会議の準備に追われています。
98 年の暮れに書いた原稿だが、すでに懐かしい。 脚注のひとつに、「いまは熱力学を勉強中」というようなことが書いてある。
統計物理の基礎に関わる話であり、 その後もずっと考えつづけてきたことなので、 (わずか1年半前に書いたものだけれど)今からみるといろいろと不満がある。 もちろん、分量の制限で書き足りていないこともたくさんあるし。
とはいえ、少しでも興味をもってくださる人がいるなら公開することにしよう。 出版社の方からは、次の号が書店に並んだ時点でネットワークで公開してよい、と言っていただいているので、時効はとっくに過ぎている。
どういう形にすると、ほかのみなさんに都合がいいのかよくわからないけれど、 ともかく、生のファイルをダウンロードできるようにします。 (これが最終のファイルだと思うけれど、完全な自信はない。)
TeX の環境のある方なら、以上から、TeX file ないしは dvi file, そして、ふたつの eps files をもってくれば印刷できるはず。 (TeX のない人でも、TeX file はテキストファイルなので、 だいたいの中身はわかります。)あと、くっつけて圧縮というのも試しにやってみました。 zip.uu というやつですが、これで役に立つのかな?
きのうの「数理科学」の記事ですが、 黒木掲示板を舞台に、まきのさん、山形さん、狩野さんといった方たちにいくつかのファイルを作っていただきました。 (これの近辺を参照。) というわけで、最終的な pdf 版です。
この間、掲示板でのやりとりの中で、新山さんに pdf の作り方を教えていただき、 ぼくにもできるだろうか、とおそるおそる作ってみたのが、こりです。 フォントの扱い等について、何一つ気にせずに作っていますので、 問題があるかもしれない。 (何かあったら教えて下さい。) これがうまくいくようだったら、 日本語で書いた式や図入りの解説を pdf 化して、(今は図書館や本屋さんのバックナンバーのなかで死蔵されている)これら文章たちに今一度日の目を見せてやろう、 などと思っています。 思い起こせば、自分の web page を作ろうと思ったのも、 「日本語で書いた文章」 に置いてあるような日本語の文章たちを何とかできないか、と考えたからであった。明日は一日、会議。 明後日にあたふたと出発して、一週間ほど東京から消えます。 ネットワーク環境をもっていくことも可能(ただし、すべて私費負担) ですが、時期が短いのと、準備をする暇がないので、今回は見送り。 紙と鉛筆とオフラインのパソコンでできる仕事だけを持っていきます。 というわけで、しばらく、ここは更新しません。 (メールをいただいても、留守番電話にメッセージを残されても、返答できません。)
しかし、最近では、 string theory を「弦理論」、super string theory を「超弦理論」と訳すのが一般的になってきているようだ。 (実は、『「知」の欺瞞』のパロディ論文のなかで string theory を「ひも理論」と訳していたら、その方面の専門の人に「弦理論」とした方がよいと言われた。 いずれにせよ、パロディの文章の調子には「弦理論」の方がしっくり来るな。) こういった一般の科学ファンの方々の声が活かされたのであろうよ。
予告どおり東京を離れて、 メールも web もない生活中。 というわけで、これを web にのせるのは少し先になる。
前に一通りの訳をつくっておいた Lieb と Yngvason の解説の翻訳を久々にいじって、ほぼ完成させる。 タイトルはやっぱり「エントロピーと熱力学の第二法則再考」かな? ちょっとかたい。
量子系でのエントロピー変化について、 やってみたい事があって、 それを今回の旅行の宿題とした。 いまのところ、期待していたほどにはうまくいかない。 ま、それが普通だが。
こういう自然の風景を見て頭を空っぽにしているのは好きです。 あと、川の流れを見ているのもなぜか飽きない。 別に、物理につながる話ではないですが。
全国的に激しい雷雨。
ぼくは、 妻といっしょに、二人の子どもと姪っこと甥っこをつれてプールにいた。 次第に雲行きがあやしくなってきて、 そのうち稲光と雷鳴が聞こえてくる。 稲光と雷鳴の時間差から雷の発生地点までの距離を見積もるのは、 光と音の伝播の様子を実感できる好例だけれど、 こういう状況では、あまり楽しいものではない。
けっきょく、土砂降りがくる寸前にプールの横の小屋に避難して、 プールサイドまでがプールになるような大雨を眺めていた。 同じプールで、雨宿りせずに、屋外のシャワーのところで、ずっと温水シャワーと雨水の混ざったのを浴びている若者の一団がいたけれど、あれは案外気持ちいいのかもしれない。
エントロピー変化の宿題については、一応の評価はできた。 あまり強い評価ではないのに、導出が長い。
狼を飼い、特に人間に好都合な奴らだけを選んで子どもを作らせていったら、 けっきょく、こういう種族ができてしまった、ということのようだから、 生き物というのはおもしろい。
けれど、たとえば、 むかし町中をうろうろしていた普通の野良犬と洋風のお座敷犬の見た目を比べると、 普通の人間とある種の猿の方が外見ははるかに似ている、 と思えるほどではないか。 だが、これら二種の犬は交配可能だし、 どんなに見かけが似ていても人間と類人猿の間に子どもはできない。 また、カラス、ライオン、キリンなど(ずいぶんでたらめなリストだが) 適当な野生動物を思い浮かべてみると、 それぞれの種に属する個体が似通っていることに気付く。 犬とは明らかに様子がちがう。 すなわち、極めてバラエティーに富んだ形態の個体が互いに交配可能であるというのが犬の際だった特徴だといってよいだろう。
これには無論、標準的な説明がある(と人に教わった)。 つまり、自然の状態におかれた種には、環境の影響やまわりの種との競合などから何が「適者」かを決める「淘汰圧」が働いており、 形態に必要以上のバラエティーが生じることがおさえられている。 (「圧力」の比喩は面白い。 空間的な圧力ではなく、動物の形態・機能を表現する抽象的な「空間」のなかで、 一つの種をある領域に閉じこめるような力としての「圧力」。) ところが、犬のように人間に保護されて繁殖するようになると、 自然の「淘汰圧」は消えてしまい、 (圧力が下がると気体がばあっと広がるように) 自然では見られなかったバラエティーが現れてくる、というシナリオらしい。 (これでおおむねは正しいと思うけれど、 私はど素人なので、信じすぎないで下さい。)
以下は関連する素人の妄想。 (ずいぶん昔に頃に考えていたこと。)
たとえ淘汰圧が消滅したとしても、 それで交配可能なおそるべきバラエティーが生じるというのは、 決して自明のことではないという気がする。 ひょっとすると、生物集団には、一般に、そういう風な「交配可能なバラエティー」状態を実現するという能力が潜在しているのではないか? そして、種の内的な状況と、 種を囲む種々の環境が、なんらかの条件を満たしたとき、 その「交配可能なバラエティー」状態が出現し、 驚くほど多彩な個体が登場し、 それらがまた交配し合ってさらに多彩な個体を産む、という特殊な状況が現れるのではなかろうか。
聞くところでは、進化がおきるときには、 ほとんど不連続とみえるほどに突然の変化が訪れるという。 その「不連続」な変化の間というのは、もしかすると、 「交配可能なバラエティー」状態なのではないだろうか? 相転移マニアだったぼくにとっては、 進化もなんらかの相転移と妄想するのがもっとも安易な考えだった。 すると、連続な相転移において普遍的にみられる 「臨界点における異常なゆらぎ」に相当するのが、 「交配可能なバラエティー」状態において見られる(と妄想される) すさまじいまでの個体の形態のゆらぎなのではないか、と思えてくる。 そして、 まさに進化がおきているときには、 そのすさまじい形態や機能のゆらぎと、 (形態・機能空間で)遠距離に及ぶ交配可能性を活かして、 環境に適応できる新しい形をすさまじい勢いでサーチするのではないか。 (連続の相転移における相関距離の発散が、 形態・機能空間で遠方まで交配可能になることに相当する(という妄想)。) さらには、もしこの臨界状態が多くの種の相互作用の結果、 ある種の協力現象として出現するものなら、 ある地域で、多くの種がいっせいに「交配可能なバラエティー」状態に突入し、 あたり一面猛烈に多様な生き物が跋扈するめまぐるしいばかりのカオス状態となり、果ては種の境界さえぼやてしまい ・・・・・・ と妄想は果てないのであった。 (真面目に考えると、適応しきっていない個体が子孫を残せるか、など、(素人考えの範囲でも)いろいろ穴だらけだと思うが。)
念のために付け加えるが、別に犬がいま進化していると言いたいわけではない。 進化の際に利用されるメカニズム(のひとつ)がたまたま(人為的な理由から) 見えているのでは、ということ。
夕方おそく東京に戻る。 週末にいろいろと用事があるので、 残念ながら引き上げてきた。
帰路はほとんど順調だったのに、首都高速と山手通りの渋滞で大幅に時間を消耗した。 自動車渋滞を研究対象にしている同業者もいるけれど、 渋滞というのはなんとかならいものでしょうかね。 根本的には、 一人一人が自家用車を運転して好き勝手に移動しているというシステムそのものがよくないのはわかってはいるけれど。
やっぱ東京は暑いや。 ちょっと外を移動するだけでも猛烈に消耗してしまう。
夏ばてで、今夜から大学のネットワークは停止するそうです。
頭痛と肩こりと腰痛がひどい。 要するに疲れが出たのだが、 やはり歳のせいか、 すこし無理をすると必ず後にしわよせが来るようになってしまった。
午後になって時間ができたので、這うようにして大学にいったが、 まわりの部屋の明かりがみんな消えている。 誰もいないのか、と思って部屋に入って明かりをつけようとしたら、 何のことはない、 停電であった。 そういえば、前に連絡があったかも。 やれやれ。 理論物理をやるには頭さえあればいいというのは(終局的には) 事実だけれど、 そういう作業をするだけなら、わざわざ大学にいる必要はないのだ。
小さなサロンでのミニコンサート形式のヴァイオリン+ピアノの発表会で音楽鑑賞。
ヴァイオリンの最後に登場した若者は、バッハの無伴奏ソナタの1番を全曲演奏。 やたら巧い人の演奏を CD で聴きまくっている曲だから、 当然あらは目立つわけだが、それでも、十分に聴き応えのある力の入った演奏であった。 (おまけに、彼が理工系の大学生と後で聞いて驚いた。) バッハの鍵盤楽器の曲には、 限られた素材から「世界」をつくっていく趣がある気がして、 つよい憧れをもっているのだけれど、 自分の腕の中に入るヴァイオリン一台で、やはり「世界」をつくってしまうというのも(ひょっとすると、さらに)凄い。 音楽の生演奏を聴くというのは、 演奏家が、どっかそのあたりに「世界」をつくりだす(そして、すぐに消えてしまう) のを一緒に体験することなんだろうな、とか今更のように思う。
東京を離れてやっていた宿題に関連して S さんとメールのやりとり。 ある過程においてエントロピーが増加してしまうことを S さんらの一般論で示すことができる。 ただ、実際にどの程度ふえるかについては彼らの論法ではわからないので、 ぼくはエントロピー増加の下限をごり押しで作っていたわけだ。 「下限を作るというセンスはおもしろい」 といったようなことを S さんが書いてくれたのに対するぼくの返答(愚痴)。
ぼくにとっては、正確に計算できない量を不等式で評価することは、まさに物理現象の「首根っこを押さえる」ことに相当します。厳密な評価ができないのは、単に物理現象への理解が不十分だからだと信じることにしています。現象を物理的に理解すれば自ずと厳密な評価も見えるはずだし、逆に、厳密な評価をつくろうと試みることによって自身の物理的な理解を試し深めることができると思っています。 そういう意味で、弱い評価しかできないことは、現象の理解の弱さだな、と思うわけです。こういうセンスは物理の世界ではほとんど理解されない(流行の数理物理というのは、かっこいい概念を数学から借りてきて、それを物理にあてはめること)のは自明ですし、実は、数学者にもあまり理解されない。数学のそういう泥臭い使い方というのは一般にあまり好かれないようです。
子供に「針穴写真機」とは何かを説明するのに、 言葉や絵をつかうよりも現物を見せようと思って、 とっさに開発した(状況がととのってさえいれば)一分でできるピンホールカメラの作り方。
これで、子供が興味を持てば、 もっと時間をかけて、(内側を黒く塗ったり、トレーシングペーパーを使ったり) 工夫してもっと感度の良いものを作らせればよい。 あくまで、瞬時にしてできるのがいいところです。
やりたいことを我慢して試験の採点中。 (もともと「日曜出勤」とかいう特別の概念はないけれど、 夏休みだとますます曜日の意味はなくなる。)
でー。統計力学の三番。これ、どうしたんだ? 誰が beta をもろに含んだ積分が定数になるなんて無茶なこと書いた? 頼むから、ヒントをちゃんと読んでくれ!!! (身に覚えのない多くの方、失礼しました。)
深夜にビールを飲みながらちょこちょこと地道に進めてきた FF9 も、 ようやく先日おわったのであった。 (7/10 に既に終わった人がいると書いてあるな。 実は、これは、A 君の疑問に登場した A 君その人なのだが。) 形而上学というか世界観というかがあまりに稚拙であれじゃ小学生でも不満だろうもう少しなんとかしてくれ、とか、文章にときに難があり特に難しい言葉でしゃべらせると誤用が頻出してやっぱりよくないので10億の単位の金をかけてるならそのへんにも強いライターを雇って欲しい(子供が活字から離れている今日、これらベストセラーソフトの国語教育への影響は甚大なはず)、とか、しかし女の子を可愛く CG で表現する技術には本当に舌を巻く、いや、あれは CG 技術だけの問題では決してなくある種の強烈な情熱と特殊能力の持ち主なしでは不可能なんじゃないか(個人的な好みとしては、年齢の点からしても、 FF8 のリノアの方がいいけど)、とか、そういう論点を追求していくと、ごく普通の私的 web 日記になってしまうので、やみとこう。 だが、物理学者として、ひとつだけラスボスにつっこんでおく義務があろう。
なんで、ニュートンリングで攻撃できるんだよ!?ともかく、しっかり作られたゲームで、たのしゅうございました。
で、A 君をはじめ、世間のゲーマーのみなさんは、次は DQ7 (ドラゴン・クエスト7)だと張り切っているはずだが、私はどうするのじゃろう?
以前、学生さんたちとゲームの話をしていたとき、 ぼくのところで卒業研究を希望する学生さんの選考テストとして、
ファイナル・ファンタジー、ドラゴン・クエスト、スーパーマリオ 64 のどれがいちばん好きか?を出題しては、という話になった。 三つともご存じの方にはおわかりかもしれないが、 これは、後ろにいくほど点が高いのである。
FF というのは、つまるところ、適当にパズルを解いたり登場人物をレベルアップさせたりしながら、完全に決まったシナリオの上を順調に進んでいくゲームだ。 RPG (role playing game) というが、active book(動く絵本?)に近いと思う。 (特に FF9 は、そうだった。) それに比べると、DQ は、登場人物の行動の選択にかなりの自由度があり、 自分の意志決定で話を進めているという「錯覚」をより強く感じることができる。 (そのため、やや面倒になり、いったんゲームから離れると再開するのが困難になるという傾向がある。ただし、新作がどうなっているかは不明だが。) また、世界が広がっていくときの「わくわく感(ないしは、世界観が揺さぶられるような興奮)」は見事なもので、その点では FF などまったく太刀打ちできないと思う。 そして、「スーパーマリオ 64」は、未だにぼくにとっては至高のゲームソフト。 非常に丁寧に構築された仮想世界で、 ごく簡単なヒントから、世界に隠された「しかけ」や「課題」を発見し、 かつ、自らの技能を高めて、それらを解決していくという興奮と喜びがあった。 (スーパーファミコンのマリオもやりましたが、 これは、基本的には技能重視のアクションゲームでした。)
つまり、 一年間の卒業研究という小さな旅をいっしょに旅するのだったら、 できれば、レールの決まった FF 感覚ではなく、 限られた世界のなかでも、何がありうるのかをわくわくしながら待ちかまえ、 自分でできる範囲で最大の課題に挑戦してくれるようなドラクエ感覚、さらにはマリオ感覚の人がいいな、ということであった。
念のために言っておきますが、これは、あくまで酒飲み話であって、 わたしなんかと卒業研究がやりたいと志望して下さる殊勝な方がいらっしゃれば、 (テスト抜きで) 可能な範囲で喜んでお付き合いしていますよ。
ある出版社の目録的な小冊子にコラムを書くことになっている。 「理論と実験」、「理学と工学」、「物理と数学」とか、 ありがちなお題目で月並みな話を書くのはいやだ。 いちおう、一つなんとかなりそうなネタは用意してあるのだけれど、 上の話を書いていて、思いっきりゲームの話を書くのもまた楽しからずや (学生さんにはわかるだろうけど、「先生」たちには意味不明だろうな) という誘惑も。
また忙しくなってきて、落ち着いて研究していられなくなってきた。 この夏休みは、完全にぼけええええっと妄想に専念するという時間がほとんどとれなかったのできわめて残念。
仕事の合間をぬって、×××の×××ラーメンに足をはこび、月に一回の限定メニューである××ラーメンを食す。 満足。満足。
ぼくは単純な人間なので、真に優れたラーメン屋さん(など)の仕事ぶりに接すると、すぐに物理の研究になぞらえ、自分と比べて感心したり喜んだりしてしまうのだ。 (なんかのインタビューで、 コンピューターをつかって流行の問題の計算をして論文を量産するような研究を、 デ×ーズみたいなところならどんどん料理を出して売り上げが上がるだろうけど、 それでいい料理屋ってことになるのか、と馬鹿にしたこともある。) ×××ラーメンの××氏の場合、すでにその世界に詳しい人のあいだでは知らぬ者のない伝説的な地位を獲得しながらも、保守に陥ることなく、定期的に自分のつくった味をぶち壊して新しい味を求めていく姿勢を保ち、さらに、月に一回の××ラーメンでは、常識を越えた食材を用い、一般のお客さんの嗜好を無視して自らの求めるラーメンを追求するという生き方を貫いているのだ。 いいねえ。 教育を行ないながら研究にも全力を尽くす教員として、 見習うべきところが多いではありませんか。 あ、もちろん、ラーメンの場合、生き方よりも何よりも味が大切なわけですが、 いうまでもなく、×××のラーメンは私にとっては最高です。
4月に発行された拙著「熱力学 ― 現代的な視点から」がこの9月に増刷されることになったそうです。 売れ行きは気にしないと公言していたものの、 こういう予想外のニュースに接するとすなおに嬉しいものです。 わたしの試みをなんらかの形で支持してくださったすべてのみなさんに心から感謝します。
増刷に際して、来週中に訂正箇所を示してほしいと言われています。 来週は冒頭に長大な会議が控えているので、 おそろしくなりますが、がんばります。
それで、きわめて虫のいい話ですが、 もしかして、誤植や間違いのリストをすでにお作りになっていて、 わたしに送るタイミングをみはからっている方が、万が一いらっしゃったら、 どんなラフな形でもいいですからお届けいただけると大変助かります。 (あくまで、そういう方がいらっしゃったら、ということ。) いまのところ、コメントをくださったのは、 近くの同僚の方を除くと、 ぼくの友人の研究室の大学院生の T さんと、 (いまはひたすらドラクエ 7 をやっているであろう)例の A 君のお二人かな。 お二人のコメントもこの機会に取り入れさせていただきます。
日曜のようで学内は静かですが、来週の会議の準備ではたらいています。 (ドラクエ 7 はまだ見てもいない。)
ラーメン屋さんにしろ、なんにしろ、 ぼくが
ふつうと違うやり方をしさえすれば、それでよいなどと思っているわけでは決してない。 また、
真に非凡な成果は、地道な努力の積み重ねから生まれるという考えにも、ほぼ賛成する。 しかし、この教訓をおしすすめることで凡庸さを正当化してしまってはいけないと思っている。 地道な努力をすることと、 周囲との相対評価の中で凡庸さに甘んじていくこととは、根本的にちがうのだ。 ぼくは、
凡庸でもいいと思ってしまえば、決して凡庸さから脱することはできないと自分に言い聞かせてきたし、これからも、そうしていきたいのであった。
なんどか話に出した避暑のときの宿題の答案を preprint server に提出。 (最初に出したタイトルは Intrinsic irreversibility in a quantum system consisting of many non-interacting ``small'' pieces だったけれど、 intrinsic という言葉の用法があまりよくないとの指摘があり、 これを Inevitable に修正したものに今し方おきかえた。)
というわけで、ちょっと解説。 (誰が読むのだろう?)
話のもとになったのは、 Irreversibility resulting from contact with a heat bath caused by the finiteness of the system, K. Sato, K. Sekimoto, T. Hondou, F. Takagi という論文。
互いに相互作用しない小さな部品を集めて作ったような熱力学的な系では、 ごく簡単なサイクルでさえ必ず不可逆になってしまうという内容で、 熱力学と統計力学の狭間について考えているぼくにとってはとても面白い題材だった。
そこで、練習問題として
しかし、まあ、同じようなことに興味をもっている人もいるかもしれない、 と思い、結果をまとめたものをともかく preprint server に送ったわけです。
preprint server をご存じない方のために言っておくと、 これによって、 世界中の人(主に物理の研究者でしょうが)が、web や e-mail をとおしてこのノートのタイトルやアブストラクトを見ることができ、さらに、TeX, ps, dvi, pdf など種々の形式のファイルを無料で入手することができるのです。 (これは、真に革命的で偉大なシステムだとぼくは思っています。 それについては、またいずれ。)
元来、prerpint server とは、preprint (雑誌に投稿した(する予定の)論文を著者自身が印刷したもの) を閲覧しあうための場なのだとおもいますが、 ぼくは、今回のように、 自分の正規の論文として雑誌に投稿する気はないけれど、 とりあえず公表しておきたいもののためにも活用している。 これは、本来の主旨からは外れるかもしれないけれど、きわめて有効な利用法だと思っている。 このへんについても、また、機会があればちゃんと書いておきたいものだ。
ようやくドラクエ 7 を少しだけ深夜にやりはじめ、 徐々におもしろくなってきたところ。 (A 君は、昨日の夕方に一応クリアーしたそうだ。 若いのお。)
それにしても、 序盤も序盤の、ごく当たり前のところで的外れな行動をとってしまって、 思いのほか手間取ってしまった。 (単にアホだったという自明の結論をあえて受け入れず) いったい何故こんなことになってしまったのかを考えてみるに、 これは、つい先日まで FF9 をやっていたせいであると気付いた。 そこでも「FF は active book(動く絵本?)に近い」と書いたが、 FF には、多少なにをどうしようとも、決められたストーリーの通りにゲームが進行していく傾向がある。 そのために、安易なプレーヤー(ぼく)は、
なにかちょっとしたものを入手しようが、 一見意味ありげな絵などをみつけようが、 あまり深く考えたりせず、単にゲームをすすめることを思っていればよいという態度に陥りがちなのだ。
ところが、このような態度はドラクエ世界では通用しないのであった。 ドラクエの世界は小さな多くの出来事が緻密に絡み合ってものごとが進むように作られている。 ごくささやかな会話にも意味があり、それを省略するだけで、話が先に進まなくなったりもする。 よって、プレーヤーとしては、
なにかちょっとしたものを入手したとき、 一見意味ありげな絵や言葉をみつけたときには、 それらの意味を深く考えて心に留め、さらに、 単にゲームをすすめることではなく主人公がその目的を達成するために何を為すべきかを考えるという態度をとらねばならない。 考えてみれば、これは RPG (role playing game =物語の主人公になりきって遊ぶゲーム)の基本ではないか。 何たる不覚。 ぼくは FF を拙速にクリアーすることに頭を奪われ(←仕事や家庭生活の合間をぬって、ちょっとずつやっただけですよ。念のため)、基本中の基本を忘れていたのかっ。
とはいえ、こういう事はきわめてありがちだと思う。 甘いルールにどっぷりと浸ってすごせば、学習能力の権化たる人間である以上、 その甘いルールの範囲内でものごとを考えるようになるのが自然というものだ。
たとえば、物理の本。 (←お、毎度おなじみの話題の振り方。)
堂々と出版されている本のなかにも、残念ながら、 論理的なつめが甘く、深く考えると意味がとれなくなるような数式や議論が平然と登場するものも少なくないのだ。 こういう本ばかりにどっぷりと浸って勉強していると、つい、
一見意味ありげな議論や数式をみても、 あまり深くは考えず、 雰囲気だけを把握してともかく先に読み進めるという読み方に陥ってしまう。 (こういう、ざっと流す読み方ももちろん重要。 でも、いつでもそれをやっていては何も学べない。) 真面目に議論や数式の意味を追求しても(そもそも、正解がないから)答がでないという経験を多く積めば、そうなってしまうのが自然だろう。 というわけで、やはり、 論文でも教科書でも、 論理的につめられるところは明晰に記述し、 直観に頼らなくては導けないことについてはそのことを明記すべきだ、 とつよく言いたい。 (この観点からすると、近年の物性理論のある種の論文は、まったく駄目ですね。)
この主張に賛同してくださる人には、 熱力学を学ぶとき(教えるとき)は拙著「熱力学 ― 現代的な視点から」に目をとおしていただくことをおすすめしたい。 きっとドラクエ世界的にじっくりと堪能できる熱力学世界を旅することができます。 (と、思います。)