日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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10/3/2000(火)

あっという間に10月。 昨日は、なにも考えずに、前の日と同じように半袖の T シャツ、ジーパン、裸足にサンダルという出で立ちで外に出たら、やたら寒かった。

お陰様で、幸い会議や雑用も(少なくとも記憶している範囲では)なく、 ものを考えたり、 論文を読んだり、何人かの人たちと(e-mail で、お一人とは生身で)長々と議論したり、 物理学者らしく生活している。 もうお昼時なので(人間らしく)お腹が減った。


さて、かなり前になるけれど、 「机の裏においた紙に文字を書くと自然に裏文字になる」という中学の頃の発見について書いたけれど、 これについて、 「目の位置からモニターしたつもりになっている」 というぼくの説明は、必ずしも成立しない、 話はそう単純ではないのだぞ ─ とのご指摘を受けました。 特に、一瞬でぼくの安直な説明をうち砕くのは、
たとえば、自分の後ろ頭に字を書くと「正文字(目の位置からは裏文字)」 になるひとが多数派です(お試しくだされ)。
という事実です。

まったく、そのとおり! ぼくがやっても、頭の後ろには正文字を書いてしまいます。 (ううむ。 とすると、ぼくは実は 64 のマリオで、 カメラのモードはジュゲムカメラか・・・)

さらに、

また、背中に字を書くと「裏文字」と「正文字」(ただし、いずれも上下反転)になる両方のケースがあります。
ということで、 話は込み入ってくる。 もちろん、背中の場合は、腕がねじれたりするので、 話がややこしくなるのは、必然かもしれない。

というわけで、 ぼくの実験と解釈を、はるかに越えることが色々と知られていたのです。 そのことそのものは、当然だと思うけれど、 頭の後ろに書く、という典型的な実験に思い至らなかったのは口惜しや!

ま、授業中の退屈しのぎたったから、 やおら頭の後ろで字を書くわけにもいかなかったんだけど。


10/5/2000(木)

出席すると予告した 9 月 30 日の久保シンポジウムの感想などを書いていなかった。

まず、 東京理科大の神楽坂校舎が神楽坂駅のそばにあると素朴に思っているすべてのみなさんに言っておきますが、 東西線神楽坂駅で降りて「理科大はどっちですか」と人に尋ねると、哀れむような顔をされ、駅ひとつ分を歩くことになります。 東西線飯田橋駅で降りるのが正解です。 去年は問題なく同じ会場に行けたのになあ。

シンポジウムでは、なんといっても、川崎恭治先生が mode coupling theory (及び、ガラス転移に関連するその最近の展開)について自ら話されたのが、よかった。 川崎先生の mode coupling theory は、 昔から教科書に載っているような話なのだけれど、 ぼくは、ついついきちんと勉強しないまま今日に至っていた。 その理論のエッセンスと心を、ご本人が熱く説明してくれたので、 実によくわかった(気になった)し、非常に面白かった。 シンポジウムの後のパーティーのときに、 川崎先生にそう言ったら、 とても素直に嬉しそうにしてくださって、 最近のこと、昔のことを取り混ぜていろいろエネルギッシュに話してくださったので、 こっちもうれしくなった。 ぼくも元気に歳をとりたいものである。

川畑さんと田崎秀一さん(親戚ではない。初対面だった) の話はどちらも(とくに川畑さんのは)輸送現象に関連したもの。 観客には、 清水さん、佐々さんと問題意識の高い(かつ、うるさい)役者がそろっていたので、 議論が盛り上がるか、と期待したのだけれど、 あいにく議論の時間がなくて、 煮え切らなかった。 講演は、それぞれ持ち味を活かした面白いものだっただけに、これは残念。 パーティーのときに、 (まず腹ごしらえしてから)このあたりの人たちと多少つっこんだ話ができたので、 (初学者のぼくとしては)少しは、見通しがよくなってきたのではあるが。

さて、電気伝導の「久保公式」(Kubo forumla というのは、 より一般の輸送現象に適用できるものだが、 ここでは、電気伝導に限る)については、

という歴史的疑問がある。

まず、名称については、 (電気伝導に限れば)中野が同じ公式を書き下し、 ひとつの「導出」を与えていたのは事実なので、 中野の名前が消えてしまったのは、やはり納得しきれない。 では、中野の「導出」と久保の「導出」(どちらも不完全) の間に本質的な差があるのか、 ということだけれど、 それは詳細に検討しないとわからない。 (少し勉強した範囲では、本質的な差はないようにみえるが。)

公式の基礎付けにエネルギーが注がれなかったのはなぜだろう? たしかに、平衡統計力学そのものにしても、 基礎付けに頭を悩ませるのは、一部の変わり者だけ、という現状はある。 しかし、 少なくとも Boltzmann は統計物理の基礎をめぐって様々な模索を行なったわけだし、 線形応答の輸送理論の場合も、 提唱者およびその周辺が、もっと基礎付けに頭をつかってもよかったような気がする。 純粋な推測だけれど、久保先生には、基礎付けは非常に困難で、 それよりも物性論への応用を展開した方が有利だという判断があり、 それが後の動きに大きな影響を与えた、というようなことがあるのかもしれない。

いずれにせよ、 歴史的興味というのは歴史的興味でしかない。 本当に考えるべきなのは、

ことである。 これは異常に難しい問題だろうが、考える価値は大いにある。 線形応答の公式が実用上重要だから、というよりも、 これを考えることによって、 平衡から外れた大自由度量子系という世界の風景が少しでも見えるようになるはずだからである。
10/7/2000(土)

昨日はゼミの卒業アルバム写真の撮影。 前に言われていたのに、忘れていたので、 いつも通りのいい加減な姿のまま、 少数精鋭のゼミの学生さんたちと写真を撮りにいった。

古き良き南一号館の前に来て、さあ撮ろうという段になって、 先ほどからずっと何か腑に落ちないという顔をしていたカメラマンの人が、

「あのお。先生は・・・」

学生しか来ていないと思ったのだね。 今でも学生さんに間違えていただけるとは、ありがたや。 (←恰好がだらしないだけの話だけど。) いっしょにいた卒業アルバム委員の女の子は、 ぼくのことを知っていたらしく、 くすくす笑って喜んでいた。


などと若ぶっているが、昨日の風邪気味のなかでの講義+ゼミの重労働のせいで、 今日は絶不調。 午前中は寝ていて、午後から働きはじめたけれど、 頭がきちんと動かない。 「思考的ものぐさ」っていう感じ。 ローカルにものを考えたり計算したりすることはできるけど、 少し視野を変えてみたり、 もっと広い視点から考えようと思うと、 妙に腰が重くなって、 思考が立ち上がれない、というか、そういう感じ。 文章にしても、長いものを書く気力がないので、このくらいにしておこう。
10/9/2000(月)

昨日は小学校の運動会。 子供が出場・出演するときは観戦・鑑賞することにして、 それ以外は校庭のすみの植え込みの石垣に腰掛けて、 前から読もうと思っていた

A. Dembo and O. Zeitouni: Large Deviations Techniques and Applications, 2nd ed (Springer, 1998)
を読み始めた。 (小学生は一人になったからこれが可能。 二人が通っている頃は、なんだか知らないけれど、 入れ替わり立ち替わりどちらかが登場し、 ひっきりなしに見ていなくてはならなかった。 児童数が少なくても、たっぷり一日運動会をやると、こういうことになる。) Ellis の large deviation の本は(既に知っていることの解説以外は) どうも読めなかったのだけれど、これは読めるぞ! 後半になって確率論と解析をばりばりに使う方までは読めないだろうけれど、 前半だけでも大いに役に立つ。 ぼくにも完全に理解できるレベルの証明がきちんと書いてあって、 かつ、定理や定義の「心」も生き生きと書いてあるので、とても嬉しい。 後のデリケートな場合への適用を意識して、 定義がかなり細かく分かれているのはちょっと苦しいが。

といっても、 一般の物理の人にこの本を薦めようという気はなし。 large deviation の「物理的な心」をつかみたければ、 まずは、熱力学における Legendre 変換の心を会得し、 つぎに、それが統計力学における「異なったアンサンブルの同値性」 と如何に関わるかをきちんと理解すればいいのではないかと思われる。 前者については、ぼくの熱力学の本の 8 章と付録 G, H が最適。 (付録 G, H は、凸関数と Legendre 変換の数学についての、 学部レベルの、しかし厳密な、解説で、 こんなのが書いてある教科書は(国内にも国外にも)今までなかった。 数学と物理のギャップを埋めるちょっと大事な貢献だと(本人は秘かに勝手に)思うけれど、 べつに絶賛されてないなあ・・・) 後者については、 数理物理の専門的な教科書以外にきちんと書いてあるものを知らない。 十分に初等的な話なのに、困ったものだ。 ぼくの統計物理の教科書には書く予定だけれど、 来世紀のことを言うと鬼が笑うというもの。 実は先週の講義でそのあたりを軽くやりはじめたので、 根性がでれば、ノート(将来の教科書の一部)を今週中にまとめて公開するであろう。


実は、上記 Dembo and Zeitouni の本は、「黒木のなんでも掲示板」の長岡浩司さんの書き込みで知ったのだ。 長岡さんとは、掲示板で会ったのが初対面。 彼は情報理論の専門家で、しかも、熱力学や統計物理についても深い理解と鋭いセンスをもっている人であることがわかった。 素晴らしい。 この後の掲示板やメールでのやりとりを通じて、 相対エントロピーの性質などなどについて、 長岡さんからいろいろと教えてもらうことができた。

このように、 (ちょっと驚くべき事かもしれないけれど) web 上で「(ほどほどに)開いていている」掲示板というのは、 真に実質的な知的交流の場として機能しうる。 (この「ほどほどに」っていうのが、おそらく大事で難しいんだろう。 その話はいずれ。) ぼくの熱力学の教科書にしても、 この掲示板で知り合った人たちから多大な影響を受けていることは、 あとがきにも書いたとおり。 (今日は文体がぶっきらぼうだな。)


10/11/2000(水)

胃のレントゲン検査で、朝っぱらから胃の中で発砲発泡(←はじめて使ったけど、まるで web 日記みたい(そうだけど))する薬やらバリウムだのを飲み、台の上でぐるぐるまわらされたり台ごと頭を下に傾けられたり、たいへんであった。 (胃腸にバリウムが残っているので、まだ大変。)


ノーベル賞。

「電気をとおすプラスチック」とテレビで言ってるから、なんのことだと思ったら、ポリアセチレンを作った人なのか。 (院生のミスでできたものにちゃんと注目して地道に研究したというのは偉いと思う。 しかし、触媒にしろ何にしろ、化学の実験で千倍も量をまちがえるってのは危なくないですかね?) ヒーガーらの論文は、たしか、読んだことがある。 めずらしく、物理学賞よりも化学賞の方が親しみがある。

物理学賞を non-abelian guage theory での asymptotic freedom の発見に与える、という話は随分前からちょくちょく聞く。 これは正当だと思うけれど、 けっきょく、 誰と誰にあげるかというところが収束しないから駄目だというのが事情通(?)の人の話。

いずれにせよ、 ノーベル賞は、猛烈に政治的で、ある意味で「いい加減に」決めてる割には、社会的効果が大きすぎてよくない、 という月並みな意見にぼくも賛成。 じゃ、「いい加減じゃない決め方」があるのか、というと、そんなのはないでしょうね。 (だから、社会的影響が大きくなりすぎた賞は、すべてやめた方がいい、ということになるか。 我ながら、今ひとつ見解が練りきられていない。)


10/12/2000(木)

昨日バリウムを飲んだのが効いたのか、なかなか元気。 (ちなみに、同じ研究室の M さんは、かつて胃炎になったとき、 検査のためにバリウムを飲んだら胃炎が治ったそうだ。)

というわけで、 今日一日根性をだして前にまとめると宣言した「グランドカノニカル分布とカノニカル分布の同値性」についてのノート(日本語)を作っていたのだ。 (なんでもそうなのだが)思ったより大変だったけれど、 先ほど、なんとか明日の講義に配れる全10ページのノートを完成させて印刷した。 ふう。疲れた。

こういう内容が書いてある本はないと思っていたのだけれど、 話がわかってから読むと、 たとえば久保演習書などにもちまちまと書いてあることがわかった。 (というか、人に教えてもらった。) ただし、ぼくのノートのように、長々としつこく書いてあるものはないみたいなので、 これが(万人の、ということはあり得ないが)一部の学生さんの渇きをいやすことになれば、著者としては望外の喜びである。

さっそく web 上でも公開と言いたいところだけれど、 まだ付け加えたいこともあるし(問題も作らねば。 今も、S 君に「問題を作れ」と催促されてしまった)、 間違いもあるだろうから、 もう少し改良してから一般公開しましょう。 統計力学の講義をとっているみなさんは、 是非とも、改良案を示唆し、間違いを探して、ぼくが恥をかかないようご協力ください。 そして、南は九州大学(←本当らしい)から北は北千住あたり(←適当)までの、 学習院の外の読者のみなさんは、(もし待っているとしての話ですが)もう少しお待ち下さい。


10/15/2000(日)

先日、 ぼくの部屋の前のお茶べや件書庫でコーヒーのお湯が沸くのを待っている間に、 ふと本棚にあった

"Surely You're Joking Mr. Feynman!" Adventures of a Curisou Character
Richard P. Feynman
を手にとった。 考えたら、むかし日本語訳を読んだきりで、 英語の原文を読んだことはないのに気づき、 何の気なしにパラパラと眺めていた。

それで、なんとなく気になって部屋に戻って、日本語版

「ご冗談でしょう、ファインマンさん」 ノーベル賞物理学者の自伝
大貫昌子訳(岩波)
をみつけ (「Curisou Character って、ノーベル賞物理学者のことか」 といったつっこみはしないこと)、対応するところを読んでみた。

大貫訳は、口語調の読みやすい日本語で、これまでは、 これが原文のファインマンの話し言葉のノリを伝えているのだろう、と気楽に思っていた。 しかし、こうやって読んでみると、必ずしもそうではないようだ。

いや、別に大貫訳が間違っているとか、そういうのではない。 世の中には、白を黒と訳したり、勝手に書き換えたり、文章を消したりする「翻訳」がまかり通っているという話も聞くけれど、大貫訳には、そんな悪質なところはみつからなかった。 (知り合いの優れた翻訳家(と言い切ってしまうにはあまりにもいろいろな事をしている人だけど)に聞いたところ、 大貫訳程度ならば許容範囲であると言われた。) ぼくには、こんな本を訳す能力はないし(これは本当です。 ぼくが訳した本は、理屈っぽいから、意味が取りやすい。 Feynman のようなくだけた調子の英語は、ざっと流し読みするのは楽だけれど、 きちんと意味をとろうとすると苦しいのです。)、 日本語もこなれていてうまいと思う。 ただ、ある種の「脚色」が一貫しておこなわれている(そして、それは必ずしも著者の意図を正確に反映してはいないと思われる)、ということなのだ。

大貫訳を読まれた方は賛成してくれると思うけれど、 この訳文の調子は、日本のよくある若者向けの科学啓蒙文章のスタイルに似ていて、 丁寧に(ときには、くどく)説明しながら相手に語りかける雰囲気になっている。 しかし、英語版を読むと、実はもっとストレートでさばさばした文章になっているようなのだ。

以下、はじめの方を読み比べてみよう。


まずは、英語版の冒頭
WHEN I WAS about eleven or twelve I set up a lab in my house. It consisted of an old wooden packing box that I put shelves in. I had a heater and I'd put in fat and cook french-fried potatoes all the time. I also had a storage battery, and a lamp bank.
そして、この部分の大貫訳
僕がわが家に「実験室」を作ったのは、たしか十一か十二になったころだったろうか。 実験室といったところで、中に棚をとりつけたただの木の荷箱なのだ。 電気コンロもあったから、その上で油を煮たてては、よくポテトフライを作ったものだった。 このほかに蓄電池や、ランプペースもあった。
まず出だしの文からして、 日本語を読むと "It was probably when I had become eleven or twelve that I ..." みたいな英語かなと思ってしまうけれど、 原文はもっとストレート。気取らずに事実を書いてあるだけ。 まあ、こういうのは文学的処理として許されるのであろう。

また、「実験室」がわざわざ括弧に入っていたり、「実験室といったところで」と断ったりと、 ファインマンはこれが正式のラボでないことにこだわっている調子になっているけれど、 そういのは原文にはない。 ま、よく読むとそういう気持ちが読みとれるから、 訳では明記したということかもしれない。(どうでもいいけれど、「油を煮たてる」っていうのは結構過激な調理法のように思う。 原文の意味は、ぼくには正確にはとれないのだけれど、「煮たてる」とは書いていないように思う。)

一応同じ部分の、ぼくの試訳。 あまり自信はない(詳しく人に聞いたりはしていない)が、 原文のノリをできるだけ温存したつもり。

だいたい11か12の頃、ぼくは自分の家のなかにラボを設けた。 それは、中に棚をつけた古い荷造り用の木箱でできていた。 ラボにはヒーターがあり、しょちゅう脂をいれてフライドポテトをつくったもんだ。 あと、蓄電池と、ランプの配電盤もあった。
付記:「フライドポテトをつくった」と訳したところは、「暖めた」かも? (いずれにせよ、この文は難しい。 ぼくは最初これを誤読して、大貫訳がおかしいのではないかと思ったのだが、上記知り合いの翻訳家(と言い切ってしまうにはあまりにもいろいろな事をしている人だけど)にぼくの方が誤読であると教えられた。) lamp bank を「ランプの配電盤」と訳したが自信なし。 大貫訳に出てくる「ランプベース」という日本語があるのかな?
二つ目のパラグラフ
To build the lamp bunk I went down to the five-and-ten and got some sockets you can screw down to a wooden base, and connected them with pieces of bell wire. By making different combinations of switches --- in series or parallel --- I knew I could get different voltages. But what I hadn't realized was that a bulb's resistance depends on its temperature, so the results of my calculations weren't the smae as the stuff that came out of the circuit. But it was all right, and when the bulbs in series, all half-lit, they would gloooooooooow, very pretty --- it was great!
この部分の大貫訳。
さてこのランプベースとは、 テンセントストア(雑貨屋)で買ってきた電球のソケットを木の台にねじでとめ、電線のきれっぱしでスイッチにつないだだけのものだった。 そのスイッチを並列や直列などのいろいろな組合わせにすれば電圧を変えられることは知っていたのものの、 電球の抵抗が温度によって変わるものだということには、 うかつにも気がついてはいなかった。 だから実際の回路からの電圧は、僕の計算の結果と合いはしなかったが、 それでもけっこう楽しめたものだ。 電球が直列の組合せでぼんやりついているときには、 それがぼうーっと光って何ともいえずきれいだった。
第一文には「スイッチ」なんてでてきてないぞ、とか、「だけのものだった」とか原文にないニュアンスがあるとか、いくつか気になるけれど、 読み比べて、はっとするのは、文章の切り方を変えていること。 第二文以降の原文は、 という構成=ノリになっているのだけれど、 日本語では、 第三文と第四文を途中でぶったぎって、 前後にくっつけ直すという手術をして、 という風に話のノリが変わっている。 別に日本語だからこうしなくてはならない、という気は(ぼくには)しないのだけれど、 何か必然性か意図があるのだろうか? どうせなら、ファインマンの語り口のノリをそのまま訳せばよいのにと思ってしまう。 訳者は、こういう「シンコペーション翻訳」を多用しているようで、 適当にランダムサンプリングして読み比べてみると、これを(かなり延々と)やっているところが相当の頻度でみられる。

再び、田崎による試訳

配電盤をつくるのに、 ぼくは雑貨屋に出かけていって、 木の台にネジどめできるソケットを何個か買ってきて、 針金でつないだ。 ちがったスイッチの組み合わせ --- 直列や並列 --- をすることでちがった電圧がかけられるのをぼくは知っていた。 けれど、 電球の抵抗が温度に依存することは認識していなかったから、 ぼくの計算の結果は回路が実際にやってくれたことと同じにはならなかった。 でも、それでもオッケーで、 電球が直列のときには、みんな半分光って、 あかあああああああく燃えて、とてもきれい --- 最高だった!
付記:bell wire を単に「針金」にしてしまった。 bell wire は「ドアのベルの引きひも」と辞書にあるが、ここでは違うな。 最初は switches を抽象的に「つなぎ方」と訳したのだが、すこし先の The Amateur Scientsit という話を読むと、 実際スイッチがついていたようなので、やはり「スイッチの組合せ」か。 大貫訳では「そのスイッチ」だけど、第一文に無理にスイッチを付け加えているのだから、ちょっとずるい。
最後に三つ目のパラグラフの冒頭の二つの文をみておく。
I had a fuse in the system so if I shorted anything, the fuse would blow. Now I had to have a fuse that was weaker than the fuse in the house, so I made my own fuse by taking tin foil and wrapping it around an old burnt-out fuse. ....
大貫訳は、
これにはショートでもしたらすぐさまとぶようにヒューズもつけてあったが、家全体のヒューズまでとんでしまわないよう、少し弱くしておく必要がある。 そこで僕は切れた古いヒューズを探しだし、スズ箔でくるんで弱いヒューズを作った。 ・・・
「『これには』って何だ?」とかいろいろ思うし、 また「シンコペーション翻訳」をやっているけれど、 それ以上に気になるのは、「家全体のヒューズまでとんでしまわないよう」という説明。 原文は、単に「さて、家のヒューズより弱いのが必要」とだけ書いてある。 (原文の)読者としては、「何でかな?あ、そうか、そうじゃないとまず家のヒューズが先にとぶもんな。あたりまえじゃん。」と「推理」する必要がある。 しかしまあこれは特に難しい電気工学の知識のいる推論ではないし、 ファインマンは、そのくらいのことは考えながら読め、と思って書いている(と思う)。 しかし、大貫訳では、日本の読者にはこの推理をおこなう能力がないという判断をしたのかどうかは知らないけれど、くどい説明が追加されているのだ。 (そのかわり、単に「少し弱く」と書いてあるだけで、「何よりも弱く」ということが省略されて不正確になっている。) 徹底的に見比べたわけではないけれど、こういう「親切な説明の追加」は、 ちょくちょくあるような気がする。 (そして、それが必ずしもすべて著者の意図に忠実だと、ぼくには思えない。)

また、ぼくの試訳

ラボにはヒューズがあって、ぼくがなにかショートさせるとヒューズがとぶようになっていた。さて、これには家のヒューズよりも弱いヒューズが必要だったから、ぼくはスズ箔をもってきて古い切れたヒューズのまわりに巻いて自分のヒューズをつくった。 ・・・・

というわけで、くりかえすが、別に大貫訳がダメ訳だとか誤訳だとか言っているわけではない。

ただ、 これは(原文を大きく書き換えたりはしていないが) 決して原文のファインマンのノリをそのまま伝えるタイプの翻訳ではなく、 全般にどちらかというと甘口に、くどい調子に、脚色したような訳になっている、そして、ときには著者の意図とは一致しない「親切な加筆」がおこなわれているというのはぼくの偏見ではないと思う。

「ファインマンの生きたノリに接したい人はぜひ英語で読もう!」 と言っても多くの学生さんには現実的ではないかもしれない。 (ぼくもむかし大貫訳で読んだからあまり大きいことは言えない。) しかし、せっかく読むのだったら、英語版(とこっそり日本語版)を買い、ノリの違いを納得しながら楽しんで読んでほしい。


10/16/2000(月)

実に珍しく来客。 (黒木掲示板で知り合った長岡さんと(前から知っていてメールは大量にやりとしているけど直接会ったのは数えるほどの)佐々さん(研究室のページはいいけど、佐々さんの個人ページはなんとかした方がいいな(付記:この部分を読んだ佐々さんは、リンクをたどってご自分のページをみて思わず笑ってしまったそうだ。 というわけで、その後、かなりなんとかなっているのだ。(「何とかなる」前の佐々ページの状況を再現しようかなとも思ったが、ま、やめとこ。)))に来ていただいて、 熱力学・統計物理・情報理論などなどについて議論してもらった。 いろいろと教えていただいて、どうももやもやしていた事について、すこしだけ見通しがみえて頭がすっきりしてきた気がする。 (だからといって、すぐに何かできるわけではないが。) 話のなかで、ぼくたちが言葉にしようとしてもやもやしていた概念をすでに Boltzmann が orthodes という言葉で呼んでいたことを再認識した。 (G. Gallavotti, "Statistical Mechanics: A Short Treatise", Springer 1999, p.19 参照。) まったく Boltzmann という人は一人でとんでもない地点に到達していたものよ、と三人で感心することしきり。

頭がすっきりしただけでなく、久々の来客に書類の山を撤去し散乱した本を本棚に収めついには掃除機までかけてしまったので、部屋のなかもすっきりして気持ちがよい。


10/18/2000(水)

12 日に講義用にまとめたグランドカノニカル分布についてのノートを手直しして、 一応の公開版にしました。 GCE.pdf という名前の pdf file です。 (Adobe Acrobat Reader などが必要。 ファイルに不備があったら教えて下さい。 付記:後からdvi 版も用意しました。) カノニカル分布とグランドカノニカル分布の同値性について、 なるべく丁寧に、しかし、ごまかさずに数学的に厳密な議論までを含めて、 議論しました。

ぼくの知る限り、既存の物理の教科書にこういう詳しい記述はないので、 そのあたりにご関心のある方は覗いてみてください。 (初期バージョンにつき、ミスは多いかもしれない。) いずれは、ぼくの統計力学の教科書の一部にしようという計画なので、 ご意見やコメントをいただけると助かります。


やはり12 日に、突発的に
南は九州大学(←本当らしい)から北は北千住あたり(←適当)までの、 学習院の外の読者のみなさん
などというフレーズを書いてしまった。 実は、ここには、はじめ「南は九州大学(←本当)」と書いていたのだけれど、 これは単に「田崎の雑感を読んでいるという九大の学生に出会った」という他人からの伝聞情報に基づく記述だったので、後から正確を期すべく、 「南は九州大学(←本当らしい)」に修正したものであった。

しかし、今日、わざわざ九州大学の N さんからメールをいただき、 「少なくとも自分は読んでいるから、あそこは『南は九州大学(←本当)』として正確である」と教えていただいた。 ありがとうございました。

あとは、北千住在住の方からご連絡をいただければ完璧だな。


10/19/2000(木)

昨晩は、息子に付き合って、近所の鬼子母神のお祭りである「御会式(おえしき)」へ。 町会ごとに万灯を先頭に列をなし、 野性的ともいえるリズム(←よくある表現だけれど、 よく考えると、「野性的な」リズムを刻む野生動物なんていないかも)を太鼓や笛で打ち・吹きならしながら、 ものすごい数の人たちが明治通りを練り歩いていくのをしばし見物。 超月並みな表現になるけれど、 東京という都会に潜んでいた民衆の原初的なエネルギーみたいなものをひしひしと感じる。

息子がやった出店の「遊戯王カード」くじ引きは、全部はずれ。 (前の日は当たったらしい。 客寄せのために巧妙に確率をコントロールしてるんじゃないの、 と思うが、口には出せないよね。) しかし、 父親の方は、収穫あり。 家を自転車で出る寸前に先日の長岡さんと佐々さんとの議論のあと再び悩んでいたことに関連して)得た着想が、思いのほか有望であることがわかってきた。 たこ焼きを買って本堂のまわりの石垣に腰掛けて、 「歌舞伎町の女王」を口ずさみながら (←なぜこの曲かわからない人は林檎ファン失格) 食べている間に、 大方の筋書きが完成した。

一口でいうと、

孤立系における最大仕事の原理を、純粋な量子力学的な命題として証明できる
のではないか、ということ。 系、および、初期の状態(純粋状態でよい)についてのいくつかの条件のもとに、 (体積が大きいときの)最大仕事の原理を厳密に導きたい。 ただし、すべての操作を許すと、これは証明できない(病的な反例が作れるはずだから)ので、「ほとんどの操作」という命題にする必要がある。 そうすると、操作(時間依存のハミルトニアンとして表現)の空間に測度を入れる、とかいうきちがいじみた話になってしまいそう。 しかし、ここがうまいところで、 操作の手順を一つに固定した上で、 操作を始める前の待ち時間 \tau をいろいろに変えることを考える。 そして、ほとんど全ての \tau について、最大仕事の原理が成り立つことを示そうというわけ。 (この「待ち時間」のアイディアは、 長岡さんの(別の、しかし、関連する)質問に答えたとき咄嗟に口にして、 そとのきに大方の評価の方針も意識した。 やっぱり議論することは大事なんだな。 (当然、それ以前から意識的あるいは無意識で考えていたはずなのだが、 はっきりした記憶はない。))

間違いがなければ、 いままで第二法則関係で考えてきたことのなかでは、 もっとも意味のある結果になると思う。 古典力学では決してあり得ない結果(←ちょっと言い過ぎか、少なくとも「あり得ない論法」というのは正しい)であることも面白い。 ただし、 ある意味で抽象的で形式的な話であり、 ぼくが本当に目指したい具体的で力強い量子多体系の理論とはまだまだほど遠いのではあるが。

系のエネルギー準位についての条件を厳しくしたときの話はほぼ完成した(気がする)ので、 これから、午後の会議が始まるまで、 どこまで条件をゆるめられるか、 徹底的に調べるのだ。


昨日公開した講義ノート(21 世紀にでる本の草稿)のなかに、 「熱力学関数 J(T,\mu) には名前がない」と書いたのだけれど、 これに対して、さっそく、 北は千葉県野田市から南はまあどっか(←横浜市日吉だそうです(10/20 付記))まで、 多くの方(正確には二名)から
J には、大正準ポテンシャル、グランドポテンシャルなどの名前があるじゃろうが! 名無し呼ばわりではかわいそう過ぎる。
とのご指摘をいただいた。 ありがとうございました。

これに対して、まずは刹那的に

確かにそういう名前はあるのだろうが、 「大正準ポテンシャル、グランドポテンシャル」というのは、 見るからに統計力学のグランドカノニカル分布ができてからそれに対応させてつけた名称ではないか。 こういう名前がついていること自体、熱力学的な設定では、この関数が名前も持たず見放されていた証拠ではないだろうか?
と答えそうになった。 しかし、Gibbs はこの関数を grand potential \Omega と呼んでいたそうだし、 よく考えると、熱力学が完全に整備された時期と統計力学の誕生の時期(両方に Gibbs が絡んでいる)は重なっているわけなので、安易な発言は慎むべきであろう。

ま、名前についてこだわる必要もないのだけれど、 やはりノートには名前を書いて、 ついでの時に物知りの人に歴史を聞いてみようかな。 (たった今、名前の入っている最新版に差し替えました。)


訂正: ノートの p.11 (3.28) の和の上限は無限大です。 TeX source のコピー・ペーストで生じたミスのようです。 最新版では修正してあります。
10/20/2000(金)

おととい公開したグランドカノニカル分布についてのノートの pdf file が出力できないという方がいらっしゃったので、dvi 版も用意しました。 (dvi 版pdf 版

複数のコンピューターのシステムが共存してしまっているなかで、 文章をどうやって公開するかは頭の痛いところ。


10/23/2000(月)

先日、はじめてお会いした大学院生の人に「はじめまして」 と挨拶したら 「日記よんでますよ」 と言っていただいた。 なんか恥ずかしい感じなのだが、公開している以上、恥ずかしがってはならないのだ。 もちろん、読んでもらっているというのは、とてもうれしいことです。

しかし、 もっとうれしかったのは、その学生さんが、 高麗さんとぼくが数年前に書いた論文を非常に丁寧に読んでくれていて、 ご自分の研究の一部に活かしてくれていたこと。 自分でも忘れかけていた自分の仕事について、 人から話を聞くのは不思議にうれしいものです。


御会式の日に着想を得た定理のもっとも基本的なバージョンと証明を完全に書き下した。 実は、技術的には、つい最近の論文と 98 年の論文をあわせたようなものになっているので、評価などが格段と楽なのだった。

今週はなんだか忙しそうなので、論文をじっくりまとめる暇はないかな。


10/24/2000(火)

12 日に口走った

南は九州大学(←本当らしい)から北は北千住あたり(←適当)までの、 学習院の外の読者のみなさん
発言に対して、ついに北千住在住の方からメールをいただいた!

学部時代はぼくのホームルームで、修士課程まで行って今はさる有名な通信関係の会社で活躍されている卒業生の H さんであった。 (高校生の読者のみなさんへ: 学習院大学理学部の「売り」としては、(研究者の質については言うまでもなく)文系・理系がいっしょに同じ緑豊かで山手線の駅から1分のキャンパスですごすことだけでなく、 就職が非常によいことも挙げられます。) 軽い話題から一気に物理の話に飛躍することが多くてついてはいけないこともあるが、 なんとなく昔受けたぼくの講義を思い出しながら (←たしかに、講義でも質のちがう話題に急に飛躍することは多いけれど、 「ついていけない」ことはなかったよね?) 懐かしく読んで下さっているとのこと。 こちらもなつかしい。 物覚えの悪いぼくですが、 H さんの入学の頃の様子、実験の研究室で測定をしていた姿などが、 なんとなく目に浮かぶのだった。 卒業生の方からコンタクトがあって、昔の想い出などを軽く話してもらえるというのは、無性にうれしいものです。


Feynman の本の訳へのいちゃもん第二弾。

江沢先生の「数理解析 1」の期末試験の問題と解答例をいただいた。 (ええと、一年生は、これは読んでないよね?たぶん。) log 10 を記憶していないときに近似値を求める方法 (e の近似値は知っているとする。ヒント: e の二乗を求める。log の Taylor 展開をつかう)の紹介のあとに、 「余談」として Surely You're Joking, Mr. Feynman! の一節が英語で引用してあった。 数学者たちが exp(x) の Taylor 展開を話題にしていたとき、 その展開に具体的な x の値をいれて exp(x) の近似値を計算するのは簡単だと Feynman が言って、 実際にそこにいた人たちが出題した三つの例についてたちどころに暗算で exp(x) の近似値を言ってみせるという、いかにも Feynman らしい(いやらしくも)痛快なエピソード。 実際は、Taylor 展開から近似値を出すのは至難の技で、 暗算でできるものではない。 実は、数学者たちが出題した三つの数については、 Feynman はたまたま自分が記憶していたいくつかの数値をもとにして exp(x) の近似値を求めることができたのだ(だから、タイトルは Lucky Numbers)というのが話のオチ。 「余談」に引用されていたのはその種明かしの部分なので、 そこだけ読むとちょっと理解しづらいかもしれない。

(訳へのいちゃもんの)公正を期すために、江沢先生の「余談」の冒頭の一文をみる。

Here are these great mathematicians of the day, puzzled at how I can compute e to any power!
試訳
ここで、これら当時の偉大な数学者たちが、どうやってぼくが e の何乗でも計算できるのかについて頭を悩ませているのだ!
大貫訳
その当時の優秀な数学者たちがよってたかって、いったい数学者でもない僕が、何で e の何乗でもわけなく暗算してみせるのか、しきりに不思議がっている。
these を訳さないので単独で読むと「当時の優秀な数学者たち」が集まってきたように誤解されかねないというのは揚げ足取りだろうが、原文の how を why のように訳しているのは困りものではないのかな? (日本語の「何で」が英語の why と正確に対応するわけでないことは知っているが。) そして、この「いったい数学者でもない僕が」というのは何だろう? 原文にはどこにも書いていない。 これは完全に著者の意図を誤解した加筆だと思う。 別に数学者なら暗算ができるわけではないし(実はできない人が多い)、初等解析の知識については、数学者も物理学者も大差ない。 ここで数学者たちの頭に「いったい数学者でもない Dick が」という意識が浮かぶはずなどないとぼくは思う。

この直後の

"He just can't be substituting and summing --- it's too hard."
つまり
彼が代入して足しあげてるなんてはずはない --- それじゃ難しすぎる。
のところにも
ぜったい置換したり和を出したりしてやしないと思うな。 第一難しすぎてそんなことはできないはずだよ。
という変な訳が書いてある。 これは、数学が分からなかったための誤訳なのでまあしかたがない(のかもしれない)けれど、 それにしても簡潔な会話文がずいぶんと長くなるものだとは思う。
こんなところで秘かに訳へのいちゃもんを書いているのも非生産的だし、 ほかにも同様の感想をもっている(とても信頼できる)人がいらっしゃることも知ったので、 あとで岩波の編集者の方に今日とこの前の記事の url を知らせることにしよう。
10/25/2000(水)

雑用ばかりの午前中。 午後は大輪講(卒業研究の中間発表。一人20分(+質疑応答5分)の講演を他の4年生と教員が聴いてびしびし質問するという厳しくも楽しい4年生の必修科目)だからなかなか仕事ができない。


降れば土砂降りというか、意味のある偶然の一致というか、 あるいは、北千住在住読者からのメールが起爆剤となったか、 今朝メールをチェックしてみたら、なんとイギリス、アメリカ、そしてチリ在住の読者の方からメールが届いていた。 ありがとうございます。 (夕方(日本時間)に余裕ができたらお返事します。)

こうなってくると、北限は北千住ではないだろうし(←ま、もともとそうだとは思ってなかったけど)、南限はチリ?
西限は?
東限は?
というより、日本地図を平面に描いた local な近似はもはや成立せず、 地球は球体であるというまさに global な視点が要求されるのであった。 (大輪講で会った F 君が、 実は H さんは北千住からすこし離れた町に実家があるに過ぎず自分の方がより北千住に近いのだと主張していた。 ううむ。チリの方が現れた今となっては極限的にローカルな話題なので小さい字で書いておくことにしよう。)


10/29/2000(日)

いわゆる教育問題については、 科学者として、教育者の端くれとして、危機感をいだいており、 講義などでもちょくちょく話題にしている。 ここでしっかりとまとまった議論をするのは(まして、自分なりの結論を述べるのは)むずかしいが、取りあげるべきことは確実にあるので、 いくつかの掲示板(主として黒木掲示板)などで知ったリンクを挙げて、簡単な感想のみを付す。


大野克嗣さんの岩波「科学」2000 年 10 月号巻頭言

すくない言葉に凝縮された深く、正しい心構え。 実際に教育をおこなうわが身を省みると、 ここから先の道は険しい。 が、あきらめない。

大学教育のことはおいて、 子を持つ親として接している小学校での教育の現状を思うと、 暗澹たる気持ちになる。 明らかに、 大野さんの述べることとまったく相容れない「哲学」が支配的になっている。 「経験を積ませ『知識』を身につけさせるより、『考え方』を教える」 という誤った教育「思想」への感想(残念ながら感想でしかない)は、 すこしまえに黒木掲示板に書いておいた。 同様に困ったこととして、 「答を教えてしまわずに、生徒たちに話し合わせて気付かせる」 のがよいという正しい考え方を極端に押し進めてしまう授業の方法がある。 疑問点や解決法を議論しあうのは大切だが、 たとえば理科の時間に一回実験しただけのことから無理矢理結論を出させたり、 算数の時間に解き方を班ごとに考えさせ発表させてそれで終わり、 など、 その場の「話し合い」で話が完結してしまってはならない。 大野さんがいうように、 「科学によって獲得された世界の見方は日常経験から容易に再発見できるようなものではない」 のだ。 そのことを教えない教育は欠陥だと信じる。


左巻健男さんの「教育カリキュラムはどうあるべきか」(科学6月号)

中学の理科から何が消えていくのか、 その「厳選」は如何におこなわれたか、 理科教育のカリキュラムの改悪について考えるためには必読。

なぜ理科はむずかしすぎると思われたのか」 に述べられていることは本当に正しいと思う。 理科は決してやさしいものではないが、体系としてとらえ教えるとき、もっとも見通しがよくなり、そして、おもしろくなる。 体系をぶち壊し、部分だけを切り売りすることで、 見通しの悪い網羅的な科目に様変わりしてしまう。 こういうことを文部省に訴えつづけてきた人はすくなくないはずなのだが、 それは決して実らない。 文部省の考える勉強とは、歴史の年号の機械的な暗記のようなものなのかもしれない。 暗記すべき事件の数を減らせば、その分、勉強は楽になる。 同じように、科学からもどんどん単元を抜いていけば、どんどん楽になるだろうと。 小説の章を間引けば話がわからなくなり、 音楽から音符やパートを適当に抜いていけば感動のない音に成り下がり、 そして、 生き物から適当に「高度な」臓器を抜き去れば死んでしまう、 ということを知らなはずはないのに。


寺脇研文部省政策課長と苅谷剛彦東大助教授による「対談「学力低下」を考える」(朝日新聞)

詳しくコメントはしない。 しかし、

だから、明確に言わないといけないのです。「全部百点とれるようにしますよ、だけど、その範囲はいままでより狭くします」と。
という寺脇氏の発言をみるだけで、ここには猛烈に危険な考え方があることがわかる。

世界のなかで何を体験してもらいたいか、 何を味わって欲しいか、 何を知って欲しいか、ではなく、 「全員百点がとれる」ことを出発点にするのは、 人類全体としての向上心という考えを真の意味で否定する教育の方針だと信じる。

「全員百点がとれる」教育が、 能力が高く勉学意欲のある子供にとってむごいものであることは明らかだろう。 (そういう子は先をやれるシステムにするとか寺脇氏は言っている? 本当? 「塾でやれ」というのがオチなのかもしれない。 最後の方に「『東京には塾があるけど、うちはない』なら、塾を誘致する自治体も出てきていい。」という発言がある。) しかし、それ以上に、 さして勉強のしたくない子供にとって、これほどにむごいことがあるだろうか? 「全員百点がとれる」ように細かく配慮されたと称する教育システムのなかで百点を取れなかった子供の立場はどうなるのだろう? 「この学年では君一人が百点を取れませんでした。 そこで、来年からは、もっと教える内容を減らして、 君のような子でも百点を取れるようにするのです。 よかったですね。」 とでも言うのか??


教育改革国民会議の「一人一人が取り組む人間性教育の具体策(委員発言の概要)

まだ眺める程度の暇しかないので、リンクのみ。

それにしても、 なんで「団地、マンション等に『床の間』を作る」とかいうのが、 こういうところから堂々と出てくるのだろう? 「お寺で3〜5時間座らせる等の『我慢の教育』」???

座長は物理学者。 半導体物理学への彼の貢献は立派なものだが、 それによって、 彼が科学と教育について信頼にたる視点をもっていることにはならないでしょう。


10/30/2000(月)

これを読んでくれている大学時代の友人から、 Feynman の本の訳への文句(その1その2)について、まったく同感で、やはり英語の語り口のリズムは大事とのメールをもらう。 そして、

私は英語のしか読んでないので知らなかったけど、けっこういい加減な訳だったんだ。
との感想。

うむ。かっこいい。(ちっ。日本語で読んで損した。) みなさんも、こういう台詞がいえるように、 話題の本はなるべく英語で読もう。 (ま、この友人は大学時代から英語に堪能ではあった。 彼とぼくが一緒になると、突如、英語、フランス語、中国語などで会話を始め、周囲を脅かしていたものだ。 (フランス語と中国語は物まねのデタラメ。 でも、相当それらしかったので、ドイツ語選択者のなかにはぼくらがフランス語に堪能だと信じているのもいた。) 彼は、いまは外資系の証券会社につとめていて、年中出張でニューヨークなどに出かけている。 ちなみに、彼の結婚式には同僚のアメリカ人もたくさん出席したので、 ぼくは日本語と英語の両方で司会をやったのだ。)


さて、「ご冗談でしょう」へのつっこみだが、これは、その気になるといくらでもつづきそう。 英語版をぱらぱら読んでいて、ふと日本語版をみると、 必ずひっかかるところがある。 たとえば・・・

と書きかけたが、これをやっているときりがないのでやめる。 (一日一段落ずつ訳をつけていって、 それで全部訳してしまったりすると、翻訳権の侵害になるのかな?)


ところで、「ご冗談でしょう、ファインマンさん」は、 今は岩波現代文庫という形で出ている(岩波のページ)。 なんと、文庫版には江沢洋の解説付き。

英語版で読む決心をした人も、 この解説だけは(立ち読みで)読んでおこう。 ファインマンという物理学者が何をやった人で、どのような意味で真にユニークだったか、を明快かつコンパクトに語ってくれる一流の江沢節。 これを押さえておけば、この本を読んで、ただ「愉快なおじさんの愉快な人生」的な間抜けな感想をもつことはないだろう。

さて、この手の解説には、たいてい「原文の雰囲気を伝える生き生きとした訳文に恵まれ」みたいな翻訳への「よいしょ」がつきものだけれど、 江沢解説にはそういうのがない。 学生時代からの江沢ファンとしてはうれしい限り。

ついでながら、江沢先生は、数学セミナー2月号に「冗談の解読」という記事を書かかれている。 ロスアラモス時代のファインマンが 1/243 というわり算の結果について奥さんに手紙を書いたという Surely You're Joking の中のエピソードを楽しく読み解くという趣向。


話をもどせば、 大貫訳 Surely You're Joking には、 前に指摘したような
原文のノリを無視して書き換えたり、勝手な加筆をおこなったりしているところ
だけでなく、(一つは指摘したけれど)
物理や数学がわからないので内容が理解できなかったが、 そのまま適当に訳してしまったところ
も少なからずあるようだ。 残念なことだ。

知り合いの岩波の方にはこのページを読んでいただき、 担当の編集者にも伝えようと言っていただいたけれど、 もちろん、それで改善されるなんていうことは、あり得ないと思っている。 真面目に全部訳し直していたら、猛烈な手間とお金がかかるから。 やはり、最初からちゃんと訳してもらうのが一番いいのだ。

さて、Surely You're Joking の著作権や翻訳権が切れるのはいつなんだろう? それまでに、英語のできる心あるファインマンファンがこつこつ訳しておいて、 一気に公開するというのも素敵かもしれない。


10/31/2000(火)

昨日話題にした江沢先生の「冗談の解読」で取りあげられていたのは、

1/243 を小数で書くと、0. 004 115 226 337 448 559 ... という風に「キュートに」数が並ぶことに気付いた。(これは引用ではない。)
というファインマンの話。 (ぼくの持っている日本語版は 0.004115226337 みたいに数字を羅列しているので、なにがキュートなのかが読みとりにくい(翻訳のせいじゃないけど)。 英語版は活字を工夫している。)

これで思い出したので、 高校時代に(受験勉強に飽きて電卓で遊んでいたとき)ぼくが発見したおもしろい数字の例を書いておこう。 1 と 2 と 3 と 4 だけが登場するという点でファインマンの話に似ている。

8 ケタの電卓(当時はそれしかなかった)に、 2143 というきれいな数字の並びをを打ち込み、これを 22 というきれいな数で割る。 そして、平方根ボタンを二回ちょんちょんと押すと、あら不思議。 お馴染みの定数が 8 ケタ完全に正確に(9 ケタ目を切り捨てたかたちで)現れます。
ぜひ、お試しあれ。

ファインマンの 1/243 については、ちゃんと理屈がつく (江沢先生の記事に種明かしがある) けれど、この「お馴染みの定数」の方は、もちろん偶然の一致。 次のケタを計算すると化けの皮がはがれるしかけになっている。 この例は、 やはりその道の人たち(?)には知られていたようで、 大学に入った後で何かの本で「有名な例」として取りあげられていたのをみて「やっぱり」と思った記憶がある。 ともかく、8 ケタまで完璧な値が出てしまうので、 8 ケタ電卓というものの登場によって、さらに面白いネタになったと思う。

ぼくがこの例を(再)発見したときには、 まず「お馴染みの定数」を電卓に入力し、 そのルートをとったり、二乗したり、と延々と加工して遊んでいたのだったと思う。 たまたま4乗してから 22 をかけてみたら、 2143 のあとに 0 がたくさん(いま、Mathematica でやってみたところ、五つ) 並ぶのをみつけて感動したのだった。

こんなのを偶然にみつけたくらいだから、 あの頃は、 ずいぶんと長い時間、電卓をたたいて遊んでいたということになる。 こういう「数秘術」めいたのだけではなく、 展開や近似を体感するような実験もいろいろやっていた記憶がある。 たとえば、

1.0000036
のような数を電卓に打ち込んで、平方根を何回かとってみるとか、
1.0000001
を入れてから、ひたすら二乗していって、 いつ近似がこわれるかをみる(←軽く読むと何を言っているかわからないかもしれませんが、その場合は、ともかく電卓で実験してみて、それから意味を考えて下さい)といったタイプの実験は、やっていて飽きなかった。 考えてみると、ぼくらのように若い頃から電卓が手元にある世代は、こうやって Taylor 展開などなどの雰囲気を体得することができたのだ。 (もちろん、今の人たちは、もっとできる。)
ところで、「冗談の解読」のなかで江沢先生は、
ところで、ファインマン先生は、どうやって 1/243 を見つけたのだろう? 計算機で遊んでいるうちに偶然みつけたように言っているが、ご冗談でしょう!?
と疑問を表明しているけれど、 ぼくには、どうも本当に偶然だったのではないかという気がする。 計算機遊びに「はまって」、いろいろな数の逆数を計算させて、パターンを見て楽しんだりしているうちに、たまたまラッキーにもこういう面白い例に出くわしたのではないだろうか?

ファインマンがとくに運の悪い奴じゃないということには誰も異論はないだろうし。


ずっと「量子力学の定理として第二法則を示す」仕事の草稿をつくっていて、夕方に最初のバージョンが完成したので、例によって謝辞に名前の挙がっている人たちのみに送る。 時間ができたので、 Hatano-Sasa の "Steady State Thermodynamics of Langevin Systems" を印刷して読む。 Oono-Paniconi の定常状態熱力学を Lagevin 方程式系から導出するという試み。 ぼくも、ようやく定常状態が重要という認識が生まれてきたところであり、Jarzynski 等式など道具立てにも慣れ親しんできたところなので、きわめて面白く読んだ。 (実は、もっとも本質的な部分(Q_hk の定義の心)がわからないのだが。) 大野さんたちの論文も読みたい。 発掘せねば。

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
田崎晴明ホームページ

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