日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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1/1/2001(月)

あけましておめでとうございます。


世紀の大論文(12/28/2000 など)の証明の下書きは前世紀のうちに(紅白を横に聞きつつ)ほぼ完成。 とはいえ、これを TeX でうちこんで印刷して客観的にみると、いろいろと不満が出て書き直す事になるだろう。 関連する未発表の割と面白い計算(ただし厳密ではない)などをどこまで書くか、など悩みは多く、先は長い。

数年前にこの仕事を仕上げたあとに、次に挑戦すべきおもしろい課題として、

  1. Hubbard model において金属強磁性(おなじ電子たちが磁性をにないつつ、電気伝導にも寄与する)の厳密な例を作ること
  2. Hubbard model という過度に簡略化したモデルで得られた知見を、連続空間の電子の系に広げること
の二つがあった。

2 は極めて重要だが絶望的に難しく、いろいろ考えてみたが、手が出る気さえしなかった。 (今でも。) 1 は、数学パズルとしてはかなりはっきりした問題設定までしぼり込めている(ぼくのモデルで電子数を変える)ので、何度か本気で考え込んだのだが、既に解けた問題に比べるとやはり技術的にもう一段階か二段階むずかしいようだ。 久しぶりに考えてみても、やはり難しい。 21 世紀にもまた考えてみることにしよう。


ところで、昨日、息子と妻が、人間が生身で宇宙空間にさらされたらどうなるかということを話していた。 これについては、前に黒木掲示板で文献を教えてもらったことがあったので、 「あ、ぼくも、人間は一瞬で破裂して死ぬと思っていたけれど、そうじゃないらしい。 『2001 年』でも、一瞬生身でがまんするところがあったでしょう。」 と話しはじめた。 しかし、今年になると「2001 年」と言って特定の映画を意味するという用法は、いよいよ使いにくくなるのかもしれない。
さて、午後から(これより上は朝に書いた)快晴とはいえ寒い天気のなか、家族で湯島天神に初詣。 子供たちが絵馬をおさめるというので、ぼくも4分の1のスペースをもらって願い事を書くことにした。 「いい仕事ができますように」などにしようかと思ったけれど、それだけでは自分中心にすぎるので、けっきょく
今世紀も物理学(および自然科学、および人類の文化全般)が健全に発達しますように。 私もいい仕事ができますように。
と書いて奉納してきました。

よかった、これで安心、などと思わず、がんばって人事を尽くしましょう。


では、 月並みですが、今年もよろしくお願いします。
1/2/2001(火)

年末年始にバックグラウンドで考えたことの一つ。 「粉体の静力学における圧力分布の履歴依存性を再現する徹底的に簡単な確率モデルをつくる」こと。

20 世紀末に、佐々さんに聞いた話は、大ざっぱに言うと(といっても、そもそも、大ざっぱにしか聞いていないのだ)

ということ。

これを、もっと怠慢にやってみようというちゃちな考え。

結論から言うと、ちょこっとやってみたところ、ある種の履歴依存性は出せるけれど、かなり自明だし、粉体との関係はわからないので、意味があるかどうかは不明。 というより(常識的に考えて)まあ九分通り大した意味はないでしょう。

[powder] 以下、図に従って説明しよう。

  1. こういう風に円盤が積み重なっているけれど、最初は、なんかグスグスだと思うことにする。 これから、ぎゅっと詰まった解に「落ち着く」様子をみる。
  2. (最下段以外の)任意の円盤は、最終的には、自分より一段下の円盤に支えてもらう。 このとき、(きわめて人工的だが)ふたつある下の円盤のうちのどちらか一つだけに全面的に支えてもらうということにする。 そこで、ある円盤(斜線で示した)が「落ち着く」際には、図のように、左右どちらかの方向斜め下に力を加える。
  3. まだ「落ち着いて」いない円盤に上の段の円盤から力が加えられると、この円盤は即座に自分が加えられた力と同じ向きの力を下の段に加えて「落ち着く」とする。(あまり現実的とは言えない。)
  4. これによって一種の「将棋倒し」が生じる。 たとえば、まだ誰も「落ち着いて」いない状況で、図の斜線の円盤が左向きに力を加えて「落ち着く」とすると、左斜め下にある円盤たちが次々と「落ち着いて」図のような圧力分布ができる。
このようにして、いったん「落ち着いた」円盤は、その後はどんな力がかかっても、自分が及ぼす力の向きを変えないとする。(これも、すごく人工的。)

あとは、最初の誰も「落ち着いて」いない状態から出発して、なんらかの順番で、円盤を次々と「落ち着かせて」やる。 この際、図 2 のように、まだ上から力のかかっていない円盤が「落ち着く」ときには、左右の方向を確率 1/2 で選ぶとする。

もっとも単純な手続きは、下の段からはじめて、下から順にもれなく、円盤たちに「落ち着いて」もらうこと。 この場合は、上の 3 のルールの出番はなく、4 のような「将棋倒し」はおきない。 各々の円盤が独立に、確率 1/2 で左右を選ぶことになる。 典型的な圧力の分布を図 A に示す。 (これは、実は coalescing random walk あるいは voter model という確率論(より詳しくは interacting particle systems という分野)でよく知られたモデルになっている。 (基本的には同じモデルを「川の流域分布のモデル」として高安さんと西川さんが調べていたのを、面白いなと思って勉強したことがある。)) 底辺の円盤の下の数字は、各々の円盤が「支えている」円盤の個数を示す。 この圧力は、ご覧のようにきわめて大きくゆらぐのが特徴的で、これ自体おもしろいことである。 ただし、圧力の平均値を計算すると(これは二項分布の和で書ける)図の下のグラフのように真ん中がふくれたなめらかな曲線になる。

もうひとつの単純な手続きは、最上段からはじめて、上から順にもれなく、円盤たちに「落ち着いて」もらうこと。 この場合には、4 の「将棋倒し」が次々と発生する。 たとえば、この図 B では、まず最上段の円盤が左を選んだために、一気に、左側の辺が全部左下向きに「落ち着いて」いる。 次に二段目右側の円盤が右を選んだために、その下の5個が全部「落ち着き」、という具合に進む。 圧力分布は、明らかに、真ん中がへこんだ形になり、A とは定性的に異なる。

こうして、A, B を二つの極端な場合にもつような、二つの相が存在する可能性が示唆される。 実際、上の二つの手続きに多少のランダムネスを混ぜても、圧力分布の傾向は定性的には変化しないことは証明できそうである。 また、「落ち着く」円盤を、すべての円盤の中から、一つ一つ、完全にランダムに選び出すという手続きをとると、定性的には B に似た両側の圧力が高いパターンになりそうな気がする。

というわけで、「落ち着く」順番の決め方に依存して、圧力分布の形が定性的に変わるという現象を示す簡単な確率モデルが得られた。 とはいえ、この履歴依存の原因が 4 の「将棋倒し」にあることは自明で、これだけではさして面白くはない。

佐々さんに聞いたところでは、実験でも、佐々さんたちの数値計算でも、おおむね、上の A, B のような二種類のパターンができているそうだ。 ぼくの話からすると、下からじっくり詰めていったときは A のような一山の圧力分布になり、ぐすぐすっと積み重ねてからとんとん叩いて詰めた場合には B のような二山の分布になりそう。 佐々さんが何と言っていたか忘れたので、これが実験と合うかどうかはわからない。 とはいえ、たとえモデルが完全に物理を外していても、2分の1の確率で「実験と合って」しまうわけだから、この程度の比較はテストにはならないですね。 (あ、もちろん、実験と正反対なら、即ダメです。)


1/3/2001(水)

「21世紀になったら、昔の空想科学漫画(←「まんぐわ」とルビをふろう)に出てきたような未来都市が出現すると思っていたのに、いざ21世紀になってみると、大して変わりばえしないではないか。」 という声はよく聞く。

ぼくもそう思っていた。

しかし、今日、妻の実家のある埼玉県大宮市を訪ねるため、首都高5号線からさいたま新都心(←これを「埼玉新都心」と漢字で書いてはいけない。ぼくも今妻に注意されてなおした)に向かう高速道路を走って考えが変わった。 彼方から続く高速道路が、大宮郊外の上空に巨大な美しいループを描くようにして新都心に向かう。 その先にそびえる高層ビル。 傍らには赤い字で「仏壇」と書いた大きな看板。 これは、まさに未来都市である。 やはり21世紀は来ていた。

そして、夜、同じ高速を都心に向かう。 どこまでも続く高速の灯り、そして、そのむこうに広がる巨大な光のかたまり

メガロポリス・東京 A. D. 2001
みたいなテロップが浮かんで来そうではないか。 やはりぼくらは空想科学の世界に暮らしているのじゃ。
1/5/2001(金)

佐々さんによると、粉体を積む実験では、

という結果になっているらしい。

そういう意味で、ぼくの年末年始簡単確率モデル(1/2)の結果は、実験事実とつじつまがあっている。 実験結果との比較による「反証」はできず。

だからといって、真面目に考えてみて、このモデルが、履歴によって圧力分布が変わることの物理的メカニズムを捉えていると気楽には思えない。 (かといって、「完璧に外している」とも言い切れないけど。) 履歴依存性が出る理由はかなり自明だし、ちょっとずるい気もするのだ。

というわけで、よほどのことがない限り、この確率モデルは、もういじりません。 どなたか、興味を持たれたら、考えてみて下さい。


佐々さんたちが、もともと扱っていた問題は、ピラミッド状に積み上がった円盤の系について、静力学のつり合いの条件を真面目に書き下して、それを満たす解を探すことだった。 剛体が摩擦のある複数の点で接触している問題だから、各々の円盤について、合力と重力のつりあいの式と、全トルクが 0 という条件が出てくる。

今日は、この真面目な静力学の問題を、くりこみ的に扱うということをやり始め(←昨晩、深夜に目が覚めたので、寝床の中でやり始めてしまったのだった)、一頃は、意味のある結果がでそうな気がして、くりこみ群方程式に相当するものを出そうと、Mathematica に 17 元連立の 1 次方程式を解いてもらう寸前だった。 しかし、よく考えてみると、このプランは、あっちこっち穴だらけで、もうまったく駄目駄目なことがわかってしまった。

多体系の古典力学のくりこみ的な扱いはつねに(あこがれの)目標の一つなので、まずは静力学なら簡単にいくと思ったのだったが、甘かった、甘かった。 でも、それなりに教訓は得たぞ。


1/8/2001(月)

講義・試験・雑用などなどが始まる前のしばしの猶予。

Hubbard model の論文の主要定理と証明の下書きは仕上がっているので、後は、ファイルを作り、マクロを設定し、原稿を打ち込み、図を描き・・・と単純作業を進めるのみ。 しかし、毎度のことながら、この段階になると妙にやる気がなくなってしまう。 いけないと思いつつ(心の底ではいけないとも思っていないかも)、ついもっとわけの分からないことを考えたくなってしまうのだった。

というわけで、週末には、粉体を積み上げた砂山の問題に関連して、

などを考えて過ごした。

今日は猛烈に寒い。 体調も悪く頭も冴えないので、論文をタイプしよう。


1/9/2001(火)

ふふふ。

ふと

ひょっとして早川さんも web 日記をはじめているのではなかるまいか
という着想が頭に浮かび、早川ページをチェックするもトップページに該当項目なし。 ま、そんなもんだろうと思ってついでに「雑文」ページを見たら、ちゃんとあるではないか! ほぼできたてのところを一発必中!!

(以下、早川日記 1/5/2001 への反応。) たしかにぼくは岩波「物理の世界」を批判するぞと宣言していますが(11/23/2000)、これは、あくまで講座の基本姿勢を批判しているのであって、個々の著者を批判したいと言っているわけではありません。 執筆者とテーマについても部分的に聞いていますが、早川さんのを含めて、いくつかは期待している著者もあります。 とは言っても、

という境界条件のなかで良いものを書くのは非常に骨の折れることでしょう。 早川さんをはじめとした執筆陣には、どうかがんばって最良のものを生み出して下さいとエールを送ります。

ここで一気に「物理の世界」批判を書かなきゃいけないのだろうが、ちょっと時間とエネルギー不足。


1/11/2001(木)

早川さんもぼくが即座に日記を発見したことに驚いているけれど、あそこ(1/9)で書いたことは、普遍性にかけて真実でありまして、本当に「予感」がして、かなり久しぶりに早川ページを見に行って発見してしまったのだ。 誤解をおそれつつ言ってしまうと、こういう共時性(シンクロニシティー=意味のある偶然の一致)っぽいことって何となく好きです。

けれど、誤解を恐れて即座に付け加えますが、だからといって、ぼくが(ジョセフソンとかみたいに)「超常現象」の存在を信じていて、そういうものの「科学」をつくろうと思っていたりするわけではまったくありませんぞ。 そういう「意味づけ」っていうのは、しょせん人間がでっちあげる後付の理屈みたいなものだと思っている。 そして、そもそも人間にとっての「意味」なんて摩訶不思議なものなのだ。 そういうことを認めた上で、個人的には、この手の意味づけみたいなことは何となく好きだし、(肯定的な方向で気楽でいられる範囲にとどめておけば)人生を楽しくしてくれると思っている。

こういうことを書くと「それは科学的な態度とは言えないのでは?」という疑問を発する人がいるかも。 でも、そんなことはないでしょう。

これにちゃんと答えるには、そもそも「科学的」というのはどういう姿勢かを問わなければならないですが、そこまで深入りするのも何だから、さしあたって、以下のふたつの答え方をしておこう。

その1: 科学の勉強や研究を一生懸命してみれば、学習・研究テーマや問題解決の方向性の選択はもとより、日々のちょっとした思いつきやアイディアなんかが、「理詰め」や「定まった方法論」から生み出されるのでないことは明らかだと思う。 (超サラリーマン的「科学者」のことは知らないけど。) 先に何があるかわからない多くの道のなかからたった一本をえいやっと選び出してそちらに進んでいくと何かで出会うとか、なんらかの困難を克服するためのアイディアをある日とつぜん思いつくといった体験は、どう考えても理屈だけで「説明」のつくものではない。 別に歴史に残る重要な業績とかじゃなくても、本人としては、「野生の勘」とか「運命の導き」とかいった表現を用いたくなることはとても多いと思う。

(付記: もちろん、科学は「合理的」な営みだから、そうやって得られたものは、限りなく「より合理的」になるように、様々な努力をつづけなくてはならない。 (この条件を満たせば「合理的」でっせみたいな「基準」はないから、科学をやる人はつねに「より合理的」になるように心がけつづける。) でも、これは、学ぶ人・研究する人がどうやって自分の限られた能力と時間の中で科学の世界を生きていくかという、いわば人生の選択の問題とは別の話だと思う。)

その2: 誤解を恐れつつ言っておくと、別に「意味のある偶然の一致」というアイディアが現代科学と矛盾すると思う必要もない。 (もちろん「早川さんの脳から出た『波動』が空間を伝播し、ぼくの脳の中の重水の分子に固有の振動を誘起し、それが『早川さんも web 日記を』との着想に結びつく」といった類の「科学的」説明はすべて即座に没!) 「意味のある偶然の一致」に類するアイディアは極めて人間よりのもので、自然科学の守備範囲とは互いにまったく抵触しあわない領域にあるとぼくは思う。 (しつこいけれど、「意味のある偶然の一致」の「科学」を作ろうなんてことは夢にも思っていない。そういうのは、失礼かもしれないが、きちがい沙汰だと思う。)

しかし、いわゆる「予知能力」は力学法則、特に因果律、と矛盾するのではないか?
という質問があるだろう。 (そういう議論は、実は、よく目にする。) われわれが日常でいう意味での「因果律」(過去のことが未来のことに影響を及ぼすのであって、その逆はない)自身、力学の設定のなかでは完全に理解し切れていない、というようなところまで突き詰めるつもりは(今は)ないが、上の質問=議論に、それほどの説得力がないことだけは言っておきたい。

たとえば、以下のような状況を想定しよう。

ある人物が完全なサイコロを何のごまかしもなく投げ、乱数を発生させる。 別の部屋に「超能力者」がいて、最初の人がサイコロを投げる寸前に「3」とか「6」とかいう風に出る目を宣言すると、これが次々と当たる。
これは何らかの物理法則に抵触する事態だろうか?

確率という見方をすると、N 回の試行で予言がすべて的中する確率は 6 の N 乗分の 1 となる。 この確率は 0 ではないから、そういう的中があっても悪くはない。 でも、10 回あたる確率はだいだい1億分の1くらいだから、そういうのは極めて「ありそうにない」ことに思える。

でもどうして「ありそうにない」と思うのだろう? それを説明するのはなかなか難しい。 そもそも、これを「ありそうにない」と思うのは、われわれが、この「超能力者」が別の部屋で投げられているサイコロの目を「予言」しているらしいという知識を持っていて、それで自分たちの観察結果に意味をつけているからだ。 そんなことを知らなければ、単に誰かが数字を口にしているだけに見えて、何の神秘もない。 さらに、この神秘を神秘と感じるためには、(当たり前のことだが)サイコロの目を見てそれを数字に換算し、さらに、超能力者の発した音声を認識して、それを数字に直さなくてはならない。 早い話、日本語を知らなければ、これは神秘での何でもないのである。 (正確に言うと、日本語を知らなくても、多い回数投げ続ければ、音声パターンとサイコロの目の相関に気付きうるけれど。) ぼくが理解する限り、ニュートン方程式やシュレディンガー方程式そのものは日本語を解さないから、こういった「ありそうにない」ことを方程式が禁止するという理由はないように見える。

つまり、上の「予知能力」の実演は、少なくともすぐにわかるやり方で、既存の物理法則と矛盾するということはないのだ。 物理法則を持ちだしてこの手の「予知能力」を全面否定するというのは理屈になっていないことになる。

しつこく言っておくけれど、だからといって、ぼくが「予知能力」の信者だというわけではない。 ぼくはそんなものは信じていない。 ただし、 物理法則に抵触するから信じないのではないですよ。 ぼくの(あるいはぼくが信頼できる人々の)前で再現性のある「予言」の実演がなされたことがないというただただそれだけの理由で信じないのだ。


と、これだけ予防線を張って書いても、「田崎は超能力を肯定した」とか思う人がでるかもな。 ちょっとでもそういう読み方をされた読者には、私の文章が達意でなかったことをお詫びし、それは誤読であることを強調しておきます。
1/12/2001(金)

ある方から、ぼくが大昔に一部を担当した本(フラクタル科学(朝倉書店))の中の図についてのお問い合わせをいただいた。 本を開いてみると、ランダムウォークの図と称して、きわめていい加減な手描きの図がある。(図 4.7 とか。) 手描きなのはいいとして、かなり作為的な図で、今にしてみると恥ずかしい。 (この本を書いたのは Princeton のポスドク時代で、もちろん家にコンピューターなんてなかった。 それで、会議とかで、パーコレーションの図の OHP を見せながら(英語で言っているので、そのつもりで読んで→)「もしコンピューターをもっていれば、これらパターンを図に描くのは簡単でしょう。 もしコンピューターをもっていなくても、ワイフをもっていれば、彼女にお願いして、コインを投げて裏表を言ってもらいながら線を描いていけば、こういう図ができます。」 というアメリカンジョーク(??)で笑いをとっていた。 (同じ国際会議で、ぼくの翌日に講演した奴が、冒頭に "My wife is very busy." と言って、"So I use computer." と続けたので、ぼくの話を聞いた人たちは大爆笑であった。))

それで、ふと、手元にあるフラクタルがらみの本をいくつか眺めてみたのだけれど、おもしろいほど、どの本を見ても、もっとも単純なランダムウォークの軌跡の図は載っていないことに気付いた。 あまりに単純で、コンピュータが得意な人にとっては、腕のふるいようやマシンの性能の見せびらかしようがないので、わざわざ載せないのかな? 物理的(あるいは数学的)例としてはもっとも基本的かつ典型的なのに。

念のため、解説しておくと、たとえば二次元正方格子上のランダムウォーク(randaom walk;数学者は「酔歩」と呼ぶ。漢詩のようで味わい深し)とは;

  1. はじめ、粒子は原点にいる。
  2. 粒子は、今いる点の4つの隣接点のいずれかに、等確率でとぶ。
  3. 2 に戻る
というもの。 これを何回かくりかえして、粒子の通った道筋を結んだ図形を、ランダムウォークの軌跡と呼ぶ。 簡単でしょう?

それで、古い Mac のハードディスクの中を探索してみたら、ランダムウォークの軌跡を描かせる Mathematica のプログラムが出てきた。 ここに大公開しよう!

units = Flatten[
	Outer[ #2 RotateRight[{1,  0}, #1]&, {0, 1}, {-1, 1} ], 
1]

RandomDir[] := units[
[ Random[Integer, {1, Length[units]}] ]
]

rw[n_] :=
    Graphics[
    	{Point[{0,0}],
     	 Line[NestList[ # + RandomDir[]&, {0,0}, n ]]},
    {AspectRatio->Automatic} ]//Show
[random walk] ふむふむ。

さっぱりわからん!

しかし、たしかに、この三つの命令を evaluate してから、rw[1000] とかやって evaluate すると、ちゃんと 1000 ステップのランダムウォークの軌跡が描けるようだ。 たとえば rw[10000] とやって出したのが右図。 きれいですね。 (いわゆる「フラクタル図形」です。 また、格子のぎざぎざが見えないくらいのスケールでは、ブラウン運動の軌跡とみなすことができます。(実は、ランダムウォークの計算機シュミレーションは、ある意味で、計算機の発生する乱数の質の厳しいチェックになるらしい。そういった話には深入りしません。知らないし。(この図も、ひょっとすると、ランダムウォークしては「走りすぎ」で、乱数の欠陥を見せているのかも知れない。))

思い起こしてみると、この頃、ぼくは Mathematica のプログラミングにこりかけていて、二冊くらいプログラミングの本を読んだのだった。 慣れてくると、数学的に自然な発想を、そのままプログラムにできるので、とても気持ちよかったのを覚えている。 上のプログラムをみても、たとえば DO 文(わははは)みたいなのでループをぐるぐる回したりする構造は出てこないでしょう? NestList という関数で、一発で処理されている(ように見える)。 (ついでに、発生した点の列を線で結ぶのも Line でできているみたいだ。) またプログラムも機能を分けて分かりやすく書くことができ(とは言っても、今みるとわからんのだが)たとえば一行目の単位ベクトルの集合の定義を変えてやれば、そのまま異なったランダムウォークのシュミレーションができるようになっている。 (ま、これは超簡単な三行プログラムだけど、このほかにパーコレーションの連結クラスターを描くエレガントなプログラムを書いたと人に自慢していた記憶がある。 でもプログラムは発掘されないのだ。)

「Mathematica は、普通は、数式処理とグラフ描きのソフトと思われているが、実はその真の姿は新しいコンピューター言語、真の意味での高級言語なのだ」みたいなこと(←記憶曖昧)を Wolfram がどこかで威張って書いていたのを読んで、素直に感心した記憶もある。 ところが、別の人の書いた Mathematica for the Sciences みたいなタイトルの本(って、そのものズバリか)を覗いてみると、なんのことはない、まるで太古の FORTRAN のコードをそのまま逐語訳したようなプログラムが載っていた。 これでは Mathematica を使う意味がぜんぜんないではないかとか偉そうなことを言っていたのも覚えている。 (ま、ぼくの書いてたプログラムがどの程度まともだったか自信はないけど。)

しかし、なんのかのといっても、月日が経ち世紀もあらたまってしまうと、自分で書いたもっとも基本の三行プログラムさえわからなくなってしまうのでありました。

少年易老 酔歩不帰 一寸光陰不可軽(←教養がないので、いまいちですな。それに二次元の random walk は再帰的だしな。ぶつぶつ。)


1/13/2001(土)

やたら寒いです。

いやな夢を見た。(お願い:むやみに分析しないで下さい。)

何らかの理由で親善のマラソン大会に出てしまうのだが、出発のときと、途中で乗る電車(←変なの)から降りたところで道を間違えたせいもあって、けっこうがんばって走ったのに、ビリになってしまった。 最後は、一生懸命走っても足が痛くて思うように動かず、つらかった。 (起きてからも足が痛かった。) ばてばてになって、妻といっしょに山道を歩いていると、目に見えるものがモノクロ(濃い青一色)になってしまって、「やばいな、今の無理がたたって色覚がなくなったみたいだ」とかなり焦ったが妻には話さなかった。 しばらくすると、次第に色覚が戻ってきたらしく、部分的に、赤と緑のものが見えるようになってきて、一過性のものだったと一安心した。 (ぼくは夢の中で「これは夢だ」という認識を持っていることが多いのだけれど、このときはそんな余裕もなかった。)

いや、それだけの夢で、ここに公表するのに深い意図はないのですが、今でも「夢は白黒」という主張に出会う気がするので、色がついていることが本質的な例もあるということで。


先月、話にでてきた(12/6/2000)既に絶版の本
W. Thirring, Quantum mechanics of large systems (Springer)
を、友人 M のすすめに従って amazon.com の out-of-print book order service で注文し、つい先日入手。 amazon に注文すると、彼女ら/彼らがアメリカの古本業者から探し出してきて売ってくれるというサービス。 送料込みで50ドル以下で完全な新本が手に入った。

国内では足を棒にして古本屋さんを回っても入手不可能だろうから、これは本当に素晴らしい話だと思う。


ところで、この本を含む Thirring 先生のシリーズ(12/10/2000)について、ウィーンに滞在中の M さんからしばらく前に情報をいただいた。 現在 Thirring 先生は、このシリーズの改訂作業中で、すでに1巻についてはドイツ語の新版が出ているそうです。 そのうち4巻とも新しくなって出版されるだろうとのこと。

有用な情報なのだが、ぼくは、お恥ずかしながらドイツ語は(というより日本語と英語以外は)まったく読めないので、英語版を買うしかなかったのであった。


1/15/2001(月)

いい天気だし、佐々さんたちのやっている砂山の静力学の解の分類の最後の一押し。 ほぼこれで完璧だと思う。 (自己診断による信頼度 70 パーセント。(午後3時41分現在、85 パーセントに上昇。)) あとは、ここから先の話が進めやすいように、物理的に見通しのよい解の表現をつくることを考えるべきだろう。 (注:先日(1/5)、佐々さんからのメールの内容として砂山の実験結果について書いたけれど、実際の実験結果は、もう少しデリケートで、必ずしもあのサマリーの通りとは言い切れないそうです。 ちなみに、この話を聞いたとき、その手の実験をされている A さんは、私の知り合いの I さんと結婚されていることを知った。 この情報の方がインパクトがあったな。 I さん、おめでとうございます。(←読んでないね。お子さんも生まれたそうだし。そちらもおめでとうございます。))

こうやって「遊んで」いるので、論文執筆は遅々として進まない。 ま、「世紀の大論文」なんだから時間がかかるさ、と開き直る。


以下の話題は、今までここに書いてきたこととなんとなく雰囲気がちがうので書くかどうか迷ったのだけれど、やっぱり書いておこう。

今夜、「パリティ」という雑誌の座談会「21世紀の物理に未来はあるか?」なるものに出席して、(おそらく)何かを発言してきます。

こういう、ある意味で「目立つ」ところに出るのは趣味ではないはずだったのだけれど、依頼されたのを断って後から他の人のやっている座談会を見てしまうと絶対に悔やむだろうなと思って引き受けてしまった。 しかし、出席すれば出席したで、本当に言いたいことはなかなか言えず、たとえ少し言えたとしても、それが記事に反映される可能性は低く、けっきょく悔やむことになるのかもしれない。

それに、「本当に言いたいことを言え」と言われたとして、今のぼくは何を言えばいいのだろう? ぼくがこれからの物理について思うことは、実に単純で、

優れた研究者たちが、サラリーマン根性や他分野へのコンプレックスを捨て、自由にかつ真摯に物理(あるいは科学)全体を眺めようとする視点をもちながら、自分が真に面白いと思うテーマをプライドを持って死にものぐるいで研究する
のが物理(という名前じゃなくても別によいが)を素晴らしいものにしていく唯一の道だということ。 現状はそうはなっていないと思うからそれじゃ困るぞ、ということは言えるけど、それではちっとも建設的じゃないよね。
「還元論」対「非還元論」みたいな「枠組み」についてのくだらない議論をするんじゃなく、ミクロ、マクロ、あるいはそれ以外の何か、と視点を自在に切り替えることのできるものの見方ができるようになろう。
みたいなことを言うのが正しいのかな?

ま、こんなことを悩んで研究の時間をつぶすのは本末転倒なので、特別に何も考えずに出席してみて、言えるだけのことを言ってくることにします。


ふうむ。 任天堂の占いが、佐々さんの人生(半生か)をみごとに言い当てていた(「日々の研究」1/14)とは。 今朝のテレビの占いでは、ぼくの星座は最悪。 お金の貸し借りのトラブルで友人を失うらしい。 座談会に行ってお金を落とし、帰りの電車賃を佐々さん(←座談会メンバー)に借りて、それがこじれて仲が悪くなるのであろうか?
1/16/2001(火)

昨日は、卒業研究の研究室の一回目の志望集計の締め切りだったんですね。 (「の」が連続する悪文?「あしびきのやまどりのおのしだりおの」) さてどうなることか? 気にしないふりをしていても、もちろん気になります。


さて、昨晩は、パリティの座談会(1/15 参照)に行って来ました。

部屋を出る寸前まで論文を書いたり砂山の静力学の仕上げをしたりしていたために、つい、送ってもらった丸善の位置をしるした地図を持つのを忘れてしまった。 目白駅で気付いたけど、もはや引き返す時間はない。 一応地図を事前に見て東京駅の八重洲口の向かい側だということは知っていたし、まあ、人に日本語で尋ねればよいのだから、行き着けないということはなかろう。 とはいえ、いざ降り立ってみると、東京駅はだだっ広いし、外は寒いし、交番はないし、知ってる人はいないし、歩いているのはみんなビジネスマン風のおじさんで何処で飲むかとかを大声で相談してるし、しばし歩いてようやく付近の地図をみつけるまでは相当に心細い思いをしたのでした。 (結局、ぼくは指定の時刻より5分くらい遅刻。 「ナントカ長」をしていて忙しい人がもっと遅刻してきた以外は、全員がすでにそろって食事もほとんど終えていたのには驚いた。)

肝心の座談会ですが、仕方のないことなのでしょうが、かなりまとまりの欠けるものになりました。 時間が足りないことは予想していたけれど、それ以上に足りず、突っ込んだ話は何もできなかった。 まして、学問的な話はまったくできなかったと言っていいでしょう。 真面目な意味で、本当に言いたいこと・聞きたいことのある話題(たとえば、ボーズ・アインシュタイン凝縮、くりこみ群、生物、時空の次元などなど)については、ぼくが話し出すと絶対に長くなるので、すべて我慢してきました。 (ただ、今にして思うと、ぼくが「くりこみ」というキーワードを一言も口にしなかったのは、ちょっとまずかったような気もする。)

ぼくはというと、要するに、根からしてよく話す奴なので、しゃべりすぎるのは止めようと思っていたものの、やっぱりよくしゃべっていました。 後半には、生物の話を(ほーーーんのちょっとだけ)したので佐々さんが、あと、編集委員として何とか話をまとめようとして磯さんが、頻繁に発言されて、ぼくはなるべく黙るようにしていましたが、けっきょく、全体を振り返るとぼくが一番しゃべっていたかな? もちろん、それだけ、削除される部分も多いっていうことになるわけです。

せっかく出席して話を聞いていて、何でも「へいへい、ごもっとも、素晴らしい」とやっているだけではつまらないので、あえて

今のお話は、それだけ聞いていると、とても面白くて、パリティ的にも「おいしい」と思うんですが、実際の仕事のことをよく考えてみると、少し違うんじゃないでしょうか? 要するに、×××といった話で異なったレベルが結びつくというのは、所詮は、・・・
などとからんだりしましたし(「パリティ的にも『おいしい』」なんて言い回しは、それだけでも、絶対に没かもね)、さらには、語気を強めて、
今のお話は、ぜんぜんわからないし、おもしろくないですね。 どこかの人の言葉を延々と引用して、色々と言っているけれど、けっきょく、あなた自身がそのことをどう思っているか何一つ言ってないじゃないですか!
なんてのもやって来ましたよ。 だって、本当にぐでぐでしゃべってる癖に中身がちっともないんだもん。 絶対に結論を出さず、後からどうとでも言い逃れができるしゃべり方(わかるでしょう?で、あとから「いや、ぼくの言いたかったのもそういうことなんです」)の典型でしたね、この××さんは。 (←面白くてちゃんとした事もおっしゃってましたけれど。念のため。) まあ、出版される座談会を読んでも、こういう空気は伝わらないでしょうね。

座談会が終わった後は、そのまま丸善の机と紙とペンをお借りして、佐々さんと粉体の静力学を素早く議論。 心配した金銭のトラブルも友情を失うこともなく、道に迷わず帰宅。 ほとんど電車に乗らず、外の人と会うことのないぼくにとっては、大遠征でした。 実は、(座談会で何らかのフラストレーションがたまり)精神的ダメージを受けて帰ってくることになるのではないかと秘かに心配していたのですが、それは幸い杞憂であった。


昼食を外で食べ、帰り道に散歩をしながら砂山について。 静力学の解の分類を利用して、応力分布の履歴依存性を理解できるか?

待てよ。 底の粒子の境界条件を真面目に扱うとどうなる? つり合いの条件はこうで、自由度はこう。 (←高田馬場の交差点あたり) お。 下から積んでいくと思うと、何かがでそうだ。 ぶつぶつ。

あ、しかし重ね合わせの物理的な意味って何だ? ええと。ええと。 ああ。まだ何にもわかっていない。 (←学習院の裏の馬場の横の門から入って木漏れ日の中、石の階段を昇りつつ。 ちょっと寒いけれど、きれいな日。 散歩日和です(が、これから会議)。)


1/17/2001(水)

わあ、たいへん。 まだ来年度の時間割の校正と試験問題の作成があったぞ。

というわけで、たまには短いのである。 (人の日記をみると、つくづくぼくのは長いなと思う。 別に仕事してないわけじゃないのだが。)


1/18/2001(木)

ふう。なんとかなりそうである。(詳しくは書かない。)


ところで、前に(1/1)人間が宇宙服なしに宇宙空間で生き延びられるかという疑問についてちらっと書いたが、前に黒木掲示板で教わったのは、Human Body in a Vaccum というページ。 (vacuum の前に a がつくんだなあ。よくわかんない。) 信頼してよいようです。

結論から言うと、息を止めようとしなければ、30 秒くらい高真空にさらされても致命傷は負わないそうです。 なんと、1965 年に NASA の職員が宇宙服のテスト中に空気漏れの事故にあったということも書いてあります。 14 秒後に意識を失う寸前には、舌で唾液が沸騰し始めるのがわかったというから、面白い、というか、とてもとてもこわい。 もちろんすぐに空気が入れられ、この人は無事だったそうです。


1/19/2001(金)

催促されている雑用たちは、あと一息。 催促が来ず、忘れたことにしているものたちが復活してきたら・・・という一抹の不安はないわけではないが、忘れる。


昨晩は、試験問題をつくるために計算した紙の裏に円盤のピラミッドを描いて、砂山の静力学を超地道なところから。

今のところ、(最下層の円盤は床に固定されているという境界条件で)静力学の解をすべて列挙することができている。 これは、佐々さんの話にでてきた物理パズルを解いたというだけで、物理の進展というわけではない。 この解を利用して、砂山の物理がどこまでわかるか、というのがポイントで、話は始まったばかり。 佐々さんには、砂の流れが止まって固まるところについてのある種の直感があるようだが、ぼくには、ない。

何も分からないから、じっくりと、円盤二つの上にもう一つをそっとのせると何がおこるかな、というあたりから。 古典力学演習。 ふむふむ。 なんとなく、砂粒たちの「声」が聞こえそうな気がしてきた。 よい徴候だよね。 (人に教わったパズルで遊んでるだけにしても)やっぱり具体的な問題というのは楽しいなあ。

で、もっとも地道な知見としては、

最下層を床に糊付けし、そこに、(ピンセットか何かで)そおっと静かに砂粒を一つずつ置きながら、ピラミッド状に積み上げた場合には、底辺での圧力は、中央で最小値をとり、両端に行くほど大きくなる
ことがわかったように思う。 (自己診断による信頼度 70 パーセント。) どなたか、根気のある方、実験してください。 (←冗談です。念のため。これは、理論的な極限状況。) さらに(こっちは不確かだけれど)、多少ぎゅっと押されると、中央の圧力が高くなる傾向も一応は見える気がする。

夜、布団に入ってから、三次元バージョンについて考察。 ある種の描像は保存されそうな気もするが、二次元では極度に簡単化されすぎていることが多すぎる。 (たとえば、水平と60度の角をなす線というのは、二次元では二種類しかないけれど、3次元では無数にある、など。) ランダムに積んだ場合の扱いや、全体の形状と内部の力の兼ね合いも考慮する必要があるかもしれない。 安息角って、どうやって決まるんだっけ?

当たり前でないことがいっぱいありそうで、かなり難しそう。 でも、面白そう。 おら、わくわくしてきたぞ(←軽く酔っていた)

というわけで、今さらながら、

粉体もけっこう面白そうじゃん
などと言ってしまおう。
1/21/2001(日)

東京では、昨日の夕方から真夜中にかけて降雪。 今日の日中は晴れていたものの、まだ色々なところに雪が残っている。

さて、軽く雪が降ると思い出すのが、大学院生の頃の冬のできごと。 その日は休日で、夕方の食事時に研究室にいたのは、ぼくともう一人、少し先輩の K さんだけだった。 (これはちょっと不思議。 当時は、休日だろうが深夜だろうが、多くの院生が研究室にいたものである。)

ぼくたちは、いつもどおり大学の門のそばの食堂に夕食をとりにでかけることになり、暗くなった大学の構内を二人で歩いていった。 その日の東京は軽い雪で、ぼくらがでかけたときにもパラパラと粉雪が降っていたような気がする。 地面にはごく薄く雪が積もっていたけれど、歩いていて滑るほどの積雪でもなく、ぼくらは普通に歩いて大きな講堂の裏あたりにさしかかった。 講堂の表に抜ける階段に向かって、ぼくが何かを話しながら運命の一歩を踏み出したとき、突如、足下の地面が消失し、ぼくはしばし宙に浮いて、無重量状態を味わった。 そして、次の瞬間、尾てい骨に激痛。

全身に寒気が走り、声もでなくなるほどの痛みであった。

ぼくが足を滑らせて腰を強打したのは、下水の蓋な何かなのか、1メートル四方ほどのつるつるの鉄板の上であった。 あたり一面薄い雪に覆われていたために、まわりの舗装された地面とまったく区別がつかなったのだ。 融けかけた雪のかぶった鉄板ほど滑りやすいものは、そうはあるまい。 ぼくは何を考える暇もなく、ごく自然にスムーズに足を滑らせたのである。 そして、腰の高さに相当するぼくの体重の位置エネルギーのすべてを、尾てい骨と堅い鉄板との非弾性衝突に吸収させたのだった。

「おい、大丈夫か?死ぬな。」 と K さんに呼びかけられても、しばらくは答えることもできなかった。 ようやく起きあがって、無口なまま、這うようにして正門のそばの食堂に行ったものの、一種のショック状態になっていて、食事もほとんどできなかった。 何日かしても痛みがひかないので病院で見てもらったところ、特に治療の必要があるほどの怪我ではなかったが、尾てい骨にヒビが入っていることがわかった。 やれやれ。 (←それでもスキーに行ったけど。)

「なるほど、田崎は、そのとき K さんがわざと自分を滑りやすい鉄板の上に誘導して転ばせたのだと邪推し、K さんを逆恨みしたのであろう。 田崎が複×系を執拗に批判するのは、その事実無根の怨恨のためであったか」 などという話にはなりません。 (K さんは、金子さんだけど。)


さて、話は変わって、大野さんの定常状態熱力学。

最初に見たときは何一つわからなかったけれど、普通の熱力学を勉強し、また、佐々さんらのミクロからのアプローチを傍目に見て、少しずつその姿が見えてきたように思う。 ううむ。 長期的に、本気で取り組むべきなのかも。


1/23/2001(火)

前口上:まったく時期を逸しているし、たとえタイミングがあっていてもこりゃダメだと思うのだが、それでも、ついつい書いてしまう心弱い私であるのでどうか見なかったことにしてください。

「モーニング娘。」の「ハッピーサマーウェディング」を聞いて;

娘(中澤):(前略)背は低い方だけど、やさしい人。
      お父さんといっしょで、ぶつりが趣味なの。

父親:   「物理が好きなひとに悪い人はいない」などと言った覚えはないぞっ!!!

失礼いたしました〜。 (これを枕に、物理学者の倫理感について真面目な議論を展開すればよかったかもしれないが、ちょっとそれをやるエネルギーもないし。)


1/24/2001(水)

定常状態熱力学について真剣に考え始めるには、やはり原点である

Y.Oono and M.Paniconi, Steady State Thermodynamics, Prog.Theor.Phys.Suppl,130,29(1998)
を読まねばならぬ。

この論文なら、大野さんに最初にもらった preprint、後でもらった(気がする)reprint、そして、京都に行ったときに買った雑誌そのもの、と少なくとも三通りのものがぼくの部屋のなかに存在するはず。 しかし、ほしいものはみつからないという誰とかの原理(?)なのか、前から探していたのだが、どうしても(ひとつも)でてこなかった。 まだ機は熟していないという菅原道真(1/1)のお告げであろうか?

それが、昨日の夜、大学をでる寸前に探していたら、論文の山が山崩れした後から progress Supplement の超地味な表紙が顔を出したのだ。 いよいよ読むときが来たというお告げであろう。 昔読んだときには本当にまったく理解できなかったのだが、お告げもあったことだし、なんとかなりそうな予感。

夜中に読み始める。 イントロを読んだ辺りで、この前、大野さん・佐々さんと議論したときに聞きかじったことや Hatano-Sasa 論文から学んだことなどが、頭のなかにどっとあふれ出してきた。 そして、普通の熱力学がわからなくて、自分流に再構成した(それで本も書いた)ことを体が自然に思い出して、定常状態熱力学を自分流に作り直すための方針が見えた気がした。 つまり、(意味不明ですので、読み飛ばしてください→)平衡系の自由エネルギーを参照し、あくまで、最大余剰仕事だけを使って非平衡自由エネルギーを定義する。 これによって、断熱概念の拡張なしで話が完結する。 ずりや電流の問題に限れば、ほしい変分原理やつりあいの条件式が拡張された最小仕事の原理から導かれる。 ふむふむ。(←けっこうあやしいところは多い。)

要するに、ぼくの熱力学の教科書にパラレルな路線で定常状態熱力学を作っていこう、というプランである。

問題は、

そして でありまして、そのためには、もとの定常状態熱力学をちゃんと理解せねば。

おっと、まだイントロしか読んでいなかったのだ。 これから読みます。


というようなことを思ったり(こんなことや、より技術的なことを)メールに書いたりしていたら、既に佐々さん(日々の研究 1/24)がご自分の本とパラレルに定常状態熱力学を整理すると宣言しているではないか。
おお、これぞシンクロニシティ!
のわけはなくて、ぼくが佐々さんや大野さんにつよく影響を受けているだけの話。 しかし、(自分で思うに)なかなかよい影響の受け方ではある。
熱力学の講義をとっている K 君と?君(←ごめん名前覚えてない。よく質問に来るので顔はばっちり覚えてるぞ)が質問に。

K 君は、Carnot の定理で、吸熱量の比 Q'/Q が T'/T になるとするところの論理にひっかかるという。 Q'/Q が物質や参照点の取り方に依存せずに普遍的だというのは納得する、しかし、それが T'/T に等しいというときに理想気体を持ちだしているのだから、こちらの方は理想気体が存在しないような温度領域では破綻するのではないか、という主旨。

実にごもっとも。 ぼくは理想気体の存在を仮定しているから、ここに、論理的な破綻はないが、物理としての気持ち悪さはたしかにある。 実は、この部分では、「吸熱量の比 Q'/Q が普遍的である」という熱力学の本質ともいえる美しい命題と、「ある温度目盛を用いれば、それは T'/T になる」というある意味で自明な命題が続けて登場しているのだ。 しかも、ぼくは、その後半の命題を示すのに、理想気体という「おもちゃ」を利用するというもっとも安易な路線を選んでいる。

ぼくも、本をかくときには、考えに考えた末、あえて「経験温度から出発して後から絶対温度を導入する」という従来の教科書の書き方を採用しなかったのだ。 温度を再定義するというのは、かなり理論家の趣味的なことで、ほとんどの読者は気にしないだろうと思ったし(たとえば、古典力学で、まず一般座標を定義し、それから慣性の法則が成立するような座標系に変換する、なんてことは誰もやらない。熱力学については、教科書を書く際に、理論部分の取捨選択がほとんどおこなわれていないのだ。)、使いもしない経験温度をわざわざ用いてから破棄するのは、なんとなく、「くさい芝居」みたいな気もしたのだ。

しかし、気にする人はいたのだった。 K 君は、見るところ、ぼくの書いたものとぼくの講義以外の熱力学は学んでいないようだったから、他の教科書と比較して質問に来たというのではない。 純粋に、ぼくの熱力学に接しながら、理想気体の過剰な使い方に違和感を感じたということなのだ。

というわけで、質問に来たお二人に、教科書には書かなかった経験温度とカルノー関数を用いて絶対温度を定義する方法を教えてあげた。 なるほど、という感じで納得していた。

K 君のように、ある意味で本能的に、理想気体を安易に用いて論理を作っていくことに違和感を感じ、それ抜きの論理に接すると安心するという人がいるというのは、熱力学の初等教育の方法を考える上で大切なことだと思う。 ここまで書けばおわかりだろうが、K 君というのは、もちろん Kelvin 君である。 (←うそ。この部分以外は真実。)


高麗さんに電場中の荷電粒子の量子力学について教わる。 量子力学において定常状態を記述するおもちゃを作る可能性について議論。 できないことはないと思う。 ただし、あまりに単純なおもちゃにし過ぎて、何も学べないのでは困る。
1/25/2001(木)

今日は、時間を追って、書き足していく「時記」になっている。


午前中:熱の概念を用いない定常状態熱力学の定式化(1/24)は、できそうに見える(実は、Hatano-Sasa も本質的にはそういう路線らしい。理解が浅いのでよく見えない)が、きわめてしっくり来ないところがある。 それは、元をただすと、そもそも大野さんらの定常状態熱力学がわかっていないことに帰着するのだ。 疑問点を整理して質問しよう。
昼休み:昼は、妻が出かけてしまったので、ラーメン屋に行列。 つい出来心でいつもとは違う神田川沿いの店。 量が多いんだよなあ、ここは。 寒くて寒くて足が冷えるが、行列する間、(お腹を減らすべく?)Hatano-Sasa と Oono-Paniconi を読み、自分の疑問点を検討。

いよいよ、わからなくなってきた。 というより、すべてわからなくなって、絶望的な気分にさえなる。 結局、Hatano-Sasa も、最初に読んだとき(10/31/2000、ひゃあ、こんなに前だ)にひっかかった Q_{hk} の定義がどうしても納得できない。 これでは、操作的とはいえないという気がするんだがなあ。 (←誤解だったらごめん。はたのさん、佐々さん。)


午後: お仕事でずっと拘束。 ちょっと頭のなかで内職するわけにもいかない。
夕方: ふう。

疑問点の要点を整理して、大野さんと佐々さんへ。

高麗さんが提起した、金属強磁性体に電流を流したとき Curie 温度がどのようにシフトするかという問題についてもメールが飛び交っている。 追いつかねば。

定常状態熱力学についての自分の考えの整理をしつつも、学会の予稿を書かねば。 学会で話すのなんて、ほんと何年ぶりだろう? (←まるでじじいっぽいなあ。 単に、数年前に方針を変えて学会発表をしなくなったというだけなのだが。(やっぱり、じじいっぽいか?)) 予稿の書き方も変わってしまった。浦島太郎である。


1/26/2001(金)

定常状態熱力学 (stationary state thermodynamics = SST) がブーム??

そんなこと言われると、おいらのようなひねくれ者はやりたくなくなっちゃうぞ。 (といっても、椎名林檎はいくら流行っても好きです。)


閑話休題。

ずりのある流体と固体の平衡についての佐々さんの結果の導出法にいくつかの不満があるので、技術的改良をしつつそれをもって SST を深く考えるきっかけとしよう、というわけで、昨夜考えるものの、眠くてやめて寝ることにしたが、寝床に入ってからどうやればいいのか全て見えたので、今朝は、一時限目の試験を監督しながら、詳細を書いていくと、流体・固体の場合は、佐々さんの結果と同じものがでることを確認したので、これでハッピーかというとさにあらず、ぼくはこの「流体側にずり速度があると、融点が上昇する」という結論は、平衡熱力学に整合しないという理由で、受け入れがたいと考えているのだから、真面目にやり直してもその結果がでてしまうというのは大いに困ったことなのだ。(はあはあ(←息切れしている))

今日は、いつもの×××ラーメンに行列しつつ、考えられることを片っ端からすべて考えていく。 結論としては、

もはや、なにひとつわからなくなった・・・
なんかくだらない勘違いなのか、ぼくの理解が浅いのか、SST の自由エネルギーの性質が期待しているものと違うのか、SST の変分原理が期待しているようには成立しないのか、それとも? ともかく、刹那的に考えうることは考えつくしたので、当座は何も考えられない状態になってしまった。

(今は)あきらめて、試験の採点をする。


1/27/2001(土)

昨日の夕方。 自動車の中で家族を待つ。 カーステレオで(流行っても好きな)椎名林檎を聞きつつ、ついつい SST での融点の変化の考察。 (←ブームになっても(?)やめられない。) ええと、SST の変分原理があるんだから、化学ポテンシャルのつり合いがあって、あとはずり速度も示量的にあつかえるはずで、Euler の関係は・・・。あれ?

つづきを深夜に考える。日付は今日。 やっぱり、液体にずり速度があると、凝固点は下がるみたいだぞ。 前の結論とは正反対だ。 (自由エネルギーの差の評価を間違えていた。 新しいのが正しいと今は確信。) それなら、気持ちの悪さもない、というより、平衡での溶液の凝固点降下と同じではないか。 いや、形式レベルでは完璧に同じ。

ふう。 これで、少なくとも、SST を完全に投げ出す心配はなくなったぞ。 本質的なところに理解しきれないもやもやがあることに変わりはないのだが、たった一つの思考実験が気持ちよく理解できるか否かというのは、(少なくとも、ぼくにとっては)猛烈に大きなことのようだ。 (←こういう態度は、正しいと思っているけど、そういう話はまた今度。)

信仰の危機(?)をひとまず脱したところで、深夜だが、佐々さんと大野さんにメールだ。電話とちがって、迷惑じゃないし。


目覚めれば、東京は大雪および突風のもの凄い一日。

昨夜の結果をやり直してノートにまとめたいが、どうも、ごたごたしていて、時間がとれない。

夕方から、妻といっしょに少し雪かき。 アパートの前の道路に、細い道をつけながら進む。 ときどき振り返ると、自分が進んできたところだけ細くまっすぐにアスファルトが露出していて、気持ちがよい。 いい運動である。

単調作業をしつつ考えた会話;

誰か:あ、どうも。田崎さんが雪かきするなんて。
田崎:こういう労働は得意じゃないです。 でも、新しい道をつけるのは好きなんです。
おお。かっちょいい!

とはいえ、もちろん、こんな会話が日本の国で現実に成立しようもない。

しかも、よく考えると、これは、朝一番にご近所の○○さんがつけた道で、その後雪が降って埋もれてくるたびに、××さんだの、□□さんだのが、作り直した道なのだった。 がーん。 ぼくは単に先人の後を追っているだけだった。 ちっとも「新しい道」ではなかったのだっ。

というわけで、意地でさらに進み、馬場の横からテニスコートの横までの坂に、今度こそオリジナルな道を作ってきたのだ。 はあ。はあ。

その後の雪で、この細い道はどうなったかな?


さて、夜も更けて、雪は一段落したらしい。 明日の朝の凍結が心配。

ずりのある系の相平衡のノートを仕上げてしまおう。 そして、SST の最小(余剰)仕事の原理について、もう一度考えてみよう。

待てよ。 これって、しょせん、大野さんが数年前につけた道を、その後、佐々さんが、開拓し・・ (つづく)


1/28/2001(日)

個人的な用もあり、忙しい一日。

子供が早く外出するというので、朝っぱらから雪+氷かき。 きのう作った坂をのぼる道を根性で復活させる。 ずり速度は凝固点を上げこそすれ下げないと納得した(SST を完全に認めればその結論がでることは佐々さんとも意見が一致)ので、融けかけの雪をシャベルでかき回して凝固点を上昇させ凍らせてしまう心配もなくなり、心おきなく作業ができる。(←冗談です。念のため。)

日中はずっと外出し、夕方に戻ってくると、ぼくが奮闘した坂の雪はすべて融けており、雪の多かったアパートの前の道もきれいに雪かきされている。 道ばたには、いくつかの雪だるまの他に、「かまくら」風のものもある。 妻と子供らに聞いたところでは、これは平野親子の合作らしい。 パパが一生懸命雪かきして集めた山に、ちびちゃんがせっせと穴をあけていたという。 お疲れさまでした。


1/29/2001(月)

夕方、高麗さんと SST 関連の話題について議論。

高麗さんに SST を要約・解説するという無謀な無免許なことをしたおかげで、少しずつ「気分」がわかってきた。 中核となるところの難しさは、やはり本質的に難しいのであって、大野さんらの仮定が正しいかどうかは、

という二つの方向の研究で確かめるしかないだろう、という凡庸だが、建設的な結論に落ち着く。 後者の路線については、既に Hatano-Sasa などの仕事があるわけだが、Langevin equation を越えて、まっとうな熱浴のついた系で何かができればうれしい。 特に、量子系の(非平衡の意味での)定常状態というのが、「どう見える」ものなのかとても興味あり。

SST の持ちうる意義等については、また改めて議論すべきでしょうね。 (そういうものを全く書かずに、唐突に話題にしていたのに気づいた。)


ところで、ぼくの日記をつづけて読まれて、
こいつは、いったい何を研究してるんだ?
といぶかっている方もいらっしゃるかもしれませんね。 第二法則の導出がどうのこうのと言っていたと思うと、跳ね返り係数の話をしてノートも公開しているものの論文を書くとは言わず、とつじょ砂山の話がでてきて、今度は SST。 ほとんど、でたらめに、周りの人がやっていることを拾い食いして、すぐに投げ捨てているかのようではなかろうか?

今日は、(高麗さんのおすすめもあり)この点に答えておこう。

まず、言っておきますが、前(12/1)にも書いたように、今のぼくはある意味で研究の過渡期にいて、自分の視野を広げ、次の目標に向けた体制を整えようと模索しています。 そのために、いろいろのことに興味をもって手を動かしてみているというのは確かです。 それに、ぼくがちょっかいを出してみている問題のほとんどは、

ミクロとマクロの両方からの視点をもってマクロ系の性質を理解したい
というぼくの(当面の)大目標に、間接・直接に影響するものばかりという見方もできます。 なんとか、これらの断片(の一部)を統合していって、より大きな世界を描きだしたいと思っているのは事実です。

とはいうものの、誤解があってはいけないのであえて言っておきますが、一般に、

研究者というのは、いつでも自分の論文に直結するようなことだけに頭を使っているわけではない
のです。 自分の仕事に直結しないことでも、やはり耳学問や解説のレベルを越えて理解したいともう事は当然あります。 (そういうのがなければ、科学の状況は悲惨になってしまう。 共同研究者どうしでしか理解しあわず、人の話を知ろうともしないでバラバラにやるようになったら科学は壊死をおこす。 (実は、物理の中にもそうなりかかっている分野もあるみたい。)) そんなときは、やはり、自分なりに疑問を持って手を動かしてみるのが最良なのです。 だから、ぼくは(そして、おそらく、ほとんどのプロの研究者は)、論文にする気があるかないかとは無関係に、面白そうな問題については、自分なりに(ときには相当に本価格的に)学び、考えてみています。 これは、昔からやっていることで、論文リストだけを見ても、ぼくの研究活動のそういった部分はまったく読みとることはできません。 (挑戦したけれど、何ひとつできなかった難しすぎるテーマたちについての考察も同様。) この「雑感」を書くようになってからは、それらの一部の、比較的説明しやすいものなどについて、「垂れ流し的」に実況中継してみているわけです。

ちょっと説明っぽくなりすぎたかもしれない。 簡潔な言い方が好きな人は、要するに、

目の前に面白そうなことがあると、ついつい考えてしまう
という答えだと思ってくださってもいいです。
1/30/2001(火)

なにかと話題の椎名林檎であるが、その楽曲・歌唱の秀逸さ・独自性、発言・行動の意外性などとともに目を引くのは、独自の言葉のセンスであり、特に、

虐待グリコゲン 血豆カレンダー 発育ステータス 練乳グラフィックス 無罪モラトリアム
など、漢字二文字+カタカナの取り合わせが醸し出す絶妙の語感にはきわめて独特のものがある(と、ぼくのようなファンは思ふ)。 (林檎ファンクイズ:上の五つの中で、ぼくが今つくった偽者(一つだけだよ!)はどれか?)

しかも、これらエキゾチックな日本語の用法には、不思議と理科系っぽい雰囲気がそこはかとなく漂うではないか。 実際、科学用語では、カタカナ語をそのまま用いることが多い。 ぼくらにとって身近な物理用語だけを探してみても、

静電ポテンシャル 運動エネルギー 電解コンデンサー 臨界コンダクタンス
など枚挙にいとまがない。 特に、最後のなど妙に林檎っぽい。 (待てよ、こんな用語あったかな?)

おお、林檎語感の原点は自然科学にあり!昨今の理科離れをくい止めるためにも、林檎は大きな力になるにちがいない!!

と、結論を下しそうになる私であったが、しばし落ち着いて考えれば、大陸の言葉の輸入は古の時代よりの、西洋語の活発な輸入は明治よりの伝統。 これらの組合せも、日本語の中にはあふれていて、

鉄筋コンクリート 少年サンデー 伊丹センター 幸田シャーミン
などなど、やはり枚挙にいとまがなさすぎるくらいなのであり、一方的な例の列挙だけにもとづいた性急な結論を受け入れてはならないという教訓が得られた。おわり。

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
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