茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
すっかりごぶさたしています。
「アメリカに行く、旬のロブスターを食べたい」と書いて(書かなかったか?)旅立ち、その後、消息を絶ってしまったので、アメリカのどこかでバッファローに突き殺されたのではないかとご心配になった方もいらっしゃると思います。 申し訳ありませんでした。
もちろん、アメリカからは、無事に戻りました。 時差ボケもほとんど経験せず、きわめて健康的、かつ有意義な旅行になりました。
Chris のポスドクの Saar Rahav は、頭がよく幅広い物理を熟知している好人物。イスラエル出身の若者だ。 大学院生の Jordan Horowitz は、回転が速く意欲的な(しかし、決して安直ではない!)アメリカの若者。 彼らと議論し、彼らの仕事の話を聞けたのも、楽しい体験だった。
Michael Fisher とは、どういうわけか、何年か前にも二人で食事をしたことがある。 緊張するということはないが、こちらが勉強し始めたとき既に「神」の一人だった大家と二人で話をするのは特別な体験だ(Lieb ももちろん同じような「神」だが、彼とはずっと親密で密接な関係なので、また雰囲気が違うのだ)。 食事をしながら、ぼくの最近の仕事について話し、それから、Michael から、長距離相互作用(クーロンあるいは双極子相互作用)のある系の重要性とその研究の状況などについて教えてもらった。
食事のあとも彼のオフィスにお邪魔し、話の続き。 Michael の場合、一つの事について話しながら、時にはその問題の歴史にまでさかのぼり、時には黒板に簡単な式やダイアグラムをかきながら、よどみなく明晰に話してくれるので、聞いていて飽きることがない。
そろそろ Chris のところに戻らねばと思いつつ、前から気になっていた、相転移研究の歴史のことを質問してしまう。 何年か前に Michael の講演を聴いたとき、「格子気体の研究が始まったとき、『こんなものは気体ではない。これが主流になるなら私は分野を去る』と宣言して本当に分野を去ってしまった大家」の話しが出た。 この「大家」が誰だったか、記憶し損なっていて、ずっと気になっていたのだ。
質問してみると、それは Uhlenbeck だという。 なるほど、そうだったかと納得していると、「ほら、そこの壁に、Uhlenbeck らと写っている写真がある」と教えてくれる。 ずっと昔の STATPHYS の会議らしい。 「これが Uhlenbeck, これが私、ここに Lieb, Lebowitz, これが Kubo だ。」 みなさん、あまりにお若くて、さすがに分からない。
Uhlenbeck は、スピンの発見者とされる偉大な物理学者なのだが、時として、大きな間違いを犯すこともある、そういう意味では、不運な人だったという(スピンを発見しながら、ノーベル賞をもらっていない事に注意)。 たとえば、ボース・アインシュタイン凝縮を論じたアインシュタイン論文が誤りだと強く主張したのも、彼の(致命的な)誤りの一例だという。 格子気体の研究を否定したことについても、(明らかに後知恵だが)やはり、ある種の見通しの悪さがあったと言うことができるだろう。 格子気体の定式化の中では連続空間の粒子系の本質の一端が失われるのは事実だが、しかし、格子気体(つまりスピン系)の研究によって、相転移・臨界現象の理解が本質的に深まったのは事実だ。 スピン系にしがみついていてはいけないことはぼくの統計力学の教科書でも強調していることだが、だからといって、そもそもスピン系の研究を否定していたらマクロ系の研究はほとんど進まなかった事は疑いようがないと思う(連続空間の系は、それほどに難しい)。
色々と思いは尽きないが、旅行から戻って忙しいだろう Michael を占有するのも気が引けるし、Chris らに、われわれの新しい話をする予定だし、お別れを告げてオフィスを後にした。
忙しいと言っても、これは譲れない。
ZEPP TOKYO での東京事変のライブ。 少数の二階席を除けば、二千人が一階のフロアーで立ち見という、オールスタンディングライブである。
今回も、林檎以外では、ギターの浮雲に目がいく。風貌も以前より渋さを増しているし、演奏は相変わらず多彩で華麗。「群青日和」をキーボードなしで演奏し、キーボードのパートをギターで弾いていたのもかっこよかった。
林檎の歌では、やはり、亀田氏作曲の「閃光少女」と「私生活」を続けて歌ったあたりが最高だったかな。 もちろん古くからのファンとしては「丸の内サディスティック」は、どうかなるほど盛り上がったのである。
最初は、体力を心配して、(どういうわけか入ることのできた)最前列ブロック中央の一番後ろの柵にもたれながら、(それでも、ノリノリで)聴いていた。 後ろといっても最前のブロックなので、実は、相当にステージに近い。 幸い前に身長の高い人が少ない(女の子が多い)ので、ステージでのメンバーの様子もよく見える。 なんといっても、林檎さまが、もうすぐそこで歌っているではないか。うるうる。
そして、コンサートも終盤になると、いよいよ我慢できず、無謀にも前の方に進んでいくおじさんの姿があった。 アンコールのときには、ついに、ど真ん中の前から五、六人のところまでいってしまって、あたりの若者といっしょに腕をふって跳びはねていた。 あの最前列集団の中では、最年長だったという強い自信あり! T シャツで首にタオルという「正装」で臨んだが、それでも、最後は T シャツが汗でびっしょり濡れていた。 それにしても、こうやって元気に動けるのも、筋トレや水泳の成果である。体力作りをしておいて、よかったよかった。
しかし、(いくら水泳をしているとはいっても)ぼくのようなおじさんが最前列に混ざって死ななかったのは、今日の観客が、スタンディングライブとしては異例なほど控えめだったからだということらしい。 たしかに、異常な風体の若者とかはほとんどいなかったし、どうかなるんじゃないかと思うようなノリ方をしている奴もごく少数派だった。 「閃光少女」のサビに入るところなんて、さあ来るぞと思うと自然とジャンプし始めたのだけど、まわりの人たちはけっこう冷静。 それに、みんな歌わないんだなあ。ずっと歌うのはよくないだろうけど、「群青日和」「丸の内」「キラーチューン」くらいは、いっしょに歌おうよ。
それだけで感動だ。 自分が、なんかアホみたいに素直に彼女のファンなのだということを改めて自覚する。
だがしかし、ここまで近づくことができた以上、次の段階に進むには、もはや直接にお会いして対談するしかないではないか! これをご覧のマスコミ関係のみなさん、どうか、よろしくお願いします。
この年になってイカレ続けているのは、尊敬します。理想的生きざまです。と言ってもらえた。率直に、光栄なお褒めの言葉だと思っている。
考えてみると、ぼくは、中学・高校くらいまで(面白いことは言うけれど)どちらかというと保守的で堅物で面白みのない奴だったような気がする。 少なくとも自分ではそう思っていたし、(勉強は相当によくできたから)周りからもそういう風に思われていたんじゃないかな?
それが、大学に入り、大学院に進み、在学中に結婚し、プロの研究者として生きることになり、子供ができ --- と、人生が進んで行くにつれ、(人に迷惑をかけなければ)自分は自分の思いのままに生きていけるのだという事が次第にはっきりと分かってきたんだと思う。 今、大人になった自分をみてみると、中年男性というカテゴリーの中では、明らかに変なおじさんだし、大学のセンセイや物理学者という(「変なおじさん」の多い)カテゴリーの中でも、それほど凡庸な部類には入らないという自覚がある。
人生が進むにつれて堅物になっていくんじゃなく、年をとるほど「変に」なれる、あるいは「イカレ続け」られるというのは、確かに幸せなことだなあと、なんかしみじみと思ってしまう。 みんな、どうもありがとう(←ライブの余韻で明らかにハイになっている)。
iPod で「閃光少女」をくり返し聴く。
ときどき、あのときのステージの状況がありありと目に浮かんで、涙がでそうになる。 スタンディングライブでは、涙ぐんでいる余裕はなかったから、遅れて来ているのかも知れないね。
ぼくらが行った翌日の ZEPP TOKYO でのライブでは、観客の盛り上がりが今回のツアーで最高だったという話だ。 でも、そう言うことを聞いても、気にならない・気にしない。 ぼくは、あそこにいて、(場違いなおじさんだったかもしれないけど)心から盛り上がったのだ。 それで十分、すばらし過ぎる。
Steady State Thermodynamics for Heat Conduction -- Microscopic Derivationについて書いておこうと思う。
Teruhisa S. Komatsu, Naoko Nakagawa, Shin-ichi Sasa, and Hal Tasaki
何日かにわかたって書いているうちに、日記というレベルじゃねぇぞというほどの長さになったのだが、ま、このまま載せてしまおう。唯一の読者サービスとして、見出しをつけてパートに分けまする。
はじめに
まず、はじめに宣言。もし、ぼくらが本質的な考え違いをしていなければ、これは、ぼくにとって、これまでに成し遂げた中で、もっとも本質的な科学への貢献である(ただし、最高の理論的な業績は、未だにハバード模型の強磁性だと思っている)。 あるいは、ぼくが(たとえ曾祖母や祖父なみに長生きたとしても)死んだあとまで残るはずの(と自分一人で勝手に決めている)三つの仕事のうちの一つだとも思っている(11/26 付記:悔しいが、考え違いがあった。今でもいい仕事だが、これよりは、ちとランクが落ちる)。
基本的には個人レベルで研究を進め、単名、あるいは、二人連名の共著が多いぼくにとっては、きわめて珍しい四人の連名の論文である。 考えてみると、今までに書いた四人連名の論文は、Affleck-Kennedy-Lieb-Tasaki による二本だけだ。 AKLT は、書かれてから二十年を経た今でも引用され続けるヒット作だから、これも縁起がよろしい。
あと、これは、理論物理の仕事であって、数理物理ではない。 厳密に証明できている新しい命題は一つもないし、さしあたって、証明までもっていける自信はない。 だが、理論物理としての価値は十分に高いと信じている。
主要な結果(11/26 付記:最初に書いたより弱くなった)
前置きをしたところで、得られた主要な結果をざっと眺めてみよう。タイトルから明らかなように、これは、熱流のある系の非平衡定常状態についての熱力学(SST = Steady State Thermodynamics)を構築した論文だ。
さらに、この系は異なった温度の複数の熱浴と接触している。 熱浴は、お手軽にランジュヴァン方程式で記述してもいいし、きちんと別の古典力学的な(すごく)大きな系を用意してそれを熱浴として利用してもかまわない(必要なのは、論文の (1) の時間反転対称性だけ)。
このような系を長いあいだ時間発展させれば、熱の流れのある非平衡定常状態が得られる。 それを特徴付けるような熱力学を作るということだ。
まず、論文(今のところ最初のバージョンしかないので、それを見て書いています)の (2) によって、エントロピー S を定常状態の関数として定義しておく(この定義の意味は当面は気にしないでよい。ともかく、定常状態の関数としての S がきちんと定義されているのが大事)。 実は、この同じ S が (7) のような「シャノンもどき」の表式で表されるというのも、大きな驚きなのだが、その事実のもつ真の意味は(おそらく)次の段階で明らかにされるのであろう。
(6) の左辺は操作の前後でのエントロピーの差。 右辺は、操作の途中での熱に関わる量であり、対応するクラウジウス関係式の場合と実によく似た形をしている。 ただし、本質的な違いがある。 平衡熱力学では単なる「熱」だった部分を、「過剰熱」に置き換えてあるのだ。
熱流のある非平衡定常状態では、つねに熱がばんばん流れている。 だから、単なる「熱」は時間に比例して大きくなっていく量だ。 それに対して、「過剰熱」とは、実際に流れた熱の総量から、定常状態を維持するために流れるべきだった熱の総量を引き算したものである。 言ってみれば、外から系に操作をしたことによって生じた「余分な熱」だ。
「熱」を「過剰熱」に置き換えれば熱力学を定常状態にまで拡張できるのではないかと(純粋に現象論的な考察から)指摘したのは、大野・Paniconi である。 (6) は、大野・Paniconi の予言の具現化だといってよい。
Maryland で議論したとき、ぼくがそう言ったら、Jordan がすかさず "Do you have more? I thought this was already cool". と言ってくれた。 それは正しい感想だと思う。 (6) のように、(たとえ非平衡度(11/26 付記:と変化量)の二次までにせよ)純粋に操作的な量について熱力学等式が成立すること自体、まったくの驚きなのである。
だが、ここから先、より実用的で実験的予言をも含む熱力学ができるのだ。
簡単のため、二つの熱浴に接した系を考える。 一方の熱浴は、heat drain(熱の排出先)と呼ばれ、系がすばやく余分な熱を捨て、緩和するのを助ける。 もう一方の熱浴は、heat source(熱源、あるいは、熱流源)と呼ばれ、系の状態に鈍感で、(系に操作が加えられても)平均すると一定した熱流をつねに系に供給し続ける。
このような drain, source に接した系では、(15), (16) の熱力学関係式を(やはり、非平衡度の二次までについて)示すことができる。 (15) はエントロピーの温度微分とエネルギーの温度微分を結ぶ式、(16) はヘルムホルツの自由エネルギーの微分によって(一般化した)力を表す式である。 どちらも、平衡熱力学でお馴染みの関係と、まったく同じ形をしている!
「熱流を一定にすれば、健全な熱力学が作れる」ことを明示的に(マクロな現象論の立場から)議論したのは、Sasa-Tasaki だ。 そして、(16) は、まさに Sasa-Tasaki が予言した式である。 つまり、われわれの理論は Oono-Paniconi だけでなく、Sasa-Tasaki の予言をも具現化するのだ。
われわれは、「熱力学関係式が成り立つように諸量を上手に定義した」わけではないことに注意! (15) に現れるエネルギーは、(熱測定で決定できる)本当のエネルギー(=ハミルトニアンの期待値)だし、(16) に現れる力は力学的に実測可能な力だ。 (15), (16) はマクロな実験で決定できる量のあいだに成り立つ、まったく自明とはほど遠い関係式なのである。
実際、(15), (16) から出発して(平衡熱力学のときと全く同様に)観測可能な量のあいだの関係式(たとえば、マクスウェル関係式)を導くことができる。 これらは、原理的には、実験で検証できるはずだ。 圧力の非等方性についての等式がもっとも実験しやすい関係だろう(11/26 付記:非平衡度についての一次の補正があれば、この関係式は見える!)。
これらの関係が果たしてどのような物理的な意味を持ちうるのかは、これからじっくりと学んでいかなければならない課題だろう。
さらに、非平衡系どうしの接触という、Sasa-Tasaki で徹底的に吟味した方向もある。 論文には書いていないが、実は、それについても既に一定の結果が得られており、少なくとも弱接触極限というものについては、Sasa-Tasaki の提言は完璧に実現できることがはっきりとしている。 つまり、弱接触した二つの部分のバランスは化学ポテンシャルのつり合いで決定され、さらに、粒子数のゆらがいも化学ポテンシャルの微分で書ける。
考えてみれば、平衡熱力学にしても、「等温環境」や「断熱環境」といった特殊な理想化した環境を設定することで、はじめて見通しが立ち、明快な理論が作られたのである。 そして、そのような環境の設定は、統計力学の建設の際にも欠くことのできない役割を果たすことになる。
今、ぼくらは、非平衡定常系を正しく扱うための環境について、いよいよ本格的に学び始めているのではないか、というのが、われわれの(楽観的な)現状認識である。 そういう意味で、(十分に cool な)一般的なクラウジウス関係式 (6) を越えて、(15), (16) の熱力学関係式に到達した意味は大きいと信じている。
一方、あくまで source-drain の設定が必要だという事実は、非平衡定常熱力学が本質的に非局所的な性質をもっていることを強く示唆している。 一方向に長くのびた系を扱い、その両端に熱浴をつけて、熱伝導状態を実現しよう。 このとき、系の中央付近の小さな部分だけに着目して、(たとえば系の太さを変えるとか、その近辺にポテンシャルをかけるといった)局所的な操作をおこない、系の反応をみる。 当然の直感として、このときの系の反応は、系の中央付近の状況(つまり、そのあたりでの温度、熱流などなど)で決定されると考えたくなる。 しかし、これは正しくない可能性が高い。 新しくミクロからつくられた SST では、遠く離れたところについている熱浴の性質が、熱力学関係式に敏感にきいてくることを示しているようなのである。 これは、「ここから先」に進んでいく上で、是非とも深く理解しなくてはならない論点だと考えている(11月30日付記:29 日にこの点を完全に理解した。ミステリアスな事は何もないし、逆に、本質を示唆するような事ないようだ)。
研究の経過
長くなっているが、まったく気にせず、研究の経過についても、ぼくの視点で書き留めておこう。 佐々さんの日記の方には、かなりリアルタイムで進行状況が書かれているがこちらはまとめ書きだ。まず、今回の研究の前史として、佐々さんとの共同での SST の研究がある。 これについて書いていてはきりがないし、実は、この「日々の雑感的なもの」を精査すれば、唐突に非平衡系の研究を始めたあたりから、かなり詳しくリアルタイムの研究報告が書いてある。 もちろん、今では、本人にも、いつ何をやり、どこに何が書いてあるかなど、まったく分からなくなっているわけではあるが。
一方、今回のミクロ力学ベースの仕事の場合、出発点は明確だ。
5 月 19 日の日記をみると、
火曜に小松さんに教わった小松・中川の新しい結果を自分なりに消化する(楽しい)努力をして二つほどノートを書きとある。 だから(私の逆算が正しければ) 5 月 15 日に、小松さんが学習院にいらっしゃって、黒板に Komatsu-Nakagawa representation をさらさらと書き、線形応答(など)を駆使した導出を見せてくれたのだった。 これが、すべての始まりだった。
小松・中川の表現の意味はすぐにはわからなかったが(というより、今でも、まだまだ理解し切れていないと感じるが)、ともかく、きわめて美しく、それ以上に、示唆に富む表式だということは強く感じた。 また、使い古された(と思っていた)時間反転対称性についての関係だけから、このような、まったく見たこともない表式が得られるということにも衝撃を受けた。 今では、小松さんと中川さんの発見は、きわめて非凡な理論物理学上の業績だと確信している。
混沌とした(数値)実験や理論的考察の中から、新しい美しい表現をみいだすというのは、もちろんきわめて非自明な素晴らしいことで、時間をかけて努力すれば達成できるというような事ではない。 そして、研究の中で真に偉大なのは、そういう発見の部分である事は言うまでもない。 とはいえ、至高の発見パートは小松さんと中川さんが成し遂げてしまったわけだから、こちらは、できることをやるしかない。 さしあたっては、決してストレートとは言えない導出法を改善すること、そして、表式の精度を明確にすることが課題だった。
こういう風に、ゴールが与えられれば、あとは一種の練習問題だ。 「これほど美しい表式なら、美しい導出があるはずだ」と確信して、いろいろと考え、その日の深夜には導出の方針を示したノートを書いてみんなに送っている。 さらに、メールを調べてみると、 17 日の明け方の 3 時頃に起き出してきてメールを出しており、そこに、ベッドの中で目が覚めて考えていて「最短の導出」がわかったこと、さらに、小松・中川表現は非平衡度の二次まで正確であり、一般には三次以上の補正がある事がはっきりしたことが書いてある。
実際、今になっても、このときの明け方の導出が、もっとも能率的で、Komatsu-Nakagawa representation の一つの本質を表していると思っている(ついでだけれど、この導出というのが、なかなかすごい。有限の時間についてキュムラント展開をし、各項のオーダーについて形式的な時間に依存しない評価をおこない、さいごに、時間を無限に長くする極限をとる。数学としては、全くどうしようもない無茶な論法になっているわけだが、(おそらく)これは本質を突く「正しい」計算になっていると思われる。こういう「理論物理アクロバット」をぼくが自分でみつけたというのは、個人的には、ちょっと愉しいのだ)。
そもそも天才だったら、時間反転についての対称性を知った時点で、Komatsu-Nakagawa representation を自分で見抜かなければダメでしょう。 まあ、そこを自分でできなかったとしても、天才なら、あれだけ美しい表現を見せられたら、その先までずっと突き進んで行かなくちゃいけないはずだ。
速攻で最短の導出をみつけたあたりまでは悪くない。 さらに、ハミルトン系への拡張、導出の能率化、高次補正の議論といった、標準的な発展をみなで議論しながら進めていったのも、まあ、自然なことだろう。
し か し、後になってわかったように、K-N representation の先には、定常状態熱力学がきちんと待っていたのだ。 しかも、ぼくがみつけた能率的な導出法は、ごくごく自然に熱力学等式につながっていく論法になっていたのだ。 なーんで、それが見えずに、別の方向に行ってしまうんだよー、と今なら思うけれど、当時は(といっても、数ヶ月前なんだけど)それがぜんぜん見えていなかった。
ぼくは、K-N representation がミクロに見た定常状態測度の表式であるという事実に強くひかれて、そこから、一気に定常状態測度のもつ性質を示すことを色々と試みていたのだ。 これは、Sasa-Tasaki をやっていたころに提唱した「弱カノニカル性」という(今のところ全く不毛な)アイディアに未だにこだわっていたからでもあった。 何度もダメだと痛感しているのであきらめればいいものを、新しいとっかかりが見えると、ついつい、その方向で考えてしまう。 悪い癖なのかも知れないけれど、ひょっとして、百回の失敗のあとについに真実に至る道が開けるのかも知れない。 だから、こういう試みに時間とエネルギーを割いたことは反省はしていないのだ(でも、ほぼそれしかできなかったことは反省している。いろいろやらなきゃ!)。
そうこうしているうちに、STATPHYS に参加し、 仕事がいっぱいの忙しい夏休みに入り、とつじょスピングラスの相関不等式に取り組んだりと、あわただしい日々がやってくる。
ぼくが忙しい上に手詰まりになっていたとき、次の本質的な一歩をみつけたのは、佐々さんだった。 佐々さんの 8 月 11 日の日記に、K-N rep をヒントにして、シャノンエントロピーの操作的な決定法を見いだしたということが書いてある。 これは、今の論文の (6)、つまり非平衡のクラウジウス関係式の、系が運動量を含まない場合に相当する。 つまり、この時点で、SST に大きく一歩近づいたのだ。
佐々さんの発見を契機に、この結果を運動量を含む力学的な系に拡張することを中心に、小松さん、中川さん、佐々さんの間で活発なメールのやりとりが始まった。 面白いことに、ぼくは、このやりとりには全くと言っていいほど関わっていない。 生命科学科設立のための仕事が相当に忙しく、また数理物理夏の学校での講演の準備もあり、K-N rep について以前やったことをまとめていて、さらには、統計力学の教科書の大改訂作業という大仕事があり、時間がなかったということがあるのだろう。 それ以上に、この論点は既に三人が十分にやってしまっているから、自分が参加するまでもないという気がしていたのかも知れない。 また、佐々さんが、この仕事を「Hatano-Sasa の抜けていた穴を埋める」ものと位置づけていたので、それなら、気にしなくていいやと気楽に思っていたということもあるようだ。
こういうところも、見通しの力が弱いのだなあ。後知恵で思うことではあるけれど。
ぼくがこの仕事にまともに復帰するのは、北海道の学会から戻ってからだ。
北海道では、半日以上の時間を小松さん、中川さんと過ごし、K-N representation の周辺について様々な議論をした。 ぼくは主に聞き役で、お二人から、高次補正の性質、エントロピーの時間変化などの重要な論点について教えてもらった。 また、中川さんからはポスター発表の内容である、系のパラメターを変化させる場合の扱いについて教えてもらい、いろいろとコメントした。
やはり人と議論するのは大事で、この中川さんのお話を聞いて、ようやくパラメター変化する系を扱う意義を感じるようになった。 東京に戻っても、雑用の嵐だったのだが、数日後に、頭を整理してベッドに入ると、いくつかの事が一気につながった。 K-N representation の導出を少し変形すると、規格化因子を使った熱力学関係式が書ける。 一方、K-N representation の指数の中身のもっている性質(←これについては、妻と江戸の屏風絵の展覧会に行って展示を見ている途中で気がついて以来、ずっと気になっていた)を使うと、この規格化因子は、シャノンエントロピーに他ならないことが分かる。 つまり、佐々さんが出したシャノンエントロピーの関係式の新しい導出ができたことになる。
こうやって自分で導出できたところで、ようやく(今さらかよ、という感じだが)この関係式のもつ物理的意味が見えてきた。 大学に行く途中の道で(今でも、あのときの道の様子はありありと目に浮かぶ)、ここには基本的に SST があるし、少し変形すればヘルムホルツの自由エネルギーを含む操作的な関係式も作れると認識した。 もちろん、これは、他の三人にとって本質的に新しい話ではない。 しばらく前線から離れていたぼくが、残りの人たちの認識にようやく追いついたということである。
このあたりを三人にメールで伝えたのが、9 月 27 日。 運動量のある系については、ぼくの結果に登場するエントロピーはシャノンエントロピーとは異なることを指摘されて理解する。 運動量のある場合についての佐々さんの結果の拡張も(ぼくがぼけっとして見逃していたのだが)すでに 8 月中に得られていて、ぼくは、その新しい導出法をみつけたのだということになった。
ところが、ところが、中川さんが、佐々さんの書いたシャノンもどきエントロピー(論文の (7))と、規格化因子から決めるぼくのエントロピーが一致しないことを指摘した。 たしかに、ぼくがやっても、どうも微妙に一致しない。 当然一致するはずだと答えていた佐々さんも焦りはじめ、たしかに一致していないことを確認。
ここらへんで、みんな混乱してしまって、どちらかの導出が間違っているか、両方間違っているか、などと悲観的なシナリオに走り始める。 しかし、どちらの導出も、何度もチェックしても、間違いがみつからない。 なにかとんでもないことが起きているのだろうかと騒然としてたところ、小松さんと中川さんが、佐々さんのエントロピーとぼくのエントロピーは非平衡度の二次までの範囲で一致することを示してくれて、一件落着。 どちらも正しかったということに落ち着いた。
この「エントロピー騒動」よりも少し前、9 月 30 日の夜に書いたぼくのメールには、
ちなみに、「熱伝導系で外からハミルトニアンの操作をする」という設定で、Komatsu-Nakagawa representation + Sasa forumula の熱力学を作り、自由エネルギーの形式にし、さらに、「熱流一定」という条件を課すと、「外からの操作者の仕事がちょうど自由エネルギーの差で書ける」という Sasa-Tasaki の現象論的仮定がばっちりと出てくるようです。佐々さん知ってました? ちょっと感動。やっぱりうれしいなあ。とある。
この晩、一階の部屋に一人でこもって、Komatsu-Nakagawa に書いてある式を佐々さんのエントロピーの関係式に代入して、ごちゃごちゃといじり倒していて、上の結論に達したのだ。 つまり、今回の論文に書かれている「source からの熱流一定」の条件が、ここで示唆されたわけである。 た だ し、この時点でのぼくの「熱流一定」の条件についての認識は猛烈に安直で、今から思えば、よくこんなことをメールに書けたなというレベルの理解でしかなかった。 でも、ここで気楽に楽観的なメールを書いたことは、後から見れば正解だった。
このとき、佐々さんは非平衡系研究の滞在型ワークショップに参加しており、パリで暮らしていた。 この日の佐々さんの日記には、「田崎さんからのメールでひっくりかえった。」とある。 さらに、日記は、
本当かよ...? 本当なら、本格的に山が動きはじめて、この10年間の諸々が雪崩的につながりはじめるかもしれない。しかし待てよ、まだ釈然としないことがいくつかある。深呼吸だね。と続いている。
「山が動いた」がどうかが本当に判断されるのはまだ先なのかも知れないが(本人は動いたつもりでいるが)、ここから、ぼくらにとって怒濤の日々が始まったのは紛れもない事実である。
(付記:佐々さんの今日の日記には、ぼくが気付いた事をなぜ(同じ目標を模索していた)彼が気付かなかったのかの分析がある。ぼくも上で似たような事を書いているが、こういう「力の入れ方の向き」が色々な流れを呼ぶのはとても面白い。いずれにせよ、ぼくらのやっていることは、集団での狩猟にすごく似ている。みんなで手分けして獲物を追いながら、ときどき「おーい、こっちにいたぞ!」「げっ、そっちだったとは! 待ってろ、すぐに行くから!」という風に声をかけ合うのだ)。
ともかく、既に新学期で講義はあるし、ぼくは学科主任なので雑用はふってくるし、生命科学科開設の準備はいよいよ熾烈をきわめるし、すさまじいことになっている。 それでも、これは大きな仕事になるかもしれないという明確な自覚を持っていたので、すさまじい勢いで働き、それまで理解していたことをまとめいてる。 佐々さんが「ひっくりかえった」次の日の 10 月 1 日の膨大な数のメールから適当に拾ってみると、
12:26(↑日記をアップした後でようやく気付いたけど、「会議のあいだまでに」は、「会議までのあいだに」の間違いですね。こんな書き間違いをするほどのあわただしさだっということで、そのままにしておこう)あるいは、
まだ、ときどき混乱しているのですが、 早々にまとめましょう。
・・・中略・・・
よく見たら、当たり前のことをやっていただけだったというオチになるかもしれないし。
今、授業が終わったので、会議のあいだまでにできることをします。 (今夜の会議は延々と遅くまであって疲れ切る予定)
16:49という感じ。
まだ崩壊していません。
こういう日にかぎって、教務が前代未聞のミスをしでかして、人がバタバタと。やれやれ。
日本時間18時からエンドレスの会議なので、その少し前に、今の段階のものを送ります。
そして、予告通り、長い会議の寸前の 17:53 に、それまでの考察をまとめたノートを三人にメールで送っている。
一つは「熱流を一定にする」という条件の意味についての吟味があり、それは「平均値が一定になるよう、パラメターを調整すること」であるという意見の一致を得る(実は、これは後にくつがえる)。 また、上に書いた「エントロピー騒動」関連の混迷したメールのやりとりが続くのもこの時期である。
本質的に新しい視点が登場するのは、10 月 4 日。佐々さんが、パリからのメールで、同じ熱力学の形式の中で温度を変化させることも可能ではないかということを指摘したのだ。
それまで、ぼくは、論文の (16) のように温度と熱流を一定に保って系のパラメターを変化させるような操作だけを考察していた。 それだけでも十分に意味はあるし、さすがに非平衡定常系に踏み込んだら、まずはそこしかできないと思っていた。 温度も変化させる本格的な熱力学よりは「次元が一つ低い」が、まずは、それで十分すぎると考えていたのだ。
ところが、佐々さんは、温度も変化させて、 (15) のような関係も示すことができるというのである。 温度一定の部分空間に制約せず、完全な熱力学ができるだろう、というのである。
この新展開に対するぼくのレスポンスは(実はこの時期に風邪をひきはじめていたこともあったのか(←などと、言い訳をする))かなりマヌケで、いくつかのメールのやりとりをして議論を理解したあとにも、
これは、正直、おどろいた。まちがってないかな??などと書いている(告白すると、温度変化にかかわる議論については、これから先も、ぼくは常に一歩遅れていて、かつ、微妙に悲観的な方向に勘違いを続けていく。ずっと後のことだが、佐々さんが「田崎さんの熱力学の教科書には温度を変える過程が登場しないし、田崎さんは温度を変えるのが苦手なんじゃないのか?」と指摘したのは正しいかも知れない・・・)。
ほんと、熱力学なんですね(と、ぼくが言ってどうする)。
ともかく、このあと、ちょうどよいタイミングで小松さんと中川さんが「エントロピーをめぐる混乱」が解決してくれて最後のもやもやと不安が解消されたこともあり、一つ一つの論点をていねいに議論して問題をつぶしていく作業がはじまる。 最終的に、10 月 5 日の日本時間の夕方、「熱流一定」の条件についての最後の疑問についての意見の一致を見たところで、SST ができているという結論に達した。 かくして、メール越しに、水戸とパリと東京で「かんぱーい」をするに至ったのである。
喜びがこみあげるというより、あまりにも話がどんどん進んで、当惑するというのが、ぼくの正直な反応だったような気がする(風邪がピークで朦朧としていたのかもしれないけれど)。
世の中に、おそろしい偶然というのはあるもので、佐々さんは 10 月 10 日に、パリの非平衡系のワークショップで講演をすることになっていた。 もちろん、佐々さんはずっと前から講演の構想を練り準備を進めていたわけだが、なんと、ここに来て圧倒的に話が進んでしまったわけだ。
佐々さんは、はじめ、最新の結果までをも講演に入れるかどうか悩んでいたようだ。 ぼくなどは、こういうところは結構イケイケなので、できたてのホヤホヤの仕事をメインにして講演すればいいんじゃないのかなあとか思っていた。 けっきょく、佐々さんの方では、前々日のワークショップで非平衡系の熱力学が話題になったことなどもあり、かなりの部分を新しい仕事に割いて講演したようだ。 ま、このあたりは、佐々さんの 10 月 10 日の日記と、その前の日記を見ていただこう。 そこに書かれているように、講演は大成功で、ワークショップに集った非平衡系の専門家たちの熱い注目を浴びることになった。
この間、ぼくは(風邪と闘いつつ)得られた結果を論文にまとめる作業をしていた。
全てが、絶妙のタイミングで、順調に進んでいるかのようであった・・・・・
小松さんと中川さんから「Re:SST」という、(ぼくらにとっては)何の変哲もないタイトルのメールが届いたのは、佐々さんが、われわれの結果をパリで公表した翌日、10 月 11 日の夕方 6 時近く。 ぼくは、13 日の朝早くにアメリカにむけて出発することになっており、そろそろ本気で出発の準備をしようとしている矢先だった。
メールの内容は、「熱流一定の条件」をパラメターの調整で実現するという議論に不備があるのではないかということだった。 これは、5 日の乾杯の直前に、ぼくが再提起して、そこで吟味して解決したはずの論点だった。 しかし、小松さんと中川さんは、そのときに出てきた断熱定理の使い方は適切ではないと指摘したのだ。
ぼくが(そして、おそらく、佐々さんも)浮かれていたときに、この冷静な指摘は、おそろしく重要な意味をもっていた。 けっきょく、今から考えてみると、この指摘を契機に「熱流一定の条件」というものを理解するための本当の意味での考察が始まったのであり、それは、ぼくらの理論にとって本質的なことなのだ。
話しを戻すと、このとき、佐々さんはメールから離れていたようで、深夜まで、小松さん+中川さんと、ぼくとのメールのやりとりが続く。 読み直してみると、最初のうち、ぼくは何が問題になっているのか理解していない(←思いこみが強いのは、困ったものだねえ)。 夜になって、ようやく論点を理解し、そしてお風呂に入ったのをよく覚えている。 体を洗いながらポイントを整理し、「○○という事が起きる可能性を、小松さんと中川さんは危惧しているわけだが、それは杞憂だ。それが起きないことは、以下のように線形応答を使って示せるではないか。つまり・・・」と考えを進めた瞬間、お風呂で暖まっていたにもかかわらず、血の気が引いた。 そうか。小松さんと中川さんは、当然、こういうことを考えた上で問題の所在に気付き、言葉を慎重に選んで問題提起してきたのだ。 これは厄介だ。かなり本質的かも知れない。全てが崩壊するかも知れない・・・・(←こういうとき、やたら悲観的になってしまうのだ。 念のため書いておくと、10 日の佐々さんのパリ講演では、「熱流一定」を如何にして実現するかまでは踏み込んでいないので、講演内容に嘘はない。 ただし「熱流一定」が実現できると考えていた根拠がゆらいだということだ。 もし「熱流一定」が全く実現不可能なら、この話のクラウジウス関係式よりも後は、完全な空論ということになってしまう。)
風呂上がりに「わからなくなった」というメールを書き、アメリカ行きの準備のことなど全く忘れて、あらゆることを考え続けた。 12 時頃に(翌日は、会議+講義+ゼミという過酷なスケジュールなので)「もう寝る」とメールを書いて寝床に入ったようだが、また気になって起き出してきてメールを書いている。 一応、最後のメールは夜中の1時頃だが、それから安眠したというわけではない。 ベッドに横になっても、ほとんど頭はフル回転を続け、「熱流一定」の議論を復旧するための方法をあらゆる角度から模索した。 時折、疲れて眠りにつくようだが、夢の中でも佐々さんからのメールを読んで議論を続けている(夢だから小松さん、中川さん、佐々さんみんなと出会えばよさそうなものだが、なぜかメールなんだなあ・・・)。 そして、また目が覚めて、現状を思い出し、また新しい方向を模索し、ということが朝方まで続く。
夜も明けてから、基本的に方向性を誤っていた事を認識した。 「熱流一定」は、パラメターの微調整で要請できる条件ではなかった。 これは、実は、環境の性質そのものを規定する条件であり、われわれは、何らかの理想的な熱流源を用いなければ、きれいな熱力学をみることができないのだ。 きわめて不完全な形ではあったが、現在の source-drain のもとになる認識に、ようやく到達したのだった。
小松さんと中川さんの夕方のメールから、ほぼ 12 時間後、12 日の朝 6 時に書いたメールの冒頭と結びだけを引用しておこう。
ずっとベッドの中で寝たり起きたりで、あらゆるアホなことを考えましたが、明け方になって正しい考えが見えました。よかった。
安心して寝ようと思ったのですが、寝付けないので起きてきて書いています。
(大幅に中略)
明け方になるまでは完全撤回かと思って胃の痛む思いだったのですが、ほっとしました。
これから、少しだけ眠って朝の会議にさわやかに出たいものです。
ぼくは(どうかなるほどあわただしく、かつ激しい睡眠不足のまま 12 日を過ごした後)アメリカに出発し、そこで Chris らと議論することになる。 そのあたりの様子は既に書いたとおり。
ぼくがアメリカに行き、佐々さんが日本に戻ってからも、熱流一定の条件と温度変化の問題について、延々と議論は続いた。 いくつかの点(とくに、温度変化!)について、ぼくの理解が追いつかず、いろいろと混乱が続くのだが、そこまで詳しく書いても面白くないだろう(というか、既に詳しく書きすぎて面白くないよなあ。長いし)。
10 月 25 日には、佐々さん、小松さん、ぼくの三人が駒場に集まって、残る論点を徹底的に議論した。 この共同研究が始まってから、四人のうちの三人以上が実際に顔を合わせるのは、これがはじめてだ。 考えてみたら、佐々さんと会うのは、Genova 以来ではないか。
さて、温度変化に関わる論点については、基本的には、ぼくがいくつかの重要な点を見過ごしていただけだったということがはっきりし、疑問はすべて解けた(ここで、「田崎さんは温度を変えるのが苦手でしょう」という佐々さんの正しい指摘があったのだ)。
最大の問題は、「熱流一定の条件」を如何にして実現するか。 9 月 30 日の夜に、ぼくが皆にメールを書いて以来、ずっと頭を悩ませ続けてきた中心課題であり、10 月 11 日から 12 日にかけて、ぼくが不眠のすさまじい一夜を過ごす原因になった問題である。
ぼくもいくつかのプランを持っていたのだが、やはり、高温の熱源との非能率的な接触を利用した佐々さんのアイディアが有望にみえる(佐々さんは、「これしかない」と断言していた)。 しかし、この段階では緩和時間について混乱が残り、(少なくとも、ぼくの中には)いくつかの不満点が残ったままに終わった。
同じ日の夕方には、佐々さんから、緩和時間についての誤解があり、彼のモデルに物理的不満はないという趣旨のメールが届く。
ぼくの方は、少し遅れるのだが、翌 26 日の朝までに、佐々さんの思想をハミルトン系で実現する方法(高温の希薄気体に接した固体表面というイメージ)を具体的に作り、やはり、物理的問題がないことを認識した。 朝からいくつかのメールが飛び交い、すべての点について、曇りなく意見が一致したことを確認した。
10 月 26 日午前 10 時のぼくのメールの後半は、こんな具合だ。
昨夜のメールをみて、そういうことだろうと思ったのですが、今ひとつ、自分で理解しきれなかった。でも、今は大丈夫。
きわめて、よい感じだと思います。
最後まで残っていた uneasy な感触も消えた。
過剰エントロピー生成をしない熱流源は存在する。ぼくらの理論は空論ではありません。
ついに、SST ができた。
実は、さっきのメールを書いてから、猛烈な動物的な喜びを感じています。ようやく獲物を一匹倒したという、本能的な感動と歓喜を味わっています(佐々さんよりは、だいぶ遅れて来た)。涙でそうです(実際、少し、出ている)。うれしいよお。
上のメールの「動物的な喜び」という表現は誇張ではない。
意外と理解されていないことだが、自然科学や数学の(本当の)研究者というのは、大元をただせば、きわめて本能的・野性的な動機に動かされて研究を進めているものなのだ。 ただし、「獲物を倒したい」といった長年の進化の過程で培われた本能が、何かの加減で(生まれつき)ねじ曲がってしまっていて、科学の目をとおして見た世界を旅して新しい強敵をみつけて倒すという方向に異常に強く発揮されてしまっているということだ。 もちろん、たとえば理論物理や数理物理の研究を進めるためには、それなりの知識・技術・能力が必要だ。 ただ、そういった高度に「知的」な側面だけではまともな研究は決してできないのだ。 未知のものに向かっていく異常な衝動、獲物を倒したいという生命の原初的なエネルギーなくしては、真の研究活動は維持できないと、ぼくは信じている。
もちろん、問題が解決したとき、いつでも動物的な原初的な歓喜を味わっているわけではない。 ほとんどの場合は、主として、問題が解けたこと、新しい知見が得られたことについての、知的な快感や感激が主要な喜びになる(それでも十分に楽しいけど)。 ぼくの場合、はじめて、本当に「長年追い続けた手強い獲物をついに倒した!」という強い本能的喜びを感じたのは、特異性のない(絶縁体の)ハバード模型での強磁性の仕事を完成させたときだろう。 もうずいぶんと昔のことで、第一回久保賞授賞を報じた朝日新聞の記事のなかで「うれしくて、研究室でぴょんぴょん跳ねた」と書いてあったのが、このときのことだ。
偉そうに言っているが、実は、こういう喜びを感じたのは、あのとき以来だ。 つまり、研究者生活をはじめて、二度目の激烈な喜びを感じたということになる。
実際、(ゲームとかではよくあることだが)倒したつもりになっていた獲物がむっくりと起き上がって、本気を出してこっちに立ち向かってくるかも知れない。 あるいは、マンモスを倒したと思って大喜びしていたら、よく見たら、そこにはちっぽけなネズミの死体が転がっていた、というようなことだってないとは言えない。
既に慎重に慎重を重ねて物事を考えているつもりだが、もちろん、大きな間違いがひそんでいる可能性は常にある(11/26 付記:悔しいが、間違いがあって、少し縮小になった)。 さらに、倒したのがマンモスなのか、ウサギなのか、ネズミなのか、それは、今後の展開によっても判断が変わってくることだろう(11/26 付記:修正されて、マンモスもちょっと、小さめになったか・・)。 全力で、できることをやるしかない --- 凡庸だが、それが(いつもの通り)唯一の答えである。
まったく馬鹿みたいだとは思うが、そこまで深刻で厳格な勝負だからこそ、そこまで馬鹿みたいに必死になっているからこそ、本当にうまく行ったときの喜びは至上のものなのだ。
よく言っているように、やればできると分かっている研究など全く面白くない。 ルールが厳しければ厳しいほど、何かを達成したときの喜びは、より純粋でより大きくなるのだ。
これまでもずっと、できるかぎり、自分の能力の限界を少し超えたくらいの仕事をすることを目指してきた。 数年前に、まったく未知だった非平衡系の研究に初心者としてとびこみ、かつ、個別の問題の解決よりも、基本的な理論の枠組みの構築という無茶な方向に全力で取り組んだのも、まさに、そういう「1ランク上」を目指したからだったといっていいだろう(←というと作りすぎだね。本当は、単に面白そうだったからなんだけど)。 その方向でついに本当の意味での成果が出つつある(つもりだ(11/26 付記:このとき思っていたほどではないが、やっぱり成果は出ているよな))。 なんと、うれしいことか(11/26 付記:今もうれしいよ)。
まったく、そのとおりとしか言いようがない。 自分でもあきれるくらい色々なことが楽しくて仕方がない。幸せです(11/26 付記:ミスがみつかって縮小になっても、あるいは、(これから先、万が一)もっとすごいミスが発覚したとしても、この見解は変わらないのだ)。
今学期は、ひょんなことから大学院の科目を、何人かの教員で交代して担当して、開講することになった。 ぼくが二人目をつとめて講義を進めているところ。
何のテーマについて話そうかなと思っていたら、一人目の溝口さんが初等的な例でエントロピーの具体的な計算などをやって終わったというので、それなら、エントロピーで突き進もうと決めた。 マクロな平衡系のエントロピーとしては、熱力学のエントロピー、ボルツマンエントロピー、ギブスエントロピー(後者二つは統計力学的エントロピー)など色々あるわけだが、これらの意味と関係を明確にすることを目指そうと。 学部の統計力学の講義では、なかなかエントロピーに深入りする暇がないので、ちょうどよい機会である。 基本的に、これらは、ぼくにとっては「庭」みたいなものなので、講義の準備もそれほど大変にはならない。
しかーし、せっかくエントロピーについてじっくり考えるのに、「庭」だけで終わっていては寂しい。
一回目のイントロ部分でギブスエントロピーについて話していると、シャノンエントロピーとか情報理論とかいう(「庭」の外の世界の)言葉がつい口から出てしまう。 そうなったらごまかすわけにもいかないし、「統計力学でのエントロピーとそっくりのエントロピーが、文字列の符号化とか圧縮とかいう場でも本質的な役割を果たす。それについても解説する」と宣言してしまった。 よく知っていることだけじゃなくて、少し関連する分野の話を新たに消化して人に教えるのも、すごく楽しい作業だしね。
よく考えると、情報理論をゆっくりと勉強している暇なんかあるわけないんだけど、宣言してしまった以上、やるっきゃない! 符号化にシャノンエントロピーが登場するあたりは、ずっと前に Cover-Thomas の情報理論の教科書を超スピードで読んだとき実にわかりやすいと強く納得した記憶だけが残っている。 あれだけ強く納得したのだから、少し本を読めば、絶対に本質を突く解説ができるはずだ --- と、いつもがなら根拠のない自信に満ちた私。
明日(日曜日)は推薦入学の試験があるから、今日は大学に行かず、情報理論をお勉強中。 これはこれで楽しいよーん(次の月曜の講義では、まずボルツマンエントロピーをやり、余裕があればシャノンエントロピーに少しはいるつもり。符号化の話は主としてその次の週になる予定)。
というわけで、余裕が出たところでプールへ。随分と久しぶりのプールだ。
ゆっくり泳ぎながら、今、勉強していた事を整理して再構成していく。
大丈夫。Kraft ineuquality の証明も含めてあまりにも明快なので、もう何も見なくても講義できる自信がある。 どうやって講義をするか、イントロのあたりから例をつくりながら、構成を固めていく。
こうやって、既に確立していることを学んで自分で理解して説明を考えるというのは、研究での頭の使い方と似ているけれど、精神的な構えは全く違う。 しょっちゅう吐きそうになりながら(←実は、昨日も少しなっていたのだ)理論の欠点を必死で検討しているのと比べたら、ほんと、休暇を取って遊んでいるような感覚。 楽しいけど、やっぱり、楽しさも中くらいなり。
物理学者が椎名リンゴの演奏会にでかけたくらいで、大人げなさの面ででかい顔をされてはかないませんひい、お許しください。
大口を叩いて申し訳ありませんでした。「大人げなさ」で言えば、ぼくなんかほんの駆け出しの小僧っ子です。 もっと本格的で成熟した「大人げなさ」、つまり、大人の「大人げなさ」を目指して精進する所存ですので、どうか、お見逃しいただきたい。 でも、「椎名リンゴ」じゃなくて、「椎名林檎」でっせ、山形さん。
しかし、本当のところ、こんな軽いことを書いている場合ではないのであって、本来の姿である研究日記の真摯でヘヴィーな内容が以下に続くのじゃ。
記憶も新しいうちに、ここ数日の展開を書いておこう。
さて、ぼくらは、彼の考えていたモデルについても、拡張クラウジウス等式を非平衡度の二次まで「導出していた(しかも、二通りの方法で!)」ので、この指摘には、すぐにはピントが合わなかった。 Glenn は信頼できる慎重な研究者だけれど、見ている量の定義が微妙に異なっているとか、そういう、よくあるオチを想定して、気楽に構えていた。
ともかく、同じ日くらいから佐々さんが Glenn の計算のチェックを開始し、そのノートを見たので、ぼくも独立に計算することにした。
不慣れな領域なので、最初は何をどう計算するのかわからなかったが、方針を見たら、何のことはない。 きわめて素直な摂動計算をして、後は、微分方程式を解いたり積分したりというのは、基本的には(ぼくの講義をちゃんと消化している)大学一年生でもできるような計算ばかりだ。
でも、逆に言えば、腕の見せ所もないし、楽しみどころの少ない計算だ。 ひたすら初等計算をして、しかも、最終結果は係数まで含めてきちんと出さないと意味がない。 漸近形がどうかとか、不等式がどうかといった話をしているのではなく、等式の成立・不成立を見ているのだから、ぜんぶちゃんと計算しないといけない。 実は、こういう計算はもともと大嫌いで、学生の頃などは「係数の計算ミスはミスとは認めない」などと勝手な事を言っていた。 しかし、初等計算の答えが物理にとって本質的な情報を持っているときには、我慢して自分できちんと計算するしかない。 このあたり、講義を持つようになってから、少し忍耐力が増して、地道に計算できるようになったのかも知れない。
というわけで、21 日の晩から 22 日にかけて、真面目で地道な計算をして、拡張クラウジウス等式が二次までの精度で成立することを確認しようとした。 最初は(成立すると信じているせいもあって)計算間違いして、成立するという結論がでたりしたのだが、けっきょく、くそまじめにやると Glenn と同じ結果になってしまった。 微妙なずれがあるのだ。
ここからは、ひたすら悶々とした2日間を過ごすことになる。 面白くない結果だが、やはり仲間にチェックしてもらおうと、計算の詳細をタイプして皆に送る。 計算間違いの可能性は低いので、どこか、モデルに変なところがあるのではないか、熱や仕事の定義の解釈に齟齬があるのではないか、などなど、あらゆることを考える。 しかし、何一つ釈然としないし、そもそも、頭をどう使っていいのかわからない。 そう。 それが、悶々の最大の原因だ。 研究者にとって、自分の頭をどう働かせていいかわからない状況がもっともフラストレートするのだ。
つまり、ぼくらは、間違っていた。
拡張クラウジウスは、二次までの精度では成立しないのだ。
二つの導出があって、ごくごく自然な関係式が出てきたのに、なぜ、これが間違っているのか??
徹底的に導出を吟味して、佐々さんも、ぼくも同じ結論に達した。 つまり、
オーダー 1 の大きさで、かつ、操作がゆっくりの極限でゆらぎが 0 になることが保証されている量(たとえば、操作に必要な仕事)のゆらぎを無視することが許されなかったのだ。 具体的にどこが崩壊するのかは分からないが、それ以外には、弱点はあり得ない。
「ゆらぎが限りなく小さくなる量のゆらぎを無視する」というのは、あまり罪深く聞こえないわけで、実際、理論物理の現場では常套手段的に使われる近似だ。 ぼくの知る限り、ほとんど全ての問題で、正し答えを出してくれる(場合によっては、数学的にも厳密に処理できるが、そうでない場合にも、信頼できる結果を出してくれる)。 しかし、例外はある。 そして、今、ぼくらが考えている問題が、その例外だったのだ(そして、なぜ例外的なふるまいが出るかというのは、おそらく、非平衡性の強い系の性質と本質的に関わってくる。 これは、また別の冒険のテーマになるのだろう)。
さらに、23 日から 24 日にかけて、導出を再吟味した結果、どの部分がもっとも「脆く」、「ゆらぎの無視」が悪さをしているかを特定した。
でも、このミスについては、赤面するとか、恥に感じるとか、そういう感覚はまったくない(ちなみに、10 月 11 日に、「熱流一定条件」の不備を指摘されたときは、ぼくは、自分の早計を恥じ、青ざめた。論文も公開していなかったのに)。 誰もが不慣れな状況に向かっていき、ほとんど誰が聞いてももっともらしい議論をして、実に美しい関係式を「導出」してしまったのだ。 信じて発表するのは自然なことだ(←あ? おれ、言い訳してる??)。
「ゆらぎの無視」(より正確には「断熱定理の適用」)がデリケートだということは、もちろん、知っていた。 Maryland で Chris らに説明したときも、H「ここで、操作が準静的だったことを思い出して」、C「断熱定理を使うのか・・・ なるほど、そう来るか・・」、H「もちろん、厳密じゃない。でも、おそらく正しいよね。これを数学的に証明しようという気にはならないけど。」、C「ぼくもそんな気にはならない(笑)」というやりとりをしたものだ。 デリケートだけど、これはいけると信じていた。
そんなことはない。というか、正反対。今風に言えば、真逆(まぎゃく)。
それまでは、設定が食い違っているのかとか、Focker-Planck 方程式で(論文の出発点の)(1) の関係が成り立つのかとか、そもそも初等計算をミスっているのか、などなど、ひたすら悶々としていたのが、今や、ぼくらが間違っていたことがわかり、間違いの所在も特定できたのだ。
間違いがあった以上、以前の主張や導出がそのまま生きることはあり得ない。 それを認めた上で、さて、全てが崩壊してゼロに戻ってしまうのか、それとも、議論を修正することで、意味のある結果を残すことができるのか? 小規模な修正ですむのであれば、短期間で復旧できるだろうし、根本的な修正が必要なら、(再構築が可能だとして)長い時間をかけて理論を再構築する必要がある。 そこを見極めなくては。
いよいよ、頭が使える! ともかく全能力を使って、果たしてこの危機から脱出できるのか、どうすればこの失敗を最小限のダメージで挽回できるのかを検討しなくてはならない、というか、検討できるのだ。
不謹慎かも知れないし、いっしょに研究している仲間にはちょっと申し訳ないのだけれど、ぼくは、こういう危機的状況が大好きみたいだ。 もう、すごいハイテンションになってしまうし、頭の回転も異常に早くなる。 なんか、がらがらと崩れそうになる大きな建物の中をぴょんぴょんとすごいスピードで飛び回って状況を観察し、すさまじい勢いで対策を立てて復旧と再建を画策していくような感覚、喜びがある。 希望が見えると歓喜し、勘違いだとわかれば身震いし寒気を感じることを交互にくり返しながら、猛スピードでパラレルに複数の考えを進めていくのが、楽しくて、楽しくて、仕方がないのだ。
これは、少なくとも、短期間ではどうしようもない。
これが次のステップになるのかも知れないが、そこに登場する熱力学は、今、見ているような単純で直感的なものではあり得ないだろう。 ぼくらの力不足ではなく、それが、世界のあり方なのだと思う。
というわけで、この方針は(当面は)保留。
そもそも「ゆらぎの小さい量」などが、理論に登場しない設定を考えれば、ぼくらの導出は正しいはずだ。 断熱定理をいっさい用いないで導出できる関係をさがせばいい、という言い方もできる。 系に仕事をしないような操作(温度変化や非平衡外力の変化)を見ればいいはずだ。
そうだ、そうだ。これは正しいぞ。 ここでも、小松・中川の賢いトリックが大いに生きる。 これなしでは、けっきょく、何らかの断熱定理風の物を使いたくなってしまうから。 個人的には、この危機を救ってくれた威力に敬服して、これ以降、Komatsu-Nakagawa magic と呼ぶようになった。
この方針で正しい等式が出ると確信したが、以前と同じ失敗をくり返してはいけない。 幸いにも、Glenn のモデルで非平衡外力 f を変えれば、まさに考えている状況になる。 関係式が成立するかどうか、摂動計算で試してみなくては。
10 月 24 日 18:52 に、「ともかくGlenn のおもちゃで f を変えてみて様子をみよう」というメールを皆に書いてから、我慢して、再び地道なモデル計算に戻っている。 ともかく、係数まで含めてきちんと見なくてはならないので、焦ってはならない。 それにしても面倒で、すぐに計算を間違う。
居間のテーブルに紙を広げて計算しながら、「うわーー、死ぬかと思った!! 2×3 - 2×2 = 4 って計算してたから、答えが二倍合わなかった!! でも、2×3 - 2×2 = 2 だから、大丈夫だ!!!」などと叫んだり、「やたー、これで生き延びたかもー、まだわかんないけどー」と騒ぎながら部屋の中を横っ飛びに動き回ったりする。 妻にも、「そう、しょっちゅう死んだりはしないわよ」とたしなめられるわけだが、まあ、仕方がない。 こんな事は滅多にないし。 楽しいし。
何度か計算をやり直して、この場合には Glenn の例でも非平衡度の二次まで(ただし、その内の一次は変化分)クラウジウス等式が成り立つことを確認。 一般的導出も問題なく見えるし、例題の計算も大丈夫。 よっしゃ、といわけで、19:28 に皆に送ったメールのタイトルは、
ビンゴ!?一人でハイになっている空気がひしひしと伝わってくる。
温度や非平衡度を変える操作が許容されることは確実だったが、それ以外に、圧力変化なども(小さければ)できるのではないかということを、前の晩から、ずっと検討していた(といっても、10 月 11 日にような「苦しい一夜」ではなかった)。 しかし、どうも混乱が続く。
一方、朝の 10 時ちょうどに小松さんと中川さんから届いたメールには、前夜のぼくのメールを受けた数値計算の結果が書いてあった。 Glenn と同じモデルで、f を変える操作を、摂動の及ばない領域でおこない、拡張クラウジウス等式が二次の精度で成り立つことを確認したという。 これぞ速攻の数値計算! まだ(簡単な摂動近似の人工物を見て喜んでいるだけなのではないかという)一抹の不安がなかったとは言えなかったわけだが、これを見て、ともかく全崩壊があり得ないことを確信した。 正直いって、ほっとした。
昼ご飯は、池袋の「がんこラーメン」で、特別メニューの「上海蟹悪魔ラーメン」を堪能し家元の一条さんと話をしたのだが、実は、このときは最悪で、行けると思った f の変化させ幻などではなどと悲観的になっていた。 実際、13 時のメールには「楽観と悲観を往復して、今は悲観」とある。
休日出勤した大学のソファーでぶっ倒れていて、はっと気付いて(寝ころんだまま) Glenn のモデルでの計算結果をチェックし、全てを正しく理解したのは、その直後。 13 時半のメールには、現在の理解と同じ事が書いてある。
これを境に、危機に直面した異常なハイテンションの時間は徐々に収束していく。
この日の夜には、昼にラーメンを食べたのが、ずっとずっと前の事のように感じられた。 精神的体感時間のきわめて長い一日だったのだ。
非平衡度の次数が下がってしまったのは悲しいが、(前にも書いたが)これはわれわれの腕前の問題などではなく、この世界についての、どうしようもない事実なのだ。 この次数を越えると、もはや、過剰熱だけを使ったシンプルな拡張クラウジウス関係式は成立しない。 それは、Glenn の摂動計算から断言できることなのである。
ここから先の、より高次の非平衡効果は、本当に困難な魑魅魍魎の世界かもしれない。 ぼくらは、うっかりして、ほとんど手ぶらで、その恐ろしい世界に足を踏み入れてしまったのだ。幸い、Glenn のおかげで早々にそのことに気づき、あわてて逃げ出してきたというわけだ。 もちろん、半歩そちらに踏み込んだ以上、いずれはあちらの世界にも挑む事になるに違いない。
一頃に見ていた幻に比べれば話しは一回り小さくなってしまったが、そもそも、あれは純然たる幻だったのだから仕方がない。 次数が下がっても、非平衡熱力学ができていることにかわりはない。 規模は落ちるが、非自明な予言もできる。 夏あたりの状況から思えば、やはり格段の進歩である。
もはや、(少なくとも拡張クラウジウスの部分には)誤りはあり得ないと確信している。 が、まあ、そこは、それ、一週間前には幻の拡張クラウジウスを信じていたのだから、論理的可能性としては、これから何がおこってもびっくりしていはいけないのだろう。 でも、論理もへたっくれもなく、今度は、ぜったいに大丈夫なのであります。
それにつけても、今回、論文が雑誌に載ってしまう前に Glenn が反例を教えてくれたのは、本当にラッキーだったと思う。 彼にはどんなに感謝しても、感謝したりない。 しかも、これはぼくらの論文のために用意した反例ではなく、たまたま彼が独自に進めていた研究の(どちらかというと細かい)一部分をなす計算だったのだ。 ぼくらが、脳天気に魔界を散歩して、いい景色をみているつもりになっていたちょうどその時期に、Glenn がその研究を進めていたというのも、素晴らしい幸運だ。なんと、ありがたいことじゃ。
というわけで、本人や周囲の予想をばんばんと裏切りながら、物理学者の日々は過ぎていくのでした。つづく。
天才物理学者が科学知識を駆使して難事件を解決するというテレビドラマ「ガリレオ」が話題を呼んでいる。 わが家では、主に妻と娘が見ていたが、ぼくは、基本的に放映時間はいつも仕事中なので(←というか、あいてる時間は(元気なら)ずっと仕事してるね)、見ていなかった。
しかし、やはり、物理学の教育の一端を担う者にとっては、こういった番組を深く研究し、社会への物理学の普及の道を探ることは、もはや義務と言ってもいいのではないだろうか? そう考え直し、今週からは、ちゃんと見ることにしたのだ。 物理教育という仕事の一環なのである。
さて、ドラマは、色々な意味で雰囲気よく作られており、それでよいのではないかと思った。
ただ、まあ、つっこみ始めると、単なる「犯罪ドラマ」として見ても「それって、めちゃくちゃ、目撃される危険あるんじゃ?」「準備段階で近所の人に何回も会うでしょ?」「他の人が最初に現場に行ったらどうなるの? そもそも、あいつが即座に駆けつけた可能性が高いじゃない。」「というより、あんな複雑な仕掛け使わないよ」などと論点は尽きないし、主人公が物理学者ということで言えば、「その研究室なに? なに研究してるの?」「そんな数式、書かないよ」「というか、かっこよすぎ」など、もはやポイントは無尽蔵。
しかし、こうやって日記を書いていて痛感するのは、どの「つっこみ」をとっても、いかにも誰でも即座に思いつく事ばかりで、日記のオチに太字で持ってくるだけのインパクトなど全くない。 一見するときっちりとしているストーリーや設定に対して、意外な観点から鋭い指摘をしてこそ、本当の「つっこみ」になるわけで、これじゃダメだ。
つまり、作品に対する「つっこみ」の容易さを、通常の分類に従って、「つっこみ不可能」、「つっこみ可能」そして「超つっこみ可能」と表すとすると、このドラマは、徹頭徹尾、最後者の例になっていると考えられる。 あまりに露骨な「つっこみどころ」だらけの作りのため、何を言っても「そんなの最初から分かってるよ、テレビだし」と返されてしまう気がして、逆に、気の利いた「つっこみ」がいっさい封印される --- という、「超つっこみ可能」作品なのである。 (解説:これは、場の量子論における「くりこみ」に関する、「くりこみ不可能」「くりこみ可能」「超くりこみ可能」という分類を踏まえた、抱腹絶倒の物理ネタなのです。)
あ、割とどうでもいいことですが、それでも気が進まないなあという場合、このドラマのエンディングテーマである、KOH+ の「キスして」のプロモーションビデオを見ると、柴咲コウのあまりに完璧な美しさに感動して「ガリレオ」が見たくなるかも知れません。 ドラマでの刑事役とのギャップもまた醍醐味。 聞くところでは、中年男性の物理学者の中には、そういう動機で急に見始めた人もいるらしいですから。
あと、来週は釈由美子も出演するらしいよ!
駒場に向かいながら、ここ何日間かの考えをまとめて
将来に向けて考えたとき、この仕事の中の真の宝石(ないしは、その原石)は、拡張クラウジウス関係式とシャノン風のエントロピーの表式である。 source-drain 系に関する部分は、素敵な付け足しと思うべきだ。と、明示的に言葉にしてみる。
しかし、さすが佐々さんは上手で、この宣言を当然の事として受け入れた上で、「素敵な付け足し」の部分から実用的な科学を引っ張り出す方針をも提案してくれた。 つまり、線形応答領域での力を考察する際に、輸送や時間依存する量を経由して考える従来の方法ではなく、時間の事をいっさい考えず熱力学関数を微分して求める「熱力学的方法」が使えるというアイディアだ。 すでに例題の考察も進んでいるところがすごい。
この例題をみて、小松さんが「線形応答領域では source-drain は不要ではないか」と提案する。 「いや、これこれの理由で必要だ」と、source-drain に愛着を持つ佐々さんやぼくが説明するのだが、小松さんは、何度か、違う形で、その同じ疑問をくり返す。 ついに、食事の後の雑談のときに、「そうかもしれない。余分な Delta S ex の項は、線形応答領域では・・・」と皆で(頭の中で)計算しているうちに、ごく当然の答が落ちてきた。
一般の複数の熱浴の設定でも、 Delta S ex の項が落ちるように、操作に依存した参照温度を選んでやればよいのだ。 source-drain 系では、たまたま、その温度が drain 温度と一致しただけの話だった。 いずれにせよ、線形応答領域では、参照温度をどこに選んでも、最後の答えには入ってこない。
source-drain 系で、熱力学関係式に drain 温度だけが登場することが、ぼくらにとって懸案の謎だったが、それはあっさりと解けてしまった。 逆に言えば、これは本質的な謎ではなかったのだね。
かくして、駒場の食堂の二階でだべっているあいだに、source-drain 系は、きわめて唐突に、ぼくらの理論の核心部分からは引退することになった。 ぼくにとっては、いくつもの不眠の苦しい夜の原因になり、吐き気を催すような不安感とそこから救われる安堵感を何度も味わう材料を与えてくれた、source-drain 系が、あっさりと、さよならの向こう側へ去って行ってしまったのだ。
新たに得られた見通しの明快さを喜びながらも、あまりに突然の引退劇に、思わず呆然とするぼくら三人。 なんせ佐々さんに至っては、 source-drain 系を具体的に設計してこの世に産み落とし、さらに、かなりの時間をかけて計算機への実装と基礎テストもやってきたのだ。 思わず「理論のすばらしさって言うのは、どれだけのものを背後に捨ててきたかに比例するのかも」などとアホで凡庸な格言もどきを言ってしまうぼく(でも、一端の真実はあるよね)。 まわりで食事をしていた学生さんたちは、まさか、その場で、ぼくらの関わる研究の風景がまたしてもガラリと変わったことなど想像もしなかっただろうなあ。 そんな晩秋のお昼過ぎ。