアイディアを追うということの繰り返し。
ぼくらの人生にも似ている --- って、そりゃ、これも人生の一部だ。
このネタばっかしだが、しかたがない。 「英語でファインマンの輪講をする授業(4/16)」は、今日もデモンストレーション付き。 白と黒だけの模様のついた円盤を回転させると様々な色が見える(これみたいなもの)という実験。
デモの装置を作るため家にあった扇風機を改造していたら壊してしまったという Y さん(←ご家族の方には、心からおわびします)は、捨ててあったパソコンから冷却用のファンを取り出してきて、それで円盤を安定して回転させるしかけをもってきたのであった。 読むと見るでは大違い。 たしかに、実に不思議な色が現れる。 授業がおわった後も、しばし、みなで実験に興じたのであった。
要するに忙しいということか。
なんとなく関連する雑談となり、何十年か前に流行し、今はほとんど顧みられなくなったある分野についてぼくが質問をした。 佐々さんが答えて、曰く
けっきょくは、ゴールなき疾走という感があったふうむ。 こういう切り方というかまとめ方は、いつもながら、上手だと思う。
しかし、そのフレーズって、今のぼくらには、けっこうこたえるのではあるまいか?
(などと書きつつも、化学ポテンシャルの「真の定義」の可能性を求める日々。)
やれやれ。 こういうことを書くのは趣味じゃないけど、それにしても、ふつう電話で事務(←学習院じゃないよ)の人が
じゃ、電話なり、教務課(に)来るなりって言うか? 電話したり来たりする主体は、話し相手(教員)だよ。
実は、同じ教務から自宅に電話がかかってきたことがあるのだけど、こちらが受話器を取ると「ピーポポピー」と一時保留用の音楽がなっていたのだ。 怪電話じゃん。 「もしもし」と怒鳴っていたら女性がでたので当然の怒りを表明したら、わたわたしたあげく「ええと、私がかけようとした相手の方でしょうか?」って、誰にかけたかも把握してない。 「あなたが誰にかけたかったか、ぼくにわかるわけがないでしょう? どちらにおかけですか?」と聞くと、さらにわたわたして、まったく答えられず書類を探している様子。
そんなに事務の人との接触があるわけじゃないけど、上記二例のようなのはどちらも初めて。 これが巨大国立大学の教務の実態か?
何日も何も書かないうちに5月もおわりになってしまった。
書こうと思っていて忘れてしまったことも多い気がするけど、忘れていないことを今のうちに書いておこう。
トリニトロンの開発者であり、CD 開発の際のソニー側の中心人物。 さらに MD の開発にもかかわった、まさにデジタルオーディオの開拓者である。 彼は学習院の物理の卒業生で、今は総合基礎科目「現代科学」の講師をしていただいているのであります(以上、宣伝)。
CCCD をはじめとしたプロテクトについて彼の意見を聞いてみる。 妙なプロテクトをかけてもいたちごっこに陥るだけで不毛だという当然のお答え。 また、終局的には、媒体をそっくり物理的にコピーしてしまえば、どんな暗号技術をつかってもコピーは防げないだろうとのこと。
さらに、宮岡さんたちが CD を開発されていた当時、今のように「家庭で CD が焼ける」時代が来ることを予想していたか、と聞いてみた。 宮岡さんによれば、デジタル情報をすべて読みとって他の媒体(たとえばテープ)にコピーしてしまうという可能性は考えていたそうだ。 だが、まさか同じ CD の規格のまま書き込み可能なものができるとはまったく考えなかったそうだ。 記録に必要な精度を考えたとき、それは技術的にあり得ないだろうと思ったという。 その予想を打ち破ったのは、CDR に使う色素を合成した(企業の)化学屋さんたちだったわけだ。ご立派。
さいごは、レコード時代の想い出話になり、「クラシックの曲には、やはり、シュアーのカートリッジだ」などと言っていた(お若い読者には意味不明だろうが、いちいち説明しません。お父さんお母さんに聞いてください)のが懐かしい、などなど。
あ、そうそう。 「CD の録音時間を決める際に、ベートーベンの第九が入ることを考慮した」という話は都市伝説なんかじゃなくて実話でっせ、 ナカムラさん(←リンク先を探すの大変だった)。 ソニーのなんとかさん(名前を聞いたけど忘れた)がそう言って、みんなで計算して決めたそうです。
今日、台風の大雨のなか、玄関の外に出てみると、ついにヤモリ君は階段を降りきって、下のコンクリートまで達していた。 水がざあざあ流れている中で、じっと這いつくばっている。
いかにも家人に踏まれそうな危ない場所にいるから、少し動かしてやろうと思って、そっとさわってみたら、今日は、まったく動かない。 階段を降りきるという目標を達してお亡くなりになったのか、あるいは、その先にまだ目標をもっていたのに道半ばにして倒れたのか、あるいは、単に適当に動いて適当に死んだのか(←ま、そうだろうなあ)。 いったい、こいつはどういう一生を送ったのだろう --- どこで生まれてどこで育ったのか、長生きだったのか早死にだったのか、子供は作ったのか、などなど、顔見知りになったよしみでつい思いを馳せてしまう。 しかし、よく考えれば、(こいつに限らず)ヤモリのことは寿命も生態も何もしらない私なのであった。
この「おこのみで」を聴く(見る)ことができるだけで、3773 円は高くない。 それ以上言うことはない、と書きたかったが、このオープニング超不要とだけは言いたい。 誰でも言うことだろうけどさ。
嗚呼、それにしても夏のコンサート行きたいなあ。ファンクラブに入っとけばよかった・・
これについては、時間をみつけて、もう少し詳しく書く予定。