茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
二学期が始まり、色々とあわただしい。 今学期は特殊事情で普段よりも講義が多い上に、教育に関連して何かと気がかりな案件がいくつかあってなかなか気を使うのである。
そうは言っても基本は元気だ。講義も雑用もかなりしっかりとこなしていて、その合間に、色々と仕事もしている。 少し仕事のほうが集中力を欠いているかも。昔やってそのまま放置してあったことを発掘したり、新しいことを考えたり、複数のことをパラレルにやっている。まあ、たぶん、そういう時期なのだろう。
今週の後半は、研究とは関係ないけれど、数学の本の改訂作業をしていた。 今の高校生は大学入学前に行列に触れてこないので、それに対応するための加筆と書き直しをした。これは、来年の新学期までに絶対にやらなければならないことなので、ちょっと優先順位が高いのである。
数学:物理を学び楽しむために
執筆中の教科書を公開しています。ご活用ください(更新日 2014 年 9 月 24 日)。
最新の更新は、高校で行列を習って来ない(来年からの)新入生への対応。
アゴタ・クリストフ『文盲』を読了。
文庫本巻末の「解説」は絶対に読まないというのがおそらく中学か高校くらいの頃から(文庫本を読むようになってから何度も何度も興ざめで的外れな解説に失望された辛い経験から学んで)ぼくが厳格に守っているルールなのだが今回ばかりは例外を許し本文を読み終えた後そのまま一呼吸ついて堀茂樹さんの解説も一気に読んだ。 余分なもの全てを削ぎ落としてさらに刈り込んで言葉の芯を残したかのような本文のスタイルと明晰かつ論理的にしかも実にスムーズで心地のよい日本語で本書の背景を必要十分に語り尽くす堀さんの解説の対比が、また、独特の得難い読後感を生んだ。
アゴタ・クリストフの名を知っている人には何も説明する必要はないだろうし、知らない人には説明してもあまり意味はないだろう。 ただ、彼女は『悪童日記』という小説の著者であリ、そして、ぼくは「今まで一度も小説を読んだことがないが生まれたからには一冊くらいは読もうと思う。何かすすめてくれ」と頼まれれば迷わずこの『悪童日記』を挙げることにしている --- ということだけは書いておきたい(ま、そんな質問をされたことは一度もないのだけれど)。
『文盲』はアゴタの自伝風の短編集である。普通は彼女の小説を読んでいない人が読むものではないだろう。 ぼくたち読者にとっては小説の中で親しんでいる場面や出来事の(おそらくは)原型に出会うのは不思議に懐かしい体験である。 そういった諸々の感想を書き始めるときりがないのでやめておこう。 この自伝の別の重要なテーマは言語だ。 『文盲』というタイトルは成人してから仏語圏に移り住むことを余儀なくされ会話はようやく会得したものの読み書きがまったくできなかったというアゴタの人生の一時期の状況を指している。 彼女はそこから仏語の読み書きを学び、全ての執筆活動を仏語で行ない、人類の歴史に残る小説を書くに至る。 そういった個人史に圧倒されるのももちろんだが、ぼくは、そもそも、人類が複数の言語を持っていること、そして、一人の人間が複数の言語を使うことができるという不思議について改めて考える。『文盲』の巻末解説の堀さんの名文を少し抜き出そう。
言語はコミュニケーションの道具であるけれども、箸やコンピューターのような純然たる道具ではない。一つひとつの言語が独特のやり方で世界を切り取っているのであり、そこには集団の記憶・価値観・文化が織り込まれている。だからこそ母語は、個々の人間にとって人格形成の土台であり、アイデンティティーの拠り所となる。・・・(p. 102)そう。母語は特別だ。ただ、それで話が終わって「誰にとっても母語は拠り所であり、それ以外の言語は外国語」なら単純なのだが、そうでないから面白い。 アゴタの例は特別に過ぎるとしても、ぼくたちはみな一定の努力をすれば母語以外の言語もある程度は理解できるようになる。 これが不思議で、また、愉しい。 ただ、ぼく自身には、この不思議さ、愉しさを普遍的なものとして掘り下げたいという気持はそれほどない(普遍的なものに向かうエネルギーは物理や数学に使っているからかもしれないとけっこう本気で思う)。むしろ、純粋に個人的な体験として、日本語を母語とする自分が時には英語をも用いる、その独特の感触が、自分の脳がちょと不思議なやり方で多層に使われている感覚が、面白くて仕方がないのだ。 最近、小説好きの趣味と、そういう多言語(といっても二つだけど)の絡み合いを愉しむ気持を共に満足させるための試みとして、ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』を日本語と英語とでほぼパラレルに読んでみるという新しい遊びを始めている。 色々と試行錯誤したけれど、今のやり方は英語先行型。 英語版ををゆっくりとたどたどしく読む。語学力が低いので、しばらく進むとだんだん混乱がして話がわかりにくくなってくる。 そうしたら日本語に切り替えて、日本語版を前に読んだところから読み始める。そして、英語で読んだところまで追いついたら、そこで日本語版を閉じてまた、英語版に戻るのだ。今まで英語で小説を読んだことは何回があるわけだがこうやって母語とスイッチしながら読むというのは初めての遊びで、これは、今のところとても愉しいよ。 この調子で、『統計力学』の英語版を執筆する計画について書いてもいいかなと思ったのだが、もとのアゴタ・クリストフの話から外れ過ぎるし、今夜ももう一仕事したいので、ここらあたりで(タイトに書き出したものの、けっきょく、いつものようにとりとめなく散漫になってしまった日記を)終わりにしよう。