2001年度卒業生 共同研究 
1、はじめに
2、南京大虐殺に対する主張の比較
3、東京裁判にみる「南京大虐殺」と
     現代史の政治的意義について
4、教科書論争にみる南京問題
5、南京大虐殺における
   日中米関係と今後の三国関係
1、はじめに
 私たち3班は“南京大虐殺”という歴史的事件を例にとり、テーマ“現代史における歴史的意義”について研究しました。“南京大虐殺”がどのように国際政治に関係していたか、またこの事件の悲惨さを主張することで、どのような政治的意義があったのかをそれぞれの面から考察しました。
2、南京大虐殺に対する主張の比較
  【「大虐殺派」と「中間派」】

 “南京大虐殺”事件。これを聞いて、私たちはどれだけのことを知っているでしょうか?ただ漠然と“日本人が中国人に対して悪いことをした事件”と、これだけで片付けてしまう人もいると思います。実際に私もそうでした。たいして知りもしないのにまるで全てを知っているかのように、“日本人が悪いことをしたのに、なぜ政府はきちんとした謝罪をしないのだろうか?”と、日本政府の態度に不満を持っていました。しかし今回、このことを調べるうちにこの“南京大虐殺”事件は複雑な糸が絡みあっていて、それをとくことが難しい事件なのだと初めてわかりました。

 現在、日本では中国の公式犠牲者数である30万人を座標軸に「大虐殺派」、「中間派」(少数派)、「マボロシ派」という三つのグループが論争を繰り広げています。「大虐殺派」というのは、中国の公式犠牲者数に近い数を掲げ、日本軍が大規模な虐殺を行ったと主張するグループのことです。それに対して、「マボロシ派」というのは、虐殺は行われてはいない、そんな事件はなかったと主張するグループです。そして、「中間派」というのは、南京攻略の際、虐殺はあったが中国政府が発表している30万人もの虐殺はなかった、大虐殺という大虐殺はしてはいないと主張しているグループのことです。

 ここでは、「大虐殺派」と「中間派」の二つの主張を比較していきます。「マボロシ派」の主張は、だんだんと崩されてきており、“南京大虐殺”という事件が全くなかったと主張することは難しくなってきているのでこれは一先ずおいておきます。

 さて、二つの主張を比較にするにあたり、私はグループの主張が書かれている本をそれぞれピックアップし、この本から比較をすることにしました。

@「大虐殺派」
   『新版 南京大虐殺』    藤原彰  岩波書店  1988年
   『南京大虐殺 日本人への告発』
     南京大虐殺の真相を明らかにする全国連絡会  東方社  1994年

A「中間派」
   『再審「南京大虐殺」 世界に訴える日本の冤罪』   詳しく
     日本会議国際広報委員会代表 竹本忠雄  明成出版  1999年


  【盧溝橋事件にみる双方の主張】

 
まず初めに、南京大虐殺に至るまでの過程をみていきたいと思います。南京大虐殺に至ったきっかけは、満州事変や盧溝橋事件まで、またはもっと過去にまで遡ってみていくことができますが、ここでは盧溝橋事件から見ていきます。

@の主張
・盧溝橋事件の停戦協定は成立したが、日本政府が兵を派遣した。
・現地では事件が収まるはずだったのに、日本の政府や軍の上層部は、本格的な戦争に突入する
 気構えを見せた(盧溝橋事件)。
・上海戦線崩壊→その後、現地軍は功名心にはやって今度は首都南京に誰が一番早く着くか競い
 合いながら向かった。
           “日中の争いをひどくしてしまったのは日本である”ということを強く主張

Aの主張
・盧溝橋事件の停戦協定は結ばれたが、中国が守らなかった。だから日本は三個師団を送った。
・通州事件が起こっても、日本はあくまでも平和的解決を求めた。
・中国政府が上海に軍隊を集中させたので、やむなく不拡大方針を放棄した。
・上海戦線は敗退したが、その一部が南京に向けて退却したので、それを追った
           “日本はギリギリまで平和的解決策を求めた”ということを強く主張

 このように@とAはただ反駁しあっていることが読み取られます。何も考えずにこのどちらかの本だけを読んでしまうと、自分の中でこれが正しいという固定観念が生まれてしまう恐れがあります。読み比べることが大切だということが上の比較から理解できたと思います。


  【中間派】

 それでは次に、もう一冊本を追加して考察していきたいと思います。上の二つは反駁しあう対照的な本であることがわかったので、この事件を客観的に書いている本を交えて考察していきます。

B中立的
   『新「南京大虐殺」のまぼろし』    鈴木明  明成出版  1999年
   『現代史の争点』    秦郁彦  文春文庫  1999年   詳しく

  【南京大虐殺「範囲」の比較】

 それでは詳しくみていくにあたり、““南京大虐殺”とはいつからいつまでなのか”という虐殺の範囲と“どこまでを犠牲者として数えるか”という定義についてみていきます。

@の主張 
 *12月の初めから翌年の1月の末ぐらいまで →7週間

 
1937年12月1日、大本営が正式に中支那方面軍に対して『敵国の首都南京を攻撃すべし』と攻略命令を出した日から日本軍が攻めこみ、摘出作戦などをやり、南京の治安粛正がほぼ完了したと考えられる1月の下旬まで。虐殺はその範囲の中だけで行われたのではなく、そこに行くまでにも行われているので、これはとりあえずの目安であると主張。

 *終わりの時期:掃討戦が最もひどく行われたのが、1938年の1月の上旬までだが、その後も虐殺は続いていたと主張。また、治安が戻ったとされるのは2月の中旬なのでこの辺りまでが範囲であると主張する人もいる。 →11週間

Aの主張
 *南京攻略が終わった直後の12月13日から翌年1938年2月初旬まで →約6週間

Bの主張
 *東京裁判において、被害の範囲を“日本軍が占領してから最初の6週間”
  (つまり(1938年1月20日頃まで)と設定しているので、これを使用。 →6週間

 この設定期間がそれぞれ違うことによって、南京大虐殺の犠牲者数も変わってくることがわかると思います。人によってどこからどこまでを南京戦と呼ぶかが多岐にわたっています。範囲を長く設定すればするほど犠牲者数が多くなるということは、枠の拡大をしたいという主張者の意図があるのではないかと思われます。


  【南京大虐殺「定義」の比較】

 
次に虐殺の定義、何を虐殺と考えるのか、どのような行為を虐殺と考えるのかについてみていきたいと思います。

 まず初めに、戦争に関係ない一般市民(武装をしていない)を殺したら当然虐殺になりますのでこれは問題になりません。しかし、次の3つ、捕虜・投降兵の殺害、便衣兵の集団処刑、敗残兵のせん滅といった殺害事件、あるいは処刑事件に関しては意見が異なってきます。この三つのものを犠牲者数に入れるか入れないかで、また大きく数字が変わってきます。@は大虐殺を主張するグループなので、もちろん数に入れることを主張しています。Aは中間派なので、殺さなければならなかった理由を述べ、犠牲者の数に数えるものと数えないものを分けて主張しています。

 定義1:捕虜・投降兵の殺害

@の主張
・捕虜・投降兵の殺害は明らかに国際法上の違法なので、虐殺の数にカウントするべき。

Aの主張
・軍事上のやむを得ない事情があったためにやむなく処刑してしまった。捕虜・投降兵の殺害の全てを虐殺にカウントするわけではない。

 定義2:便衣兵の集団処刑 (便衣兵:一般市民の服を着てゲリラ的な戦闘行為に従事するもの)

@の主張
・南京の場合は厳密な意味での便衣兵というのは存在しなかった。いたのは崩壊した中国防衛軍が 軍服を脱ぎ捨てて一般市民の衣服を身にまとって難民区の中に逃げ込んでいた中国将兵だけで あった。それを日本軍が狩り出して集団処刑した。

Aの主張
・「降伏しなかった中国兵たち」の多くが民間人の服に着替えて「便衣兵」となり、こともあろうに20万人近い民間人が非難していた安全区に潜伏した。中には指揮官の命令で組織的に武器を所有したまま潜伏した部隊もある。明らかにゲリラ活動の準備を安全区で進めていたのである。この非戦闘員を装う「便衣兵」は、1907年に締結された「陸戦の法規慣例に関する条約」(第4ハーグ条約)付属規則第23条の「背信行為」に該当し、国際法違反であった。日本軍が掃蕩作戦を実施して便衣兵を逮捕・監禁したことはあくまでも合法的行動であった。

 定義3:敗残兵のせん滅

@の主張
・南京戦の場合には大量の中国軍の敗残兵が発生した。この敗残兵に日本軍は投降の勧告をすることもなしにその場で殺害する、射殺するという行為にでた。この敗残兵の場合は正式の投降の意志を表示してはいないが、すでに軍隊の実態が失われ、統制も失われ、戦闘意欲も失っている。そのような兵士を投降の勧告をすることもなしに一気に殺害するというのは人道上も非常に大きな問題があったということで、こういう行為は当然人道上も虐殺というものに該当する。

Aの主張
・非武装地帯である安全区は何の防備もない中立地帯であるべきなのに、実際は大量の中国人が潜む危険地帯であった。日本軍(歩兵第7連隊の約7600名)が捜査したところ、小銃960挺、同弾薬39万発、手榴弾5万5千発など大量の武器・弾薬を押収すると共に敗残兵7千名が潜伏していたのを発見し、逮捕した。逮捕した中国兵は、場内の南京刑務所に収容したのち、半数は12月末に労務者として上海に送られ、残りは1940年に発足した汪兆銘の南京政府に編入された。処刑はされなかった。 

 このように、定義と範囲の仕方が、それぞれの著者によって違うことが明らかになったと思います。ここでは、ある結論に持っていきたいがために自分にいい方向に事実を作ってしまっていることが見えてきたのではないかと思います。ここでは犠牲者の数がどうして人それぞれによって異なってくるかを中心に見てきました。次の章では、また違った視点から南京大虐殺を見ています。一人一人がこの歴史的事件について考え、今後どのように接していけばよいのかを考える材料になれば幸いです。
3、東京裁判にみる「南京大虐殺」と現代史の政治的意義について