茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
2 月になっている。
こちらとしては、サリンジャーの翻訳に関する 1 月 30 日 のやたら長い日記の「解決編」を未だ書いている途中だというのに、嗚呼なんと非情で融通の利かないことであろうよ、あっさりと容赦なく 2 月になってしまった。 まあ、仕方がないので、1 月の日記は、あっちのページでこつこつと書いていくことにしよう(← って、そんなん、日記とちゃうやん!)。完成したらアナウンスします。
「読書アンケート」は、「みすず」の 1/2 月号の恒例で、いろいろな人がアンケートに答えて、前の年に読んだ本を五冊以内紹介するという企画。 読書好きの人たちのなかには、結構ファンも多いそうだ。
先ほど、今年の「みすず」1/2 月号が手元に届いた。 今年も 150 名を越す「文化人」がいろいろな本を紹介している(まだ、ほとんど見てないけど)。
出たばっかりの雑誌に書いた記事をそのまま web に載せるのはどうかと思うが、さすがに、ぼく一人の記事で流通に影響が出るはずもない。 それよりも、新刊である「数学ガール」の紹介文を、鮮度が落ちる前に公開するほうが文化への貢献度は大きいと判断して、ぼくが書いた書評をそのまま公開させていただこう。 関係者のみなさん、おゆるしください(この号には、私のものなどより遙かに素晴らしく有益な本の紹介がたくさん載っているはずです。ぜひ、ぜひ、書店にて入手してください!!)。
結城浩「数学ガール/ゲーデルの不完全性定理」(ソフトバンククリエイティブ)
高校生の「僕」が、同級生の黒髪の才媛ミルカさん、元気でドジな後輩のテトラちゃん、中学生の従妹のユーリ(「僕」を「お兄ちゃん」と呼び、語尾には「にゃ」をつける・・)らの少女たちと過ごす時間を描いた青春小説。といっても、ストーリーは数学についての会話、議論、モノローグ、講義と絡み合うようにして綴られていくのだ。数学の題材の難易度や取り扱い方は様々だが、内容は正確で、初心者向けの数学読み物としても秀逸である。
シリーズ第三作の本書は、論理パズルからはじまり、数の公理、無限集合論、極限概念などに触れつつ、「ある条件を満たす形式的体系は不完全である」というゲーデルの不完全性定理に及ぶ。気まぐれに見える題材が数学基礎論をめぐる「知の風景」を巧みに描き出している。不完全性定理は解説者にとっての鬼門で、根本的な誤りのある解説書が少なくないが、専門家の査読も受けた本書にはそういう誤りはないようだ。さすがに本書で定理の証明を理解するのは無理だろうが、ミルカさんの講義で原論文の証明の流れを味わうことができる。さらに、彼女は定理のもつ建設的側面も強調し、「ゲーデルは理性に限界があることを証明した」といったセンセーショナルで浅薄な(しかし蔓延している)誤解にもしっかりと釘を刺してくれる。
人間を人間たらしめているのは文化である。文化とは、煎じ詰めれば、個人の能力を本質的に超えた経験と思索を可能にしてくれる巨大な記憶・意思疎通システムだろう。不完全性定理は、多くの最高の頭脳たちが論理と数学そのものを数学的対象とみて研究してきた結果として得られた真に驚くべき知見だ。難解ではあるが、きわめて「文化的」かつ「人間的」な知的財産なのである。それをテーマにした青春小説が成功し多くの読者に歓迎されていることはちょっとした「文化的事件」と言ってもよい。
小説としての筋の運びは淡々としているが、構成と筆致は巧みで、人生のこの一時期の微妙に不安定で甘酸っぱい空気をきれいに描いている。個人的には、ミルカさんの見せる(大部分の)「ツン」と(微小だがゼロではない)「デレ」の対比に「萌え」た。
興味をもったみなさんは、是非「数学ガール」シリーズを手にとってご覧ください。
著者の結城さんのところにある、シリーズ全体のページはこちらです(ちなみに、ぼくはコミック版の「数学ガール」は、ぼくの心の中のミルカさんのイメージが壊されるのがイヤだから 時間もなくてまったく見ていませんが)。
まさに、上に述べた意味で、もっとも「文化的」かつ「人間的」なる「もの」なのである。という感じの文にしようと思っていた。 言いたかったのは、
「文化的」、「人間的」ということを上に定義した意味で使おう。 そのとき、バッハの音楽、ピカソの絵画、漱石の小説、Perfume のライブなどなどが、すばらしく「文化的」かつ「人間的」な構築物であることに疑いはないだろう。 しかし、まったく同じ意味で、たとえば、平衡統計力学や不完全性定理も、(おそらくは、上にあげた例以上に)すばらしく「文化的」かつ「人間的」な構築物なのだ。という感じのことだ。 ただ、この内容をコンパクトに一行で表現するだけの文章力がぼくにはなかった。 中途半端なことを書いて誤解を招くよりはというので、上にあるような、ややトーンが低く凡庸な表現になってしまったのである。 やっぱ、いまいちですね。修行します。
あと、最終段落の結びの文の文末も、最初に書いたバージョンとは違っている。 最初に書いたものを妻に読んでもらったところ(他にもいくつか改良点を教えてくれたのだが)、「この文末はやめなさい」と注意され、「みすず」という媒体も考えて、上記のように修正したのである。
最初に書いた「無修正バージョン」を引用し、この日記の結びに代えたいと思います。
個人的には、ミルカさんの見せる(大部分の)「ツン」と(微小だがゼロではない)「デレ」の対比に萌え〜
卒業研究発表会がおわって不連続に春がやってくる
(↑なんとなくタイトルっぽくしてみた。)
「卒研発表会の頃は春っぽい風が吹いて、なんとなく感傷的な気持になるはずなのに、今年は未だに本格的な冬じゃないか」と言っていたのだが、卒業研究・修士論文発表会の初日の 22 日。 ところが二日目の昨日になって気候ががらっと変わったようだ。 といっても、ぼくらは空調がきいて窓にはブラインドをおろした西 5 号館の中教室にずっと缶詰だったから、突然の春の訪れにはあまり気がついていなかった。
最後の発表が終わった後、ブラインドを上下させる電動スイッチをポン、ポンと押すと(窓が二つあるから、二回でポン、ポンなのである)、ガガガガガガと音を立てててブラインドが上がっていき、3 時過ぎとはいえ、目映いばかりの快晴の日の光が窓から差し込んでくる。 ほの暗い部屋で発表のスクリーンを見続けていたぼくらにはちょっとまぶしすぎる、しかし、とても素敵で気持のいい午後の日光だった。
「外はこんないい天気だったんですね」と口を開いて、発表会の最後のスピーチに入る。 いつものことだけれど、一年間、あるいは二年間がんばって研究してきたことを精一杯発表する若者たちの姿に接するのは素晴らしい体験だ。 そういったことを簡単に述べて、最後は「素晴らしい発表をしてくださったすべての皆さんに拍手を」。 誇らしげな拍手が大きな教室いっぱいに響く。 学科主任をしていて、もっとも楽しく報われる瞬間かもしれない。
会場を片付け、立ち去りがたく会場に残って立ち話をしている学生さんたちにお別れを言って、外に出ると、すっかり春っぽい夕方の風が吹いていて、なんとなく感傷的な気持になってしまう。
そして、今日。
さすがに疲れが残っているので、家で仕事をしてから、ゆっくりと大学へ。 今日も素晴らしい春のような晴れた日だ。 さすがに、発表会が終わった学生さんたちは、どこかでのんびりと過ごしているのだろうと思っていると、何人か、四年生の姿を大学でみかけた。 なるほど、発表会寸前まで実験や計算をしていた人も少なくなかったから、やり残したことをすぐにでもやろうということか。 いいねえ。
1 月の時間はしっかりとつかまえていたのに、2 月の時間はさらさらと手からこぼれ落ちていった
(↑なんとなくタイトル風シリーズがなんとなく続く。)
何か圧倒的に大変なことがあったわけではない。 予定表をみると、修士一年のシンポジウム、一般入試に関連する各種業務、統計力学の研究会(発表はせず、質問・コメントしまくり要員として参加)、佐々さんが企画した板倉さんの QCD のセミナー、卒業研究・修士論文の発表会、あと、ちょっとした来客が何件か、という感じ。 主任なので、イベントがあるときは準備や段取りもするわけだが、それでも、自由になる時間はかなりたっぷりある。 ただ、1 月のように、本当に、他のことはいっさいせずに(たとえば、本書きとか)一つのことに集中できるわけじゃないので、どうも能率が落ちるようだ。これではいかんよなあ。
思い返せば、ぼくは学部生の頃、友人の M から「ファインマンの経路積分を厳密に定式化している数学者がいる」と教えてもらって、藤原さんのお名前を知ったのだった。 その後、学習院に藤原さんが着任され、時々、話をするようになった。 そして、生命科学科・生命科学専攻設立のための重要な時期に、藤原さんは、理学部長をつとめられ、「献身的」という言葉を体現するかのように誠実にものすごく一生懸命に働かれた。 新棟の建設や新学科の設立からは何のメリットも得ない数学者が先頭に立って真摯に努力されたことで、理学部全体としてそれを協力しようという流れが自然に生まれたし、他の学部の支持も得られたのだと思う。 あの時期を乗り切るために最良の理学部長だったと今でも信じている。 同時に、本当にお人柄のよい誠実な数学者である藤原さんにああいうお仕事をしていただいたのは申し訳ないという気持ちは今でも消えない。
ご本人のご意向で、最終講義もパーティーも簡素なものだった。 最終講義のほうは、数学科の談話会という形で、ちゃんと定理の証明を話された。 パーティーは、教室を使ったごく内輪の手作り感あふれる簡単な会だった。 しかし、どちらも、藤原さんの謙虚で誠実なお人柄を反映した、素敵な集まりになった。
で、適当に、まわりの人と飲みながらしゃべっていたわけだけれど、誰かが「バローズが青春で・・」とか話していると、ぼくの迎えに座っているどっかの知らないおっさんが「バローズが青春って、それは暗い」とか、ぼそぼそ言ってるのが聞こえる。なんだ、このおっさんはと思っていると、そのうち、ぼくの web 日記(あなたが読んでいる、これですよ)のことに話題が移ったら、そのおっさんが「田崎先生といえば Perfume。Perfume といえば田崎先生」とかわけのわからないことを言い始める。げっ、なんじゃ、この人は俺を知ってんのかいと思って尋ねてみると、そ、そ、そ、それは、稲葉振一郎先生その人であったのであったのであった(ブログはこっち)。
稲葉さんと言えば、ぼくがネットに出入りしはじめて黒木掲示板とかその周辺で色々と遊んだり試したりしている頃からの、ネット上の知り合いの一人。 純粋にヴァーチュアルでネット上の存在だと思っていたのが、とつぜん「田崎先生といえば Perfume。Perfume といえば田崎先生」などと言いつつ現実化してくるとは、さすがである。 完璧に度肝を抜かれてしまった(ブログの写真と似てないし(←人のことは言えない))。
その後、お互い酔っぱらいながらも、訳のわからない会話を交わした。 懸案であった「別にナウシカ解読しなくていいじゃん」というのも聞いてみた!(別に解読しなくていいらしい。) あと、椎名林檎はもういいのかとか、どうせ何年後かには Perfume なんて忘れて新しいアイドルに夢中になるだろう自分を考えて問題だと感じないのかとかも言われた。ほっといてください。ああ、そうだ。あと、記念すべきこととして、「リビドー」っていう言葉が現実の会話の中で発話されるのを、おそらく生まれて初めて聞いた(あ、すみません、自然科学、社会科学を含めて一般的に最適化を議論するような数学の解説を書くべきだとか、真面目なお話もしました)。 いやあ〜、楽しかった(付記:ありがとうございます。こちらも(上ではふざけて書いておりますが)お会いできて大変光栄でした。今後ともよろしくお願いします)。
いつも書いているかも知れないが、こうやって、ネット上での知人が次々とリアルな存在になってしまうのは、うれしいような寂しいような、複雑な気持ちだ。 でも、今でも、K さんとか、あと、K さんとか、それからネット会では超古参の、あの K さんとかには、未だに会ったことがないではないか。 まだまだお楽しみはあるのじゃ(みんな K さんだけど、別の人たち。それぞれ、社会学者、経済学者、数学者ですな)。
こうして、12 月あたりから続けている「週 1 のプール」は 2 月も達成。 実は、入試関連業務でどうしても日曜日に泳げないことがあったのだが、そのときも無理に週日に一回泳いだのだ。
で、今日は(手直しすべき論文を大学に置き忘れてしまったので(←中川さん、ごめんなさい。ここ読んでないだろうけど))少しイレギュラーな仕事をしたのだが、それについては、また明日以降に書こう。