茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
ああ、本当にずっと日記を書かずに夏を過ごしてしまった。 すでに 8 月も最終日になっていて、しかも、ちょっと自分でも驚くほど筆が進まない(ほんと、書くときにはすさまじいスピードでいっぱい書くくせにねえ)ので、これを書いているうちに 9 月になるのかもしれない。 けど、あまり正直な日付で書いてもあとあと読みにくいばっかりだろうから、適当な日付で書く。
国際会議 Workshop on Quantum Information Physicsのことを書いておこう。 8 月の 4 日から 7 日にかけて京大の基研で開かれた研究会だ(なので 7 日の日付で書こう)。
「重力場中の場の量子論の真空はある意味で有限温度の状態に対応する」という(←いい加減な説明だけど)Unruh 効果の提唱者である Unruh さんを初め、量子、情報、物理をキーワードにして多彩な人が集ったユニークな研究会だった。
Unruh さんは、さすが相対論業界の大物という感じで、体もでかい(←そこかよ)。 研究会冒頭の講演では、まず、巨大ビーチボールなんかを使った一般相対論とブラックホールのミニ講義をして、それから本題に入るというサービスぶり。 研究会全般をとおして、様々な講演にずばりと的確な質問やコメントをして会議の空気を作っていた。
以下、研究会の少し前に Twitter に書いたものをベースに、今回のトークの位置づけを書いておこう。 ここは、ちょっと物理が濃くなるので、読み飛ばしたい人はまとめて読み飛ばしてくだされ。
主催者のみなさんが、かなり異なる分野のぼくに招待講演を依頼してくれたのはとても光栄なことだ。また、せっかくだから様々な分野の人に統計力学の基礎付けについての一つの「正解」を知ってほしい。そう思って、かなり入念な準備を重ねた。 家にいるときに最低 3 回は時間を測ってて「通し練習」をしたし(50 分講演だから、一回通すだけでほぼ 1 時間かかるんだよね)、研究会初日の晩は強い意志で夕食だけを食べてアルコールを飲まずにさっさとホテルに入り、最後の通しの練習をした(で、それからビール飲んで寝た)。
で、迎えた当日の講演のことを以下に書いておこうと思う。 実は、Twitter に既に書いたんだけど、やっぱりここに(Twitter に書いた物を多少編集して)記録しておきたい。
後で聞いたところでは、研究室の先輩でぼくを昔からずっとご存知の武末さんは「どうも、いつもの田崎と様子が違う」と思ってご覧になっていたらしいし、佐々さんも沙川さんもぼくがやたらと時計をふり返るのに気づかれていたようだ。 まあ、そういう人たちの目はごまかせないよね。ただ、もっとも典型的なセッティングであるはずの二つの巨視的な系の熱的接触の場合ができないのが悲しいよね --- と講演の後に話していたのだが、なんと、帰りの新幹線の中でぼーっと考えていたら(より正確に言うと、帰りの京都の地下鉄でアイディアがわいて、それについて新幹線で考えていたら)これが、するするとできてしまったのだ。ははは、うれしいねえ。新しい定式化で攻め始めてからこの設定を真面目に考えていなかったからなあ。 これが研究会の本番で話せなかったのは残念だけど、まあ、そればっかりは仕方がない。
研究会の刺激から生まれる、こういう収穫はとてもうれしいよね。
ついでに、(基研の教授になった)旧友の青木と議論するチャンスもあり、格子ゲージ理論のエンタングルメントエントロピーについて、けっこう、本気で愉しく考えてしまった。 これもまた、今回の研究会に関連する大きな収穫の一つだ。
日付を色々と変えて書こうかとも思ったけど、まあ、いいや。 正直に今日の日付で書こう。
夏休み日記っぽさを出すために、(ぼくが今年の夏に撮った)夏っぽい写真を適当に並べましょう。 長野にいたときに撮った写真ですが、写真と本文はとくに関係ありません。
以下、ほとんどの環境でかなりスペースが空くんだけど、これもまた夏休みの日記っぽいから、いいだろう。
この夏、ぼくがかなりの時間を費やしたのは、やはり JST の数学分野の CREST / さきがけの領域アドバイザーとしての仕事だった。
実は、未だに、領域アドバイザーなるものの仕事を完全に把握しているわけではないのだが、今の段階での仕事は、それぞれの研究領域に応募してきた研究計画の審査である。最初は、分担して書類を読みまくってレポートを書き、アドバイザーで集まって書類審査の結果をふまえて真剣に議論を重ねて(←ほんと、ガチ議論です)面接に呼ぶ人を決め、それから面接で話を聴いて質問し、さらにアドバイザーで超真剣に議論してどの研究計画を採択するかの意見を出す(最終決定するのは統括という役割の人) --- こうやって書いてもけっこう長いが、これを実際にやるのはかなりヘビー。会議や面接だって(みなさん、日本中から集まっていらっしゃるわけだし、結果は重大だし)密度濃く延々と続くのである。
で、このプロセスに初めて参加してみて感じたことをざっと書くと、
俺はやっぱりけっこう発言する
当たり前だ、田崎はよくしゃべる奴じゃないかと言われるかも知れないけど、いや、そうでもない。
今回ぼくが関わったのはあくまで数学に根ざした研究領域であり、ぼくは本流とは異なる物理サイドからの視点を取り入れるためにアドバイザーに選ばれたのだと思う。それに、いくらぼくだって、ぜんぜんわからない話のときには黙っている。
そういうメインではないアドバイザーの立場から意味のある発言や質問ができるときだけ口を開こうと思っていたわけだけど、意外と、そうやって口を開く場面が訪れたということだ。
選考プロセスはそれなりに愉しい
数学を広い対象に応用することをねらった様々な提案がでてくるので、数学そのものも、応用の対象も、ぼくには目新しいものが多く、とても刺激的だった。
さらに、領域アドバイザーは(ま、当たり前だけど)みなさん個性的で知識も豊富で、この人たちと知り合って話をするのはそれだけでも愉しいことだった。
しかし、やっぱり・・・
しかし、結局のところ、すべては(比較の対象にもよるけれど、普通に比べれば)高額な研究費を集中的に配分するためのプロセスなのだった。
やっぱり、そういうのは性に合わないとあらためて感じている。
もちろん、ぼくは研究費ができるかぎり公平かつ良心的に配分されるお手伝いができればと思ってアドバイザーを引き受けたわけだし、参加してみると、他のアドバイザーもみなさん同じ気持ちで誠実に審査に取り組んでいる。
そうは言っても限界があるし、なかなか・・
「おまえは、それなりに年長になった科学者として、日本の科学の流れに影響を及ぼしたいのではないか? JST の領域アドバイザーとして影響力を発揮できるようになった喜びはないのか?」という質問を想定して考えてみるに、たぶん、ぼくは、こういうやり方で影響力を発揮はしたくないんだろうなと思えてくる。
ぼくにとって自然な「影響力の持ち方」は、また別なんだろうと思う。
そうそう。 8 月の終わりごろに誕生日を迎えました。
以前は、年齢をかかないようにしてたんだけど、生まれた年とかネットで調べればすぐにわかるので、書いてしまうけど、この 8 月に 55 歳になった。なんと四捨五入すると 60 ではないか。なんだそれは。うそだろ。このヘラヘラした落ち着きのない人物を見よ。なんかのまちがいだろ。 (ところで、「まちがい」という話のついでに書いてとくと、wikipedia には(少なくとも今の時点では)ぼくが 1981 年に大学を出たと書いてあるけど、ぼくは 1978 年に大学に入学して、1982 年に卒業している。大学院をちょっとだけ早めに切り上げて 1986 年に修了しているのでそこから逆算して間違えたんだと思う。 いや、ほとんどのみなさんにとって、1981 年も、1982 年も、1192 年も、ほとんど変わらない、自分が生まれる前の太古の大昔だってことはわかっているんだけど、本人としては、学年を一年上に書かれているのは釈然としないのである。実際、「○○さん(←一学年上の人)とクラスメートでしょ?」と(wikipedia で調べてきた人に)聞かれたこともあって実害もあるのですよ。誰か直してくだされ。)
と、いくら騒いでも 55 年間以上の年月を生きてきたという事実は動かしがたいのであって、まあ、慣れることも納得することもできないとしても、受け入れるしかないのである。
しかし、確かに 55 歳ともなると、いろいろと考えてしまうことはある。
なんだかんだ言って、ぼくも基研の運営協議会委員とか将来計画委員とかをやった上に、今回は JST の領域アドバイザーにもなってしまった。今度は物性研の協議委員というのもやるらしい。 自分から進んでこういう「社会貢献」みたいなことをやろうと思ったことは一度もない。 ただ、あちらから降ってきて諸般の事情で断れないものを引き受けていたら、ちょっとずつだけど、なんかそういう委員を色々とやっている「中堅のおっさん」っぽくなりつつある感じなのである。
いつも書いているように、色々な人たちのおかげで研究と教育を楽しみながら人生を過ごしているので、やっぱり多少の「恩返し」は必要だっていう気持はつねにある。 けれど、そういう視点を別にして、幾ばくかの研究費の配分に(ごく末席からではあるが)影響を与えたり、一流の研究所の将来計画に多少の意見を盛り込んだりすることを通して、日本の科学の進み方にごくごくわずかとはいえ影響を及ぼしていることそのものを、ぼくはどう思っているのか?
そういうことを今さらながら自問している。で、自問して考えた結果、こういう「影響の及ぼし方」はやっぱりあまり性に合わないな --- というのがぼくの答えだ。
もちろん、科学者として生きてきて、人に影響を与えたいと思わないわけではない。 ただ、影響の与え方としては、やっぱり、ぼくが(ささやかながら)自分でみつけたこと、書いた論文、書いた本、講演、講義なんかを通して、物理(を含む科学)を学ぶ人・研究する人たちの物の考え方・物の見方を少しでも((ぼくが思う)よい方向に)変えていくというやり方を目指したいのだ。そういうのが好きだ。
と名文化してみると、これは科学者としてはきわめて凡庸な考えだよね。 「誰だって、アドバイザーや協議会委員がやりたいわけじゃない。でも、誰かがやらなければいけないんだから・・」 という声が聞こえて来そうだ。
正直なところ、自分の能力がだんだん失われていって、今みたいに色々なことを理解したり考えたりできなくなるということを想像すると、ものすごく怖いのだ。 怖がってもなにも得るところはないんだけど、やっぱり怖い。 そして、頭脳の働きは若い頃から比べればもう確実に低下しているわけで、しょちゅう「自己動作チェック」みたいなことをやって、いったいどういうところがどれくらい衰えているかを検証している。
幸いなことに、物理や数学に関する能力は、それほどには衰えていないようだ。 特に、聴いた話をその場で理解する能力とか、新しいアイディアを出して研究を進めていく力は、若い頃とそれほど変わらないように感じる(実際の能力は衰えているのかも知れないけれど、その分、経験が豊富になり知識も多くなったので、それで補っているのかも知れない)。これはうれしいことだ。 新しいことを学ぶ意欲と能力も、昔ほどではないけれど、保たれているつもりだ。ただ、やっぱり体力が落ちていることもあるだろうけど、多くの文献をすごい勢いで読んで新しい分野を身につけるというのはいささか苦しくなってきたかな。 何時間も何時間も頭痛がおきるくらい集中して頭を使って込み入った証明を作りあげるというようなことは最近はしてないねえ。まあ、これは研究のスタイルが変わってきたということもあるけど。
一方で、一人の人間として、日常生活を送る中での頭脳の働きの低下は、むしろ顕著な気がしている。 固有名詞を思い出せないのは、もう十年以上続いていることだし、みんなが言っていることだから仕方がないのだろう。 ぼくはそれと平行して、漢字をどんどん忘れている。まあ、自分で書く機会が少ないというのもあるだろうけど、「読めるけど書けない漢字」が増えている。 加えて、ここ数年「頭の中のフラグ」がきちんと立たなくなってきた。たとえば、「今は、麦茶のお湯をわかしている」というようなことは、計算をしていようが論文を読んでいようが、つねに頭のごく片隅に常駐しているのが以前は普通だったのだが、ここ数年、そういう「フラグ」が頭から消えてしまうようになった。 さらに、最近になって、短期記憶の定着が目に見えて悪くなったように感じる。たとえば、毎朝服用することになっている胃の薬をのんだがのまないか。 薬をのんだ瞬間のことをありありと覚えていることもあるが、服用したことがまったく記憶に残っておらず食卓の上に置いた薬がないことを見て飲んだと確認するというようなことも時々ある。書いていてもうれしくない話だ。
「物理をやるための脳のリソースを最大限に確保するため、日常生活に使う部分はどんどん削っているのだ」と勝手に理屈をつけているが、なんにせよ、自分の能力が落ちていくのをまざまざと見るのは苦しいことなんだよなあ。
と、なんかやたらと冴えない話になってしまったけど、まあ、事実なんだから仕方あるまい。
よろしくお願いします。
(と無理に結んだけど、もう 9 月 8 日なので、終わらせないと・・)