茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
↑ ごく少数の知人に送った年賀状と同じ文面です(余分な「ず」を含めて・・・)。
140 字よりは長いけれど、それでも、文字数は少ないなあ。これでもハガキいっぱいいっぱいの印刷で怪文書のようになってしまった。
写真を見るとまるでトレーニングジムにでもいるみたいだけど、自由に回転する椅子に座って、モーター駆動で回転している金属円盤の回転の向きを変えて遊ぶ「科学遊具」を試しているところ。角運動量保存則を満たすように椅子が自然に回転するんだけど、回転の向きだとか、円盤の向きを変えるときの「手応え」なんかが予想と違ってしまって、ちょっと焦っているのであった。
母が整理した昔の写真のアルバムを眺めて皆で盛り上がる。 ぼくが書くのはなんだが、祖母はほんとうに生涯を通して素晴らしく美しい人だった。 ぼくは D3 の夏に学位をとって、すでに身重だった妻といっしょに Princeton へと旅立った。 その時の父が今のぼくとちょうど同じ年齢だということに気づき、一瞬目眩を感じる(←父は子持ちがとても早かったことに注意)。 「精神的には大学院に入って研究を始めた頃と同じ気分」などと言ってはいるが、時間は着実に流れているのだった。
夜の首都高を息子の運転で走る。 扇大橋あたりからみる東京の夜景は圧巻。 立ち並ぶビルと無数の灯りはやはり美しい。 日本が戦争以来の大災害に見舞われて一年も経たないことを思うと不思議な気持になる。
お正月だからといって特別のことはないので 2 日から普通に仕事をしているわけだが、唯一「年始めの恒例のお仕事」として「みすず」の「読書アンケート」の原稿を書く。 様々な文化人(←えっ? ぼくも?)が前の年に読んだ本を 800 字程度で紹介するという企画。 すでに何年間かやっていて、その原稿を(基本的には一年遅れで)この日記でも紹介してきた。
で、去年のアンケートは、これ。
サイモン・シン、エツァート・エルンスト「代替医療のトリック」(新潮社)
私自身「ニセ科学」批判に関わっていることもあり必読と思い手に取った。著者らは、鍼、カイロプラクティック、ホメオパシーなどの代替医療の「治療効果」が本物なのか単なる精神的な効果(プラセボ効果)なのか、客観的なデータを元に冷徹に分析する。「まじめに試して効果があるか否かを調べる」ことに尽きるのだが、本書を繙けば、これが驚くほどデリケートな問題であることがわかるだろう。そして、多くの治療法について肯定的とは言えない結論が導かれていく。日本でも代替医療に過度に依存したため通常医療を受ける機会を逸して命を落とした事例が問題になっている昨今、多くの人に読まれるべき本だ。
代替医療の推進者の多くが「現代の医学は非人間的だ」と唱える。これほどに浅薄きわまりない言説が堂々とまかり通る現実が悲しい。人間についての膨大な経験の蓄積から普遍性の高い事実を抽出し、それをもとに個々の患者を手厚く治療し、失われていたであろう数多くの命を救っていく --- この壮大な営みほどに「人間的な」ものが他にあるというのだろうか?
ところで、慧眼なる読者はお気づきかも知れないが、上のアンケートは字数制限の 800 字(←ぜんぜん守らないで、2000 字くらい書いちゃう人もいるんだぜ!)の半分程度の長さ。 実は、ぼくが(どういうわけか)400 字だと勘違いして、必死でコンパクトにまとめたのであった。 アホではあったが、その分「締まり」のいい文章になったかもしれない。
通常のルールだと、これは来年のお正月の日記に載せることになるのだが、あまりに「今」の空気を反映した読書記録なので、今日の日記にそのまま載せることにする。 「みすず」の特集号が出るのはまだちょっと先なのでやや非常識なんだけれど、お許しいただけることを願う。
(1) 円城塔『これはペンです』(新潮社、2011年)
(2) アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞:ポストモダン思想における科学の濫用』(岩波現代文庫、2012年)
(3) International Commission on Radiological Protection "Application of the Commission's Recommendations to the Protection of People Living in Long-term Contaminated Areas after a Nuclear Accident or a Radiation Emergency", ICRP Publ. 111 (2009) (web で「ICRP 111」と検索すれば無償で入手可能)
震災から何ヶ月か経って「あの日」から小説を読んでいないことに気づいた。様々なバランスが狂い時間の流れが変わった影響の一つだった。年末になって(1)を手に取った。表題作を一気に読み、自分が「頭を使いすぎて」素直に愉しみきれていないと感じる。元理論物理学者の円城の作品ということで「裏」を考え過ぎるのか?「風景の匂いをかぎたい」「この人物の空気も描いてほしい」といった凡庸な感想が頭をよぎる。そのまま併録の「良い夜を持っている」を読み進めるうちに思わず頬がゆるんでいく。円城は私の感想を見越しすべてに答えているではないか! 無限記憶というとボルヘスの「フネス」を思うが、円城はこのテーマを中編の素材として十二分なまでに構造化・熟成させた。小説としても読んで愉しく、「街」や「川」には既に懐かしささえ感じる。「特異から普遍に迫る」文学の貴重な成功例だ。
翻訳に関わった(2)を文庫化にあたって再読。偶然だが(1)ともゆるやかにつながる。ポストモダン哲学の高名な文献における科学・数学に関する言説の一部が馬鹿噺に過ぎないことを具体的に指摘する痛快な批判の書。日本でも話題を呼んだが、私見では賛否とも往々にして深さを欠き文化への真の貢献には至らなかった。むしろ若い世代が「予防接種」的に読む事で文化の背景を整える役に立つことを望む。
(2) を翻訳したのはこれが科学と社会の関わりについての問題だと考えたからだった。原発の安全性や放射線被曝の健康影響が重要な課題となった今の日本では、科学と社会の関わりは圧倒的な切実さを持つようになった。私も放射線についての多くの文献を読みささやかな情報発信(webで「放射線と原子力発電所事故」で検索)を続けている。(3)は放射能に汚染された地域で人々が暮らし続ける状況への対応をまとめたICRP(国際放射線防護委員会)の文書。ICRPには批判もあるが、ここには過去の不幸な事故からの教訓を活かした「人間より」の視点と静かな迫力がある。
実を言うと、(2) を「再読」したのは、文庫版の校正刷りを読む作業。 昨日、「初出勤」して大学で校正を終えて岩波に送り返した。 けっきょく、ざっと眺めて編集者の質問に答え、それから、面白そうなところを読み直した程度。
本については上の短い紹介と私見が必要かつ十分な気がする。興味をもった方にお読みいただければ幸いです(なお、内容は単行本と同じ。日本での状況を知ったかぶりで語る解説などを読まされる心配もご無用)。
しかし、どうでもいいことだけど、ラカン(←数学用語を駆使する精神分析学者)の講演の日本語訳は秀逸だと思う。 かれが意味がありそうでなさそうな謎のロジックを実に饒舌に愉しそうに語って聴衆をぐいぐい引きつけていく様子が見事に出ている。 こなれた日本語になっているけれど、文法的には正確だし、数学の内容も(理解できる部分は)完全に正確に訳されている。 この部分は原典が英語だったので、ぼくら(実は、ここは、ほとんど大野さんのお仕事)が訳した。 ラカンの「専門家」が訳したものよりも、ずっとラカンの魅力を上手に伝えているんじゃないかと勝手に思っている(まあ、本の内容としてはラカンを徹底的に批判しているわけだけど・・)。
「イジング本。」
臨界現象のところで、あとからくっつけた部分の構成が悪いなあ。
こういうのが放置してある本はいっぱいあるけど、ぼくの本ではそれは許されない。
面倒だけれど、中規模の修理をしよう。
上の告知欄にも載せたけれど、
大阪大学での集中講義のお知らせ (web ページ)
非平衡熱・統計力学(というものがありうるとして、そこへ向かう一つのアプローチへの)入門
大阪大学理学部にて、2012 年 1 月 31 日(火)午後 〜 2 月 2 日(木)
大晦日あたりに書いたけれど、最近はいろいろな時間配分が破綻していて、やるべきことを片付けるのが大変になってきている。 それで、(実に不遜だと思いつつ)講義とか講演とかの依頼は(少なくとも物理関係については)すべてお断りしてしまっている。 申し訳ありません。 今回の阪大の講義は、ずっと前(もちろん震災よりも前)に依頼されて引き受けていたものなので、(随分と遅くなったし、諸般の事情で直前の告知になってしまったけど)まあ例外的にやるというわけです。 そのあたりもご理解ください(←誰に書いているんだろうね?)。
いずれにせよ、やるからには聞いてくれる人にとっても自分にとっても意味のあるものにしたい。着々と準備中です。
で、文科省への愚痴の最後は、もはや文科省とはあまり関係なくなってきて、
6. もう飽きてきたのでやめるけど、そもそも、こんな風にパワーポイントで作った発表用(?)のスライドを公開するのが誠実な「情報発信」なのか? 確かに、世の中にそういうのがやたらと増えてきたけど、ほんと、それでいいのか? 発表用のスライドというのは、あくまで、口頭や身振り手振りでの発表があることを前提に作る物。それだけを読んでも情報はちゃんと伝わらないし、誤解も生じうる。それ以上に、たとえば pdf の文書を単独で読む人たちのことを考えたら、発表用資料をそのまま差し出すのは失礼でしょう。時間がなくてとりあえず発表資料を公開というのはありだろうけど、ちゃんと情報をだしたいなら、読み手とちゃんと向き合って、もっとも適切だと考えるフォーマットでしっかりと書かなくてはいけないよ。という感じで、「パワポのファイルをネットにあげて情報公開」という「文化」、いや、「非文化的野蛮行為」への文句になっている。 日頃から思っていたことをここぞとばかりに書いているので、文科省にしてみればいい「とばっちり」と言えよう。 まったく思慮と落ち着きのない奴もいたものだ(←だから、おまえだって)。
しかし、「プレゼンテーションファイルを情報発信のメディアにしてしまう」という風潮の蔓延が危険だとぼくが真剣に考えているというのも、紛れもない事実。 これは、(Twitter 的な刹那的コミュニケーションの台頭とともに)ぼくらの文化を「腑抜け」にしてしまう可能性をもっているとさえ考えているのだ。
上の項目 6 の愚痴に対して、賛意を示してくれた方もかなりいらっしゃった。 しかし、よく考えてみると、こんな文字ばっかりの html 手打ちの日記をわざわざ読んでくださる方というのは、「パワポファイルで満足」という風潮とはもっとも遠いところにいるわけだ。 そういう人にぼくのメッセージが届いても、なんというか、切実すぎる比喩を使えば、「量子力学の講義の出席者が妙に少なかったときに、『え? これだけ? ちゃんと講義に出ないとやばいんだけどなあ』と、ちゃんと出席している人たちだけに向かって話す」のにも似た感じで、実質的ではないとも言える。
では、どうする? 講義に出てない子たちに、じゃなくて、プレゼンファイルを見るのに慣れている人たちにもメッセージを届けるにはどうすればいいのか --- と考えるに、これってけっこう正解に近くないでしょうか? (他にもあります。こちらの目次を見て。)
それと知って会ったのは一度だけだったと思う。
○○大学○○キャンパスの○○号館の廊下を、いつものように○○さんと途切れることなく話しながら歩いていた。ドアの開け放たれた学生居室の前を通ったとき、「あ、あれが○○ですよ」と教えてもらい、古巣の研究室を訪れ椅子に座ってコーヒーを飲んでいたかれと目を合わせ軽く会釈したのだった。
当時、ぼくはかれの web ページをかなり日常的に(というより、実は半ば中毒的に)読んでいたし、あちらもぼくが web に書く物を見てくれていたのではないかと思う。 物を書くのが好きな人の多くが自前の web サイトに日記なんかの文章を書いて公開していた時代。 気のせいかもしれないが、(ぼくを含めて)理論物理屋の中にはそういう web 上の物書きが多かった。 それぞれが独自にデザインしたページでそれぞれのスタイルで文章を書く。 そんな時代だったのだ(←って、おまえは今でもそれだろうが)。
そんな中で、かれのページ、かれの書く短い文章は、ぜんぜん違っていた。ページデザインも独特でかっこよかったが、そういうこと(だけ)じゃない。 そうだなあ。どう違ったかというと、 どう違ったかを説明するにはかれの文章を再現しそしてデザインも再現してすべてお見せしないといけないような具合に、違った。
「そういう看板を掲げるなら、・・・・というような路線で徹底的に攻めて、そこで数理的にも全く非自明な何かをつかんできて見せるくらいのことをしなくては」と○○さんに言ったことがあった。まったく無茶苦茶に要求の高い批判なのだが、昔からの付き合いだから(そして、相手を尊敬しているから)そんなことまで言ってしまう。うううんと真摯に反応した上での答えは「かなり近いことをやったのがいるんだけどな・・」だった。それが研究者時代のかれの仕事。
こういった話を作家としてのかれの仕事に結びつけるつもりはない。 もちろん、多くの知り合いがそこに一つの流れを見ているのは事実で、「かれの小説を読んでいるとかれの論文を読んでいる気になる」という○○さんの感想は間違ってはいないのだろう。もちろん、ぼくもそういう風に感じることもあるんだけど、でも、まあ、話はそこまで単純じゃないと思いたいんだなあ。本当に優れた小説を書くっていうのは、まったく別の次元の話なんだと素朴に思っているのです。
そして、ともかく、今日の夕方のニュース。
物理の賞だって大した意味はないものが多いわけで、文学の賞なんてきわめて不適切なものが多いことは知っている。 そうは言ってもめでたいことだ。いや、それだからこそ、ちゃんとした作家の受賞がうれしいというべきか。 何人かの知り合い(上に○○として登場した人たち(ちなみに上の○○は全て違う人や名称が入る))もみんなすごく喜んでいる。
円城塔さん、芥川賞受賞おめでとうございます。
廊下と部屋の中で会釈し合った「準知り合い」としてというより、素朴に本が大好きな「文学」愛好者として、この受賞を心からうれしく思っています。
あと、まあ、新年の日記で絶賛して受賞を後押しした甲斐があってよかったとも思ってます。
昨日は午前中に量子力学のテストをして、そのまま居室でパンを食べてずっと夜遅くまでかけて採点と集計という労働日。 今日も午後から予定がたっぷりなのだけれど、たまたま早く目が覚めて一仕事すんだので、なんとなく円城塔の話の続き。
ぼくの親しい人たちの何人かが円城氏ときわめて親しいので、その人たちの「うれしいな」ムードが伝わってくる。 とくに、一昨日の日記の「超難問穴埋めクイズ」の最後に登場した「かれの論文を読んでいる気になる」発言の○○さん(←ちなみに、彼女も「話はそこまで単純じゃない」には大賛成とのこと)は大学院時代のかれとすごく親しかったそうで、かれが小説家として成長・開花しそれを広く認められたことについて、ほとんど自分の弟のことかと思うくらいに喜んでいる(ちなみに彼女の本当の弟さんも数奇な人生を生きている面白い人らしい)。 彼女のメールからあふれだしたハッピー感がぼくにまで伝染し、ぼくもうれしくなってしまう。
芥川賞受賞者の記者会見では、もう一人のほうが話題を呼んでいるけれど、円城さんの誠実でしっかりとした回答は読み応えがあった。 とくに、
小説を実際に書かないと考えられないようなことを考えられればおもしろいなと思います。という発言はすごく(本質的なまでに)よい。
届くのは阪大の集中講義の直前かな? だったら、なおさら、早めに準備を終えなければ。
Perfume 3rd Tour 「JPN」開演前の座席で紙とシャーペンをもって阪大での非平衡講義の準備を続ける。 ちょうど Komatsu-Nakagawa 表現がおわって、非平衡熱力学に入るあたりの流れを完成し、詳細もつめていく。 しかし、大きな会場だ。何万に入るのだろう? 遠くの座席は煙ってよく見えないほど。 思い出すと、東京ドームの Perfum のライブの開演前は佐々さんのタイリングの統計力学をやっていたんだなあ。
さいたまスーパーアリーナ
最初はセーターを着て聴いていた中年数理物理学者が、そのうちポロシャツ姿になり、最後は(ファンクラブ)T シャツ(←ポロシャツの下に着ていたのですよ)姿になって腕を振り回し飛び跳ねていたというほどの盛り上がり方。
舞台は本当に美しい。レーザーこそ現代物理学の最高の発明品であるとの思いを強くする私である。 もちろん、のっちは遠くから見ても圧倒的に美しくかっこよく、かしゆかは愛くるしく可愛らしい。そして、あ〜ちゃんの素晴らしい笑顔と笑い声と存在感。う〜ん、この娘はほんとうに最高ですよ(5 月に武道館 4 日間の追加公演もあるので電磁気のテストなどで埼玉に行けなかった人は武道館に挑戦してみてください。しかし、三人ともこんなに働いて大丈夫かなあ。おじさんは心配だじょ)。
う、なんか、シャーペンを持つと手首が痛い・・・
さてこそ講談社+アマゾンの仕事にぬかりはなかった。
円城塔「道化師の蝶」が届いてしまったではないか・・・
いや、まだ読んでない。
講義を楽しみにしてくれている人が一人でもいると仮定して、全力で周到な準備をしなくてはいけない。 構成だって確定したつもりでも反省点があればもとに戻ってしっかりと直さなくてはいけない。 自分自身で理解不足のことがあれば、今からでも元の論文に戻るなり、自分で導出するなりして理解しなくてはいけない。
そういうわけだから、まだ、読んでない。講義の準備が完璧になるまでは読まない。ていうか、もうちょっと正確にいうと、まだ、ほんのちょっとしか読んでない。講義の準備が一応おわるまでは本気では読まない。 すごく我慢して、ちょっとだけ読んだら、うんといっぱい仕事をして、それから、ちょっとだけ読んでる。
「オブ・ザ・ベースボール」は普通に(ぼくが思うところの)小説が好きな人には手放しでお奨めできる作品で、ぼくは大好き。なんというか、この作家はずっと前から「単なる芥川賞作家」とかいったレベルをはるかに越えていたということだ(まあ、それが新年の日記で引用した「みすず」への寄稿のメッセージでもあったわけだけど)。