2001年度卒業生 共同研究 
1、はじめに
2、南京大虐殺に対する主張の比較
3、東京裁判にみる「南京大虐殺」と
     現代史の政治的意義について
4、教科書論争にみる南京問題
5、南京大虐殺における
   日中米関係と今後の三国関係
4、教科書論争にみる南京問題
  【南京事件と教科書】

 南京事件が始めて教科書に登場したのは昭和49年(1974年度)の中学校に教科書検定の際であった。教科書検定とは民間で著作・編集された図書について、文部大臣が教科書として適切か否かを審査し、これに合格したものを教科書として使用するということを認めるということである。検定の基準は恣意的になることを防ぎ、客観的評定ができるものを教科書として使用するようになっている。49年度は検定済教科書をページ数の4分の1を越えない範囲で修正する、いわゆる改訂検定を行った。その際に提出されたT社の社会科歴史の脚注に南京事件の記述があり、かなりの修正を施した上で、合格したものが次いで、高等学校の教科書にも及ぶようになっていったのである。南京事件がしだいに人々の脚光を浴びるようになったのは昭和48年発行の鈴木明氏の『「南京大虐殺の」まぼろし』が第4回大宅壮一ノンフィクション賞をとり、南京事件の見解が多様化されたのがきっかけであった。55年度(1980年)の検定で「南京占領直後、日本軍は多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺とよばれる」から「日本軍は中国軍の激しい抗戦を撃破しつつ、激裏に南京を占領し、多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺とよばれる。」に改訂された、南京の教科書問題が国際問題にまで発展したのは1982年のことである6月26日に56年度(1981年)検定に関する新聞報道が行われ、その一ヶ月後の7月26日に中国から公式の申し入れがあり、国際問題に発展した。


  【新聞記事より】

    
昭和57年(1982年)7月28日 朝日新聞より     中国の批判

 日本の中国侵略的についての歴史的な記述の修正は戦争の責任をぼかしてしまうようなものだという。中国外務省は明らかに歴史の真相を歪曲するものであり同意できない、日本の文部省が今回の教科書検定でとった態度はきわめて不真面目であり、その動機がどこにあるのか疑わざるをえないと述べている。南京大虐殺について、文部省はその責任をあたかも侵略に抵抗した中国軍のせいであったかのように言い、事件が起きたのは中国軍の激しい抵抗にあって日本軍が大きな損害を受けたため多くの中国軍民を殺害することになってしまったと書き換えている。文部省はまた、「中国の犠牲者は20万人という多数にのぼった」とある部分や「日本軍が強姦、奪略、放火を行い、国際的な非難を受けた」という部分は削除している。

    昭和61年(1986年)7月8日 朝日新聞より   復古調教科書が合格

「日本軍が中国軍民を多数殺傷したことが報道され、国際的に非難を受けた(南京大虐殺)」と改訂。 
・日本を一方的に加害者と決めつける書き方はしない
・皇室に対する敬意をはぐくむ
・近現代史では日本を一方的に加害者と決め付ける書き方はしない

 などの方針がとられている教科書が検定で合格した。中国の教科書では南京事件をどの様に記しているか?1973年11月、日本侵略軍は徐州を戦略し、つづいて3方面から南京を方位攻撃した・・・。日本軍は南京占領した後、気違いじみた大虐殺を展開した。南京で平和に暮らしていた住民は射撃練習用の的にされ、刀で切られ、石油で焼き殺され、生き埋めにされ、はては心臓をえぐりとられるものもあった。一ヶ月余りの間に殺された者は30万人をくだらず、焼かれたり、瓦礫が山を成し、暗い冬の風がすさまじくふきわたって、さながらこの世の地獄となった。敵の凶悪さ残虐さは、全国人民のたとえようのない憤怒をはげしくよびおこしたのであった。