日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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3/1/2001(木)

少し調べたいことがあって、

Thomas M. Cover and Joy A. Thomas
Elements of Information Theory
Wiley series in telecommunications, 1991
を本棚から出してきて、少し眺める。 これは、前に長岡さん10/16/2000 参照)に推薦してもらった情報理論の教科書。 なかなか、ノリのいい本で、楽しく読めそう。

そして、ほぼ日課になっている黒木掲示板のチェック。 なんと第二掲示板に、長岡さんの書き込みがあった。 情報理論を単独で(しかも実質的にたった一つの論文で)作り上げてしまった Shannon が亡くなったそうだ。

ううむ。 またしてもシンクロニシティ共時性=意味のある偶然の一致)。 今日は、情報理論を勉強せよという八百万の神々やマニトウやらのお告げかもしれぬ。 (少し、した。おもろい。)

付録:ぼくの経験した共時性の別の例
あるとき、ぼくは、既に2,3年間は会ったこともメールをやりとりしたこともなかった K さんに連絡をとりたくなり、彼のメールアドレスを調べて、連絡した。 すると、K さんの方でも、ほんの少し前にぼくの書いた論文をプレプリントサーバーからもってきて(K さんのご専門は、素粒子論だから、これは珍しいことなのだ)その内容についてぼくに質問したいと思い、ぼくのメールアドレスを調べようとしていたところだというのだ。 しかも、K さんが読んだ論文のテーマは強磁性の起源。 これぞ、本当のきょうじせいといえよう。 (すみません。)


しょえー。

アクセス数が非常に多いと聞く森山さんの日記 (01.02.25) から、ぼくのホームページ(←ぼくが「ホームページ」というときは、ぼくの web page 群の階層の一番上のページを意味する)と「雑感」にリンクしていただいたことを知った。 なんと光栄な。

ただ、

リンクしていただいた「雑感」は、あの、わかる人にしかわからず、ごく一部のマニア(ジャンケンぴょんが頭の中で鳴りっぱなしになるという病魔におかせれ、徹夜で大学に泊まり込んで計算しながらも、恍惚とした表情を浮かべて苦しみ悶えていたといわれる M 君とか)だけに受けていた時期遅れの「モーニング娘。」ねた(1/23)だったのだ。 こりでは、わしの印象が・・・

ま、いいか。

(しかし、ぼくのは、元の台詞の「つり」を「ぶつり」に変えただけで、それなりにシャレになっているわけで、「プロレス」はちょっと強引かなと思ったりしないわけでもなく・・ぶつぶつ・・)


3/2/2001(金)

昨日は、「わしの印象が・・」などと気楽なことを書いてしまったが、「一部のマニア」扱いされた M 君の印象はどうなる?

この文脈からすれば、M 君は「モーニング娘。」マニアであり、

三日間くらいずっと計算してたのが、出発点に間違いがあって、全部ダメだってわかった瞬間、ご×うまきがぼくをあざ笑う声が聞こえたんだ〜
とか
大学に泊まり込みでずっと計算し続けていたら、朦朧としてきて、朝方、い×かわりかの微笑む顔がくっきりと見えたと思ったら意識がなくなって爆睡して風邪ひいちゃった。はっくしょん
とか言っている人なのだろうと推測された読者も少なくないであろう。 実は、
まさにその通りなのです
といいたいところですが、それは、嘘で、ぼくは M 君が「モーニング娘。」マニアなのかどうかは全く知りません。 彼が「ジャンケンぴょんが頭のなかで鳴りっぱなしになってしまった」と訴えていたのは事実ですが、それ以外の情報はもっておりません。 一部の M 君にご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。 (でも、もしかしたら・・)
と、馬鹿な話はともかく、M 君は、前にぼくのところで卒業研究をやった学生さんです。 きわめて明るく元気な学生さんで、かつ、卒業研究にも実に熱心に取り組んでくれた。

ぼくが、卒業研究の一つの理想とするのは、

  1. 自分の足で旅をする練習: 基礎的だが重要な問題とヒントだけを与え、思考錯誤しながら、自分でいろいろと(再)発見してもらう。
  2. 困難だがコースのわかっている探検: それに関連した、かなり難しい論文を、すべての式を導出しながら何ヶ月もかけて読みとおす。
  3. 小規模でぼくの目の届く範囲でではあるが、未知の土地を行く本当の探検: それらの知識と経験を土台に、決して猛烈に新しくなくてよいから、どこにも書かれていないし、ぼくも(おそらくは誰も)まだやったことのない問題を自力で解く。
というプロセスを一年間でこなし、プロの研究の縮小版を体験するというものです。 もちろん、これが成功するかどうかは、学生さんの力量や根性、こちらの問題の設定の善し悪しなど様々な要素によります。

M 君は、このプランがばっちり成功した学生さんの一人です。 「モー娘。」が頭のなかで鳴ってたのかどうかは知らないけれど、本当に不眠不休で計算して(←ぼくが「計算する」というときは、もちろん紙と鉛筆と頭脳での作業を指します)たしね。

ぼくは、昔からどちらかというと過去の思い出とかにはこだわらない冷淡な人間なのですが、やっぱり、卒業研究をいっしょにやった学生さんたちのことは、とてもよく覚えていて何かの拍子にふと思い出して懐かしがったりしてしまいます。 (じじいかな?) みんなが残していってくれた卒業論文は、ぼくの宝物です。 これも。これも。 ほら、この M 君の卒論も・・・ あれ?ないぞ・・・ あっ。 出してねえな。 (いや、別にいいんだけど。)

M 君が大学院で取り組みつつある問題は、もっとずっと本格的なもののはず。 風邪ひかないように、がんばってくれ。


3/3/2001(土)

けっこう密度高く仕事をしています。 基本的には次のステップに向けた整理ばかりだけれど。

タイトル付きリスト」の更新をずっとさぼっていましたが、先日、まとめて1,2月の分を書きました。 (あと「リンクのはり方」を微妙に書き換え。 杞憂であることを祈りましょう。) この「タイトル付きリスト」も最初は短かったのに、だんだん長くなってきて読みづらくなってきてしまった。 フォーマットを変えるなどの工夫がいるかもしれない。

しかし、こうして見返すと、去年の5月から随分とたくさんの駄文を書いたものだと思う。 テキストファイルの容量で比較すると、「雑感」の分量が熱力学の本の分量とほぼ同等になってきたようだ。 本の方はなかなか書けず、「雑感」だけが増殖していくだろうから、ほどなく、ぼくがネットワーク上に公開する文章の量が、活字で発表した文章の量を越えることになるだろう。 電脳社会(←わはは)だよな。

とはいうものの、最近、ある人の web page で知ったことだが、ある試算によれば、

有史前から今までに紙の上に書かれた文章の百倍から五百倍の量の文章が,今,コンピューターの上に乗っている
そうだ。 たしかに、昨今の活字離れ、ネットワーク上の情報の多さを思うと、その通りで、ぼくなんかみたいに活字とネットの発表量が同程度というのは、猛烈に保守的ということになるのかもしれない。 (註:上記「試算」についての記述を、出典を吟味することなく引用することは、これを禁じます。)
3/5/2001(月)

以下の話題は、今までここに書いてきたこととなんとなく雰囲気がちがうので書くかどうか迷ったのだけれど、やっぱり書いておこう。

今夜、「日本物理学会誌」という雑誌が21世紀のはじまりということで開く座談会「物理学の明日(課題)」なるものに出席して、(おそらく)何かを発言してきます。

こういう、ある意味で「目立つ」ところに出るのは趣味ではないはずだったのだけれど、依頼されたのを断って後から他の人のやっている座談会を見てしまうと絶対に悔やむだろうなと思って引き受けてしまった。 しかし、出席すれば出席したで、本当に言いたいことはなかなか言えず、たとえ少し言えたとしても、それが記事に反映される可能性は低く、けっきょく悔やむことになるのかもしれない。

という話は既に聞いたぞ、と思われたかもしれないが、前に書いた(1/15, 1/16)のは、雑誌「パリティ」でして、上の文章も(少しだけ)1/15 のものとはちがうのである。

パリティの座談会は、なるべく自由にしゃべるという主旨だったのに対して、今夜の学会誌の座談会は、それなりに事前の意見表明やテーマの設定がされているので、またちがった雰囲気になると思う。 余裕があったら、またここで報告します。 というわけで、夕方からでかける以上、それまでできる限り仕事をしたいので、短いですが(しかも、前半は昔書いたものの使い回し)、今日はこのへんで。

それにしても、おまえは21世紀がどーしたという座談会にふたつも出席する身のほど知らずの21世紀座談野郎だ、とお思いかもしれません。 たまたま、よくしゃべるマイナー代表ということで両方からお声がかかってしまったのでしょうが、こんなことはもうないでしょう。 22世紀がはじまるときは、おとなしくしていようと思っています。 (←死んでるって)


3/6/2001(火)

ふう。 昨日の座談会は、かなり密度が高く、疲れました。 いくつかのテーマについて、それなりに突っ込んだ話し合いがありました。 もちろん、煮え切らないところ、突っ込みきれないところは、多々ありましたが、まあ座談会なのだからしかたないでしょう。 ともかく、ぼくはパリティの座談会(1/15, 1/16)よりもずっと疲れたのであった。

座談会のタイトルは

物理学の明日
に決定。 昨日座談会があったわけだから、その明日とは今日のことだったわけです。 (←ううむ。昨日、座談会の最後で使ってしまったネタだし、 鮮度悪し。)

さて、少し前の雪の日に転倒したという若き日の思ひ出をつづった雑感(1/21)を読み、そこに書いた冗談を冗談と思わず、

田崎は、その日以来、金子邦彦氏にすさまじい怨恨を抱くようになり、そのために、彼のやることはことごとく嫌悪し、世界的流行となった coupled map lattice (CML) も「邪教」と決めつけ(佐々真一「日々の研究」2/2/2001 参照)、さらには、「複雑系」についてもあることないこと難癖をつけて批判しまくっている
と信じて疑わず昨日の物理学会誌座談会において二人がミッチー・サッチー的バトルを繰り広げるだろうと期待されていたごく一部のみなさん(←いらっしゃるみたいなんだなあ・・)には誠に申し訳ないことですが、昨日の座談会では、ぼくは金子さんの生物へのアプローチについては、理解を示す発言をいっぱいしています。

ぼくも(多くの人と同様)、生物の生物らしさはどこから来るのか、そもそも、生きているっていうのはどういうことなんだろう、といった問題には強い強い興味と憧れをもっています。 そして、××みたいにゲノムを読みあさることが、そういった知的好奇心を満たすのとは正反対の方向に向かっているという認識ももっている。 金子さんが目指している方向にむかって行って、本当に素晴らしい何かが得られるか、人類が生命ついてより深い知見をもつことができるか、はもちろん誰にもわからない。 でも、ともかく行ってみなければ何も始まらないわけで、金子さんのやっていることは、挑戦するに値することだと、ぼくも思う。 それに、個人的には、彼の科学者としてのセンスと運の良さを信じているということもあります。

じゃあ、前に言っていた「複雑系」への批判はどうなったんだというと、別に、あそこに書いたことを一言たりとも撤回する気はないです。 金子さんがどこかで口にして、その後一人歩きしてしまったという標語

複雑なものを複雑なまま理解する
は今でも嫌いだし、金子+池上の本はいただけないという意見にも変化なし。 でも、ぼくは別に誰かに恨みがあって批判しているのではなく、あくまで科学へのアプローチを科学者として批判しているので、金子さんが今やりつつあることについて(細かい疑問や異議はあるかもしれないけれど)端から批判するなんていうことは、ないわけです。 (←当たり前すぎることなんですが、どうも、こういうことを断っておかないと誤解する方がいらっしゃるようなのだわん。)

おまけに、これは昨日おそわったことなんだけれど、ぼくが批判していたような「お気楽数値計算+ゲンダイシソー風大言壮語」の複雑系は、すでに滅びてしまっていたらしい。 批判していた金子+池上の本を含む「複雑系叢書」も、実に、全二巻で完結していたそうだし。 (←汗を書いて笑っている顔文字を付けたい誘惑。 でも、ぼくは顔文字使ったことないし、使わないことに決めたんだ。 なんとなくだけど、古くからのマックユーザーとしては、顔文字って何か PC っぽいという無意味な偏見をもっているのだ。)

ぼくが、web に批判の序章を書き、めんどうになって忘れている間に、あちらは自然消滅していたということらしい。

あ? でも、本当にそうだったとしたら、××氏とかは、なにやってるんだ?


3/9/2001(金)

でーっ。 忙しい!

忙しすぎて、web 日記を書く暇もない。

って、かいとるやんけ! (どっ)

「自己言及」と「どつき漫才」こそ、古来よりの笑いの王道でしょうね。


3/13/2001(火)

なにやら書くべきことがたくさんあるのですが、相変わらず、余裕があまりないのでした。


さて、佐々さん(日々の研究 3/9)が
ついつい遅くまでおきて、(しょうもないことに)、立腹していた
と書いているのを見て、
あの程度のことでご立腹とは、まだまだお若いのお。ふぉっふぉっふぉっ。
と年の功の余裕を見せていたぼくですが、昨夜は、こちらが「まじぶちきれ」てしまって(←年齢不相応な表現があった事をお詫びします)
こんなことでは全面的に降りさせてもらう
といった穏やかでないメールを深夜1時頃に編集者宛に書いたりしていたのだ。 まだまだ若いのお。ふぉっふぉっふぉっ。

ただし、佐々さんは、そのあと「からだがだるくて眠」かったそうだが、こちらは、朝子供が登校したあとでまた寝てしまったので、眠くないぞ。 どうだ、これぞ年の功。


さて、上にも書いたように、この「雑感」に書きたいことがいくつかあるのですが、どうもまとまった時間とエネルギーがとれそうにないです。 とりあえずは、課題意識を持ち続けるべく、ごく手短に、一文ずつにまとめておきましょう。 しかし、ふと思い出すと、岩波講座批判(11/23/2000)も、「足下がぐおおおとなった話(その2)(12/7/2000)」も予告しただけで、全然書いてないねえ。 そういう奴みたいですね。ぼくは。 あ、web だけじゃなくて、Hubbard model の「世紀の大論文」も証明まとめた後、放置中・・・

さあ、仕事、仕事。


3/14/2001(水)

昨日(3/13)の「まじぶちきれ」については、一部の方をやきもきさせましましたが、「全面的に降りた」りはせず、一応穏便にことを進めております。 ご心配をおかけしました。


さて、前(3/6)に、物理学会誌の座談会のことを書いたついでに、ややどさくさに紛れて
××みたいにゲノムを読みあさることが、そういった(=生命の本質とは何かといった)知的好奇心を満たすのとは正反対の方向に向かっているという認識ももっている。
などという不穏なことを口走ったところ、それが一部の方の目に留まったらしきことは前述(3/13)のとおり。

この機会に(って何の機会だろう?)ぼくの「暴言」の背後にある思いを少しばかり書いておきたい。 (昨日(3/13)は、「近い将来の宿題」と書いたが、仕事がひとつ片づいたついでに書いてしまった。 本当は 13 日から 14 日にかけての深夜に書いているのだけど。 (この一週間、深夜の作業には iBook を使っているのだが、このキーボードはなかなか快感。 あと、トラックパッドを「トントン」と指で叩いてダブルクリックするのはとてつもなくおしゃれな感じで癖になりそう。 ただし、指でポインタを動かすのは未だにいやな感じ。))


なんといっても、
やたら流行っているものに一言いっておきたくなる
というくだらない動機はあるだろう。

マスコミだってゲノム、ゲノムで、

ゲノムさえ読めれば、生物の理解は新しい時代に入る
みたいな論調があっちこっちに見られる。 (専門家はそんなこと言わないだろうけど。) おまけに、物理の人のなかにも、「ゲノムが読めるようになり、これからは生物の時代がくる」などと無反省なことをいう人もいて、ちょっといやになってしまうのである。

まあ、くだらいないことですが。


さて、もう少しまじめな話。

まず、ぼくはゲノムを読むことが無意味だとか役に立たないとかいっているのではない。 ゲノムを読めば、(自明のことだが)人類の知識は確実に増えるし、人類にできることも確実に増えるだろう。 (できるからと言って、どこまでやるか、という問題はついて回る。 誰がどう説明して誰がどう判断するか。 みんなで悩みつづけなくてはならない。 (社会と科学の関わりの問題に、専門家などいない・いらない。)) ぼくが言いたいのは、ゲノムを読んだからといって、

生命の本質は何か?
という(未だ問いになりきっていない)問いへの答えへは近づかないだろう、というだけのことである。

この、ありきたりな見解への、これまたよくある反論というか説得は、

ゲノムの解読はゴールではなく一つの出発点を与えるにすぎない。 ゲノム解読で得られた知見と、それ以外の種々の生物学への知識とをあわせることで、生物学はより豊かに発展し、いつの日か、生命の本質にも迫ることができるにちがいない。
ということだろう。 たしかに正論、ごもっとも。 とはいえ、「私が軽率でした。 科学を愛する者、道は違っても究極の目標はみな同じ。 是非ともゲノムをばっちり解読して、生命の本質を目指してください。 応援します。」 などと引き下がりはしないのである。 (いずれにせよ、何兆円とかのお金の動いているらしい巨大科学なんで、ぼくが引き下がろうが、けちをつけようが、座り込みをしようが、何の関係もないのではあるが。)

ぼくは、科学の研究を未知の世界の探検にたとえるのが好きだ。 そして、ぼくらの住んでいる世界が大きなひとつのつながった世界であるように、科学の世界も、大きなひとつながりの世界だろうと思っている。 だから、どのような研究テーマも、究極的には、互いにつながりあっているだろうと思う。 ただし、それは、無尽蔵の知能と探索能力を前提にした理想的な話でしかない。 人類というのは、かなしいかな、ごくごく限られた知能と実験能力をしか持ち合わせていないのだ。 そうなると、たとえ無限の知能の持ち主には遠い目標につながる道であっても、人類にとっては実質的には踏破不可能な道というものもあると考えなくてはならない。

「生命の設計図」を読みとることは、すばらしいことかもしれない。 でも、実は、それをしたからといって、そこから先へ、生命の本質を知る方向にはまったく進めない可能性だってあるのだ。

こんな大問題を比喩で議論するのは情けないけれど(おまけに、おそらくは使い古されていて、ゲノムについて議論したことのある人たちにとっては周知の稚拙な比喩なんでなおさら情けないんだけれど)、ぼくらは、ほとんど(←完全にとは言わない)比喩でしか物事を語れないのだから、さしあたっては、許してもらおう。 (でも、比喩を論証の道具にしてはいけないことに注意。 比喩は、あくまで、説明と想像力喚起の道具。 裏を返せば、比喩を論駁(ろんばく)しても、その議論をうち砕いたことにはならない。 念のため。) 今日の人類がゲノムを読むことは、電気回路のごく初歩の知識さえをもなくしてしまった(悲しい未来の)人々が、突如、高度な集積回路を使ったハイテクの電気製品たちに出会い、その配線図を解読していくようなものではないのだろうか? 配線図は、読めば読むほどに、精緻で細やかで、ハイテク電気機器の神秘とそれを作りあげた者たちの偉大さを物語ってくれる。 そればかりか、経験を積むことで、配線をわずかに変更すると、電気製品の動作にどのような影響がでるかについての知識も蓄積されていく。 地道な努力をつづければ、相当に新しい配線の仕方を開発し、機器の性能を向上させたり、すこし異なった動作をするように改良したりすることもできるかもしれない。 このような、電気製品の解読と再配線の技術は、幾世代もの人々を引きつける大きな動きになるかもしれない。 しかし、このような営みを続ける人たちが、その経験から、集積回路に使われているエレクトロニクスの基本原理を見いだす日がくるだろうか? ぼくは、これは絶望的だと思う。 ハイテク機器は、あまりにも精緻で込み入っている上に、肝心のところはすべて目に見えない半導体チップのなかに埋め込まれてしまっている。 単純な経験の積み重ねだけでは、その本質は見えてきそうにない。 これが、豆電球と電池の回路なら、ゲルマラジオなら、あるいは、真空管アンプなら、もしかしたら、天才的な人々が、その背後にある原理 --- オームの法則とか、コイルとコンデンサーによる発信・共鳴の原理とか --- を見抜いたかもしれない。 でも、最初から、IC を見せられて、ほかのものを見る機会がなければ、やっぱりだめだと思う。 もちろん、電気製品の解読と再配線が、その時代の人々に益をもたらさない、などとは言っていない。 それは重要な技術と知識の宝庫になるだろう。 でも、そこから、人類が電気回路の基本原理を学ぶ日は決して来ないだろうと言っているのだ。

科学の世界には、(まるで、この悲しい未来人たちにとってのハイテク電気機器のような)大小さまざまな「罠」が、潜んでいると思っています。 でも、別に「罠」が必ずしも悪いものだと言っているわけじゃない。 役に立つ有益な「罠」もたくさんあるだろう。 でも、「罠」にはまると、そこから先にはそう簡単には進めなくなるのです。 「罠」が豊かで、役に立ち、様々なものを生み出してくれるなら、なおさら。 (無関係付録(旧友の W など一部の読者を意識した趣味の世界なので無視してください):「待てよ、そういうなら、ひょっとすると、科学そのものが『罠』なのかもしれない?」 「いや、ひょっとして、万が一、われわれの知性と呼ぶものこそが・・」 「いや、ひょっとして、万が一、おそろしいことだが、・・・」)

以上が、ぼくが

ゲノムを読みあさることが、生命の本質とは何かといった知的好奇心を満たすのとは正反対の方向に向かっている
と言ったときに感じていることです。 要するに、ゲノムの解読は、大きな大きな(そして、おそらくは、とても有益な)「罠」なのではないか、ということです。

もちろん、電気回路の例は、論拠でもなんでもないので、おまえはいったいなにを根拠にそんな風に考えるのだ、と問われるでしょう。 まじめな話、深い根拠はありません。 そもそも、ぼくの生物学の知識なんて、物好きな素人以下のレベル。 なんら本格的な判断はできません。 (たとえ知識があったところで、こんなことについての真に的確な判断ができるわけではないですが。(註:ただし、なんらかの研究が社会に害を及ぼすか否かといった問題については、われわれのもてる全ての知識を総動員して、考えなくてはならない。)) だから、このような考えは、趣味の問題から来るといってもよいし、ただの勘に基づいているといってもよい。 でも、科学者としては、そういう偏見(というか信念)をもつのは、たいせつなことだと信じています。

それに、ぼくが個人的に知っている人のなかで、生物について真摯に考えている人たち(老人から同世代の人まで、とはいえ、ぼくが知っているというだけで、偏りまくっているけど)と話をしても、ゲノムについては同様の感じ方をしているようなので、心強く思うということもあるのだった。 (つづく(つもり))


3/16/2001(金)

昨日も今日も、午後から電車にのって議論しに行く。 まったくもって、ぼくらしくないではないか。 大丈夫か? (やや、ダメ。昨日は、帰りの電車の中で議論の続きを考えていたら目白を過ぎて池袋に行った。)

議論の内容は、非平衡定常状態の熱力学、統計力学など。 佐々さんと共著でのずり系の定常状態熱力学の論文も準備中。 (SST について、最初の「読める」論文になるはず。)

気がついてみると、ぼくも非平衡の人になっているようだ。

↑ 生きてるんだから非平衡でしょ。

3/18/2001(日)

金曜日は、ずり系のシュミレーションの話を徹底的に聞く。 うううむ。 おもしろいが、理論的にここに到達できるのはいつの日か・・

その後、アドリブで、ずり系の定常状態熱力学 (SST) の現状についてひととおりのことをしゃべる。 この、できたばかり(というか、できかけ)の話を、他人に話すのはもちろん始めてだったけれど、これが自分でも驚くほど、ためになった。 面白いことだが、こうやって黒板に出て説明し始めると、自分で考えているときや、佐々さんと(主として)メールで議論しているときとは、頭の働き方がまったく違ってくるのだ。 ここはどうやって納得してもらうかなと、その場で考えながら説明すると、自分でも気づいていなかったところがすっきりしたりする。 話しながら、「おお、そうだったのか」とひそかに喜んだりしていたのだった。

話がそれる: 実際、講義をしていてもこういう経験はある。 チョークを持って黒板に向かって、学生さんの顔を見ながら説明を始めると、時々猛烈な勢いでアイディアがわいてきて、自分で(←自分だけで、というべきかもしれないが)感心するような説明や導出を思いつくことがある。

熱力学についても、本のベータ版を使って講義していたとき、そこに書いてある式を見たら「なんだ、この分かりにくい式は!」と怒りがわいてきて、「こうやればずっと簡単で見通しがいいぞ」とその場で違うやり方に変更したことがある。 (紙の上では何度も見ていて、気にならなかったのに。) もちろん、本にするときは、そこは書き換えた。

他にも、その後の研究に結びつくような着想を講義のときに得たことは何度かある。 要するに、学部の講義をしていても、プロの研究者が学ぶことは、実はたくさんあるのだ。

そうだ、Dick (← Feynman のことだよ)あんたは正しかった! やっぱり、物理学者たる者、講義をしないでいいようなところ、学生さんの質問に時間をとられないでいいようなポジションに就くべきじゃないんだ。 IAS (←プリンストンの高等研究所のことだぴょーん)のみなさん、ごめんなさい。 ぼくも Dick と同じで、あなた方に誘っていただいても、それをお受けするわけにはいきません。 お互い時間の無駄になるから、どうかぼくを雇うことはあきらめてください。 (←もちろん、まだ誘われてないけどねー)

話がもとに戻る: もちろん、いろいろ質問してもらえるのも、実にありがたい。 佐々さんもいるから、わからないことは答えてもらえるし。 この午後の議論で、いろいろな論点がぼくの頭のなかでかなり整理されてきた気がする。

SST には、今年になってから発作的に取り組み(1/24)、その後絶望したり(1/26)、雪かきをしたり(1/27)、ラーメン屋さんに並んだり(2/22)と、大いにあわただしかったが、ようやく、温度一定の非平衡定常状態については、少なからぬ場合に、SST による記述ができ、変分原理から定量的な関係式を導くことができるだろうと思うようになった。


さて、先に見える重要な課題は、温度勾配がある定常状態の扱い。

金曜の議論で急激にピントがあったと思いこんで、ばばばばっと考えるが、けっきょく問題の難しさを痛感。 「バランスするのは熱流であり、その場合の変分原理は・・待てよ・・」 とぶつぶつ言いながら外を歩く週末。


木曜、金曜とつづけて外出したのに加えて、明日(月曜)は東工大の上田さんのところで清水さんがセミナーをするので、大岡山まででかけるのだ。 セミナーの内容は、かねてから、清水さんや上田さんと(メールで)議論していたテーマなので、徹底的に聞いて言いたい放題を言ってくることになろう。

それにしても、こんなに出かけるなんて、目白で隠遁生活を送っていると自称していた私にしては、異常事態である。 しかし、これはあくまで偶然の積み重ねに過ぎず、ぼくがポリシーを変更したとかいうわけじゃないので注意。 明日が終われば、また目白にこもってひっそりと研究を続けることになりましょう。 (とか書いてしまったが、もうすぐ物理学会ではないか・・)


3/19/2001(月)

午前中は、ばたばたとあわただしく、午後はセミナーへ。

ふう。 東工大は遠かった。

しかも、久々に行ったら様子が変わっているではないか。 目黒の駅の乗り換えが近代化されていたことは一応認識していたが、 今日行ってみると、なんと、

目蒲線(←ATOK でも一発変換できるスタンダードな路線名)がない!
あきらめて引き返したりはせず、路線図を子細に検討すると、どうも「目黒線」という情報量の少ない名前に変わっているようだ。 (いや、単なる名称の変更じゃないのかもね。 ともかく、目黒線で大岡山に行けるのだ。 東工大にこれから(久々に)行く人は注意してね。)

家に戻ってから、この話を妻にしていたら、小学生の息子がすかさず

ネカマみたいだから変えたんじゃない?
と、いかにも小学生みたいなことを言って笑われる。 実は、ぼくも最初とっさにそう思ったのだが・・・ (「おおおかまや」も含めて、そういう因縁のある路線であることよのお。)

閑話休題。 清水さんのセミナーは(終わった後の議論も含めれば)延々4時間半のデスマッチ。 足立さんと上田さんとぼく(五十音順)が納得するまで徹底的に質問して、コメントしまくった大いに充実の時間であった。 清水さん(←読んでないでしょうね)お疲れさまでした。

その後、

という清水さん+上田さんに対し、足立さん+ぼくは、 と主張。 これは分野による体質の差を表しているのかもしれないが、一種の「観測問題」としての説明 --- 要するに、足立さんだのぼくだのうるさいのが出席してみんなにからみまくると、必然的に激しくやり合う研究会になってしまう --- がもっともらしいということに落ち着く。
というわけで、相当に疲れた一日。 メールをくださった方々に返事を書く暇もありませんでした。 ごめんなさい。

スポーツ少年になってからほとんど風邪をひかなくなった息子が喉をやられる風邪にかかっている。 学会の前に喉風邪をひくのだけは遠慮したいものだ。


3/20/2001(火)

学習院大学卒業式。

ぼくは式にはでないけれど、その後の写真撮影と軽いパーティーには顔を出す。 めでたくご卒業されるみなさん、おめでとうございます。

4年間(ないしはそれ以上)見慣れた顔が大学を去っていくのを見送るのは、寂しいような、うれしいような複雑な気持ちです。 めいっぱい月並みですが、ま、一年に一度くらいはいいでしょう。

パーティーでは、F 君、O 君など、はりきって笑いのネタをふりまいてくださいましたが(よく考えると二人とも T 研ではないか)、全国の読者の目もあることですし、ちょっとセンチな卒業式の日でもありますし、ここでの紹介は控えさせていただきましょう。


話は変わって、大学に泊まり込んで早朝から羽田に向かったものの、じつは日程を一日まちがえていたために無駄足をふんでしまったという佐々さん。 (日々の研究 3/20) 明朝、無事出発されることを祈ります。 しかし、これを思えば、考え事をして山手線を一駅乗り過ごす(3/16)くらい、「財布を忘れて愉快なサザエさん♪」以下の常識人的ふるまいに過ぎませんなあ。 ぼくも、まだまだです。

そういえば、あの Onsager は、極度に実務能力の低い人で、奥さんに頼まれて買ってきたアイスクリームを自動車の後部座席におきっぱなしにして、座席をべとべとにしてしまうなんていうのは日常茶飯だったらしい。 その実務能力のなさが幸いして、非常に偉大な科学者として尊敬されるようになった後も、誰にも何にも頼まれないので、暇がたくさんあったという話だ。

あ、しかし、実務的な能力がダメだから、そのまま優れた科学者というわけでもないので注意。 ぼくの知っている某大学教授はほとんど挨拶もできないような困った人(もちろん学習院の人じゃない)だが、研究の方も物理的ビジョンの薄いオタク的計算をするばっかりの人であります。


3/21/2001(水)

学会の講演の準備を本格的に開始。

ぼくの場合、講演の形を頭のなかでずっと考えつづけて、ほぼ全体が見えてから実際に書き上げるというパターンが理想。 とはいえ、完全に見えるまで待っていると学会当日になってしまうので、そろそろ本気で始める。

OHP は、もちろん手書き。 いつも人に言っているように、ダメだと思ったら何度でも書き直します。 (←ぼくに OHP 書き直しを命じられ すすめられ何度も書きなしたみなさんへ。) さっそく一枚没にしてしまった。


というわけで、今日は短いのだが、思い出したことをひとつだけ。

先日、初対面でぼくが「田崎です」と名乗ったら、「ホームページいつも見ています」と答えてくださった Ts 大学の二人の学生さんへ。

あの日の別れ際に「××研の院生の人たちは、ホームページを見ても、元気そうだ」とおっしゃっていましたが、念のためばらしてしまいますが、××研の××ちゃんは男の子だよ〜ん。 (たしかにどこを見ても女の子だって宣言してないから誤解したのは君の責任なのだ(ということなんだと思う)。)


3/25/2001(日)

昨日の陽気で、大学の居室(4階)の窓の外のサクラの花がかなり開いてきた。 ひょっとすると満開のときには学会で不在ということになってしまうのかもしれない。


木曜日に、大野さんに来ていただいて SST について議論。 というよりも、ぼくが色々と教わる。 無免許で無理矢理やっているが、ようやく非平衡の世界の空気が感じられるようになってきたかもしれない。

この機会に、前からもやもやとひっかかっていた点(未来の自分用のメモ:zeta と応力の関係、時間の次元をもった比例定数の謎)をはっきりさせることを試みる。 不安は的中し、ずり (shear) のかかった流体系の SST の変分原理が(今の定式化の範囲では)一筋縄ではいかないことを認識。 (第二法則の存在については問題はないと思っている。) やっかいなのは、まさに非平衡ならではの部分であり、本質的な何かに結びついている予感あり。

実をいうと、

ずりのかかった流体系の SST (定常状態熱力学)を形式的に構成して、そこから熱力学的議論で何がいえるかを示す
というのは、やればできる easy game だと思っていた。 しかし、理論の本質的なところを整備すべく、いっさい手を抜かず、ごまかしをせず、基本的な思考実験をいくつか工夫し、概念を鍛えることを試みていた。 その結果として、実験と比較することなく、力学と熱力学の整合性という純粋に理論的な観点から、一筋縄ではいかないところがあることが浮かび上がってきたのだ。 これは、なかなか興味深いことではないか。 (ぼくらは、自明ではない生き生きとした具体例を調べることによってこそ本質的なことが学べるのだ。)

さて、これがスラムダンク(古)とかのスポーツ漫画であれば、登場人物が

そう簡単には勝たせてはくれねえな。 おもしろくなって来やがったぜ。
などと言いながら汗をふきつつ不敵な笑みを浮かべるところでしょうが、 理論物理学者であるぼくは、
そう簡単には進まねえな。 おもしろくなって来やがったぜ。
などと不敵な笑みを浮かべつつ、これが真に深刻な困難なのか、表面上の問題なのか、次にはどのような方向から攻めるべきか、などなどについて考えているのであります。 (付記:明後日の学会のシンポジウムでの発表(大野さんのも、佐々さんのも)には、この変分原理の話題は直接は関係しません。 もちろん、今後の展望には影響するけれど。)
3/26/2001(月)

今日、朝から学会の準備をする間にも、どんどんと窓の外のサクラが開いていく。 木によっては既に満開かな?

せっかくなので、この素敵な眺めをデジカメで取ってアップしましょう。

はい、パチリ。
などとやっている暇はないのであって、学会前でも雑用とかはあるし、ごたごたと働いて、ようやく何とか準備完了かな。(今、夜の11時。) 関連する仕事やものの見方について補足すべきだなと思うところがいくつかあるのだけれど、口頭の発表の場合、それをやり始めると収集がつかなくなるので、ちょっと苦しい。

さすがにシンポジウム発表で緊張するということはないみたいだけど、シンポジウム自体がどれくらい盛り上がるかは多少気になる。 「固定支持基盤」のないシンポジウムだしね。 でも、それだからこそ、意義があると思うし、予想もしていなかった人たちと接触できて議論できればうれしいなと思っているのだ。 いつも似たようなメンバーで仲間内でやっている(かのようにぼくなどには見える)少なからぬシンポジウムなどよりは、はるかに意義があると信じていることは言うまでもない。

また、メールをやりとりした九大の Y さんをはじめ、ネットワーク経由でしか知らない人たちと議論できそうなのも楽しみにしている。

八王子は遠いから明日は早起きせねば。 この日記はあんまり校正してないけど、このままアップして、さっさと帰って早々に寝ることにします。 学会に出られる方とは明日お会いしましょう。 (←そういう人は、読んでないと思う。) おやすみなさい。


3/29/2001(木)

学会の断片的記録 その1: シンポジウム(27日)


大盛況。 主催者側(?)発表で五百数十人。 この数は、単に部屋の容量で決まったような気がする。 覗きに来て、満員なのでよそへ行かれた方が随分いらっしゃったように思う。 座席に座りきれなくても聞いてくださった方も大勢いらっしゃって、恐縮です。

さて、前半は大野さんと佐々さん。

ううむ。 大野さんは難解に過ぎ、佐々さんは勢い余って空回りするのではないか、という不安を吹き飛ばし、それぞれ持ち味を活かした見事な講演。 構成も、内容の加減も、時間の配分も、ほぼ完璧。

すばらしい・・

これは、がんばらねば・・・

ぼくは、レビューを主体にした話を計画したのだけれど、後半に、自分の仕事の簡単な説明と量子系の SST についての湯川さんのお仕事の紹介を入れたため、後半が駆け足かつ難解になることはもともと覚悟していた。 やはり計画ミスだったか・・・・

お二人に比べて迫力に欠けるのは承知の上だが、あまりしょぼいと困るぞ・・・・・

三人目の講演者であるぼくは、ひしひしとプレッシャーを感じていたのだった。

そういうのはよくあることでしょう、とおっしゃるなかれ。 ぼくだって講演の前には緊張しますが、他人の発表の出来のよさにプレッシャーを感じたのは、記憶にある限りは、生まれてはじめてなのだ。 (←いやなやつ。)


気を取り直すべくトイレに行き(会場の横のトイレは行列ができる混雑。わざわざもっとも離れたトイレに出張して用を足した(←そんなことまで web に書くな))、ぼくの番。 予定どおり、前半の予定を5分超過して、後半は駆け足。 マクロな平衡状態とミクロな表現の対応についての Boltzmann の忘れられたメッセージを伝える、という最大の課題は果たしたつもり。 今になると、いくつか肝心の論点を盛り込めなかったことが気になるが、後からごちゃごちゃ言うのはやめよう。 (余裕ができたら、講演の OHP をスキャンして公開します。)

講演後の質問は、ぼくの舌足らずさを補って下さるようなものが多く、大いに助かった。

ぼくの講演への質問が延々と続き、なし崩し的に「討論」の時間に入っていた。 進行役の佐々さんも、「早口まくしたて」の得意技をあえて押さえて、巧みに議論を整理し、質問に答えていく。 いくつか論点がかみ合わなかったところもあったけれど、全般的に充実した議論になったと思う。 「第二法則は破ることができる」とか過激なことをおっしゃる方は現れず、ほっとする。 こういう抽象的な話題について、色々な世代の人たちと活発な議論ができたのは大いに意味があったろう。


[title OHP] シンポジウムそのものは成功だった。(←断定)

言うまでもないが、この企画が、真に学問として意義のあるものだったかどうかは、今後の展開にかかっている。 佐々さんがくり返し言っているように

というのが最大のポイントになる。 しかし、それだけではなく、より広く、 を生み出す一助になればうれしいし、(研究者の再教育も含めた)教育的な問題としては、 を洗い出していくきっかけの一つになってくれることも願うのであった。

OHP に顔写真を使わせてくださったみなさま、どうか草葉の陰から応援してください。


3/30/2001(金)

学会の断片的記録 その2: 会場への道


遠い。

電車に乗ってどこかへ行くのが苦手なぼくは、事前に高麗さんや妻にアドバイスをもらい、それでも不安を感じつつ初日の朝7時半に目白駅へ。 すると、持つべきものは研究熱心で早起きで顔見知りの大学院生。 ホームには、まるでぼくを出迎えるかのように(←身勝手な解釈をお許しください) K 君と T 君の姿。 これはラッキー。 彼らを引率の先生としつつ、乗り換えもスムーズに会場へ。

会場では高橋さんと出会い、これまた、彼にくっついて(少し迷いつつ)総合受付へ。 久々なので、こんなのがあるのを忘れていた。

げ?

一般会員 4000 円???

数百人の人の集まるシンポジウムで話す以上、もぐりで参加するわけにもいかず、ちゃんと払う。 適当に8千円くらい財布にいれてやってきたので、もう4千円くらいに減ってしまった。 そのあと、昼食を食べ、夜はのみに行ったら(3千円)、小銭しか残らなかった・・


二日目は昼から。

研究熱心で早起きで顔見知りの大学院生諸君は朝から参加しているとみえて、誰にも会わない。 初日はスムーズだった JR から京王線への乗り換えも、一人だと不思議と面倒。 「京王線」という矢印にしたがって改札を出たはずなのに、そこから先には「小田急」の矢印しかない。 しかたなくいったん小田急方面に向かい、あきらめて引き返してくると、ようやく「京王線」という案内が見える(JR の改札を出た人からは見えないように角度を工夫して作ってある!)という粋な仕掛け。

高幡不動の駅でラーメン。

予想はしていたが、やはり。 久々に食べる凡庸なラーメンであった。

昼下がりの空いたモノレール。

高いところを走るから、大きな窓からの見晴らしはとてもよろしい。 しばらく乗ってからふと気付くと、二つほど向こうの最後尾の車両の後ろの窓も大きく開いている。 ぼくは(というか誰でもだと思うが)電車の一番前や一番後ろから見える景色が大好きで、息子といっしょに電車に乗るときは必ずガラスに張り付いて線路がぐねぐねと時間依存の遠近法を展開する様やホームが近づいてくる(あるいは遠ざかっていく)様子をずっと見ている。 モノレールとなれば、空中に浮かんだ一本の線路がうねうねと遠近法する様を見ることができるわけだし、それはそれは最高の眺めにちがいない。 せっかくのチャンスだから、今からでも最後尾に移動して景色を見よう。 別に恥ずかしいことじゃないし。 と、意を決して移動を開始。

すると、同じ車両の後ろの方に、相対論・宇宙論の重鎮 H さんが座っていらっしゃるのに出会ってしまった。 さすがに「あ。ぼくいちばんうしろから景色見たいんですよね。じゃ。」と言える空気ではなく、お隣に座らせていただき、いろいろと話し始める。 会場につくまでの間に、ブラックホールと情報、そして、特にブラックホール熱力学についてきわめて有益な会話。 とてもためになりました。

しかし、モノレールの最後尾から一本線路空中うねうねを見ることができなかったのは、ちょびっとだけ心残りなのであった。


3/31/2001(土)

朝からの雨は、午後にはみぞれとなり、ついには、ほとんど雪。 満開のサクラの花に雪が降る眺めは一種不思議。


学会の断片的記録 その3: 飲み会

シンポジウムの後に、関連する分野の人たち(および、高麗さんと原)と飲みに行ったというだけのこと。 安い飲み屋でごく普通の飲み。

しかし、ぼくにとっては、こういうのは数年ぶり。 12時を過ぎて家に帰るというのも、きわめて珍しい。

文系のご出身なのにこの日記を定期的に読んでくださっているという O さんの奥さんをはじめ、何人か初対面の方とお会いできたのは、喜ばしい。 佐々さんと S 氏の特異なキャラが光って、大いに盛り上がり、楽しい飲み会であった。 しかし、ぼくは、いわゆる非平衡関係や粉体とかをやっている若い人たちとかともっと知り合いになれるかと秘かに期待していたのでちょっと残念。


学会の断片的記録 その4: セッション

ラチェット関係のセッションと粉体関係のセッションに出席。 すべて聞いた。

どちらも耳学問レベルの予備知識しかないが、活気があり、楽しめた。

などと、ぬるま湯の感想を書かずに、本当の感想を書く。

いくつか、光るセンスを見た気がする。 お世辞でなく。 しかし、全般として、弱い。 科学として、弱い。 数学に、理論に、なっていないから弱いと言っているのではない。 数値計算にしても、ほとんどが、まだ、甘く、弱い。 個々のメンバーは悪くないと思うが、いかんせん、やっている人が少ないのでつい基準が緩くなる。 さらに、「厳しい目」がほとんどない。 (早川さんは怖そうだし、質問やコメントするときの声も怖いけど、実は本質的にはそんなに怖くはない。) 「えらい」先生の顔色をうかがう分野は単にくだらないが、かといって、「厳しい目」がない分野には馴れ合いと粗製濫造に陥る危険がある。

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
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