茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
logW が、かつて「雑感」と呼ばれていた(あ、今でも呼ばれてますね)頃からの読者なら、わたしが岩波から出ている「物理の世界」というシリーズを以前に糞味噌にけなしていたのを覚えていらっしゃるだろう。 (当然、ここでリンクをはるのが親切というものだが、タイトル付きのリストにも載っていないし(←ちゃんと作れ)、どこにいったかわからないので、お許しくだされ。)
糞味噌にけなしたとは言っても、実は本格的に批判するぞと息巻いて宣言しただけで、例によって、何も書かないままに月日がたってしまっていたのである。
ま、それでも、完全に宿題を忘れていたわけではないので、時折、このシリーズを一言で馬鹿にできるようなナイスなフレーズはないかな --- とか陰険なことを考えたりしながら、過ごしていた。 そんなある日、このシリーズの宣伝のためのパンフレットをみていたら、
物理のデパートというフレーズが目にとびこんできた。
なんじゃ、これ?
これって、宣伝になるのか??
そう。ぼくが貧困な想像力と文章センスで(←謙遜でごわす)探し求めても、なかなか思いつかなかった、簡にして潔たる「けなしフレーズ」がここに、宣伝パンフの中にあったじゃありませぬか!
デパートですよ。デパート。
掃除が行き届き、夏は冷房、冬は暖房の効いたお客様にとって快適この上ない広く豪華な売り場に、お客様のほしいものは何でもそろっております。 化粧品をお買い求めのお客様は1階化粧品売り場へ、食品をお求めのお客様は地下2階の食品コーナーへ、婦人服なら7階へ。 お客様は神様です。 お客様のご都合とご興味のおもむくままに、お好きな売り場をごらんになって、お好きなものをお買い求めください。
それが、物理ですか??
人類が、その能力のすべてを尽くして、自然をできうる限りもっとも厳密に理解しようとして築き上げた壮大な(しかし、未完成の)体系が物理だったんじゃないのか? おもしろさを味わうためには、装備を整えて高い山に登るがごとき覚悟をもって、基礎を獲得しつつ高見を目指すしかなかったのではないのか?? もちろん、山の登り方が一通りでない以上に、物理のフロンティアへのアプローチは多彩であり、必ずしも皆が同じ道筋で基礎を身につけてフロンティアへ進む必要はない。 しかし、どんな道を選ぼうと、それが険しく厳しい道であることに変わりはないはず。 厳しいからこそ、本当の意味で、おもしろいのだ。
どう考えたって、本当の物理は「デパート」で買えるようなものじゃない。
若い人は本を読まないとか、小冊子にしないと売り上げが伸びないとか、くだらない論理に振り回されて物理を切り売りしてしまうのは、ほとんど許し難い行為だと思う。
かかる web 界の集団無意識を察知してか、先日、日本物理学会誌の書評委員会から、岩波物理の世界の中の統計力学に関する三冊の本をまとめて書評しなさい(さすが 「物理の 百円均一ショップ デパート」の商品たる小冊子の集まりだけに、書評も一山まとめて、って感じになるのですねえ)という依頼が来てしまったのであーる。
書評を書いたり、あるいは、その準備のために書評すべき本を読んだり、という作業にはけっこう時間がかかる。 それに、もし読んだ本がくだらなかったりすると、ぼくは怒り狂ってしまって精神的に消耗する。 だから断ろうかなとも思うのだが、確かに批判すべきはきっちりと批判すべきであろう。 あっさり、断ってしまっては、もっと波風立たない書評(「著者の○○先生はこの分野では世界的に知られた方であり、さすが随所に・・・」みたいな書評ばっかしですよ、物理学会誌なんて)を書く人ならいくらでもいそうなところを、いかにも波風立ちそうなぼくをわざわざ指名してくださった(と、勝手に思ってるだけだが)書評委員の方々に申し訳ない。 それだけでなく、いな、それ以上に、web の向こう側からぼくを応援してくださっている(と、超勝手に思っているだけですけど)全国・全世界の雑感読者じゃない logW checker の皆様にあわせる顔がないではないかっ!(web ってのは顔をあわせないでいいメディアなんだけどね。 実際、感想メールを元にした近年の統計によれば、logW の読者の9割以上が私と現実世界で接触のない方だと言われている。 と、まあそんな話は置いておこう。)
というわけで、涼しい日にプールにとびこむ人の覚悟を決めて、つつしんで書評をさせていただきたいとの返事を物理学会誌あてに書く私の姿があった。
すると、待ってましたといわんばかりに、ほとんど2日ほどで、書評すべき本が送られてきた。
の三冊である。 (岩波のページよりコピペ。)蔵本氏は、大自由度の散逸系などにおいてすばらしい業績を挙げた研究者である。 押しも押されもせぬ、日本を代表する統計力学の専門家といってよい。
宮下氏は、私の研究室の大先輩にあたる方で、スピン系の数値シュミレーション(ほぼ)一筋の統計力学の専門家である。
吉岡氏だけは、統計力学というより、物性理論が専門の方。
いずれも、百ページ前後のちゃちな小冊子。 これで、何が書けるんだろうという感じ。
著者たちのご専門などを基準に勝手に先入観を抱きつつ、三冊を手にとってみた。 だが、実際に本を開いてみると、そこには私の予想を大きく裏切る意外な真実が!!
おっと残念、ここで時間切れだ。(要するにまだ書評を書いていない。) すべてが白日のもとに明らかになる次号(←いつっ??)を刮目して待て!! (本当に正直に書けるのか? >おれ)
商用メールソフト Eudora は日本語コードの扱いが駄目駄目なので、ついに見限って OSX 付属の Mail を使い始める。
Eudora は、売り物になって以来、初期の頃のクールさをどんどん失って、ごてごて無用な機能を増やしていく一方で、その割には、動作に不安定なところがでてきたりで、いいところなし。 初期の英語の無料バージョン、日本語の無料バージョン以来のユーザーが、こうして、また一人去っていくのであった。 初めて英語版に出会った時は、本当にかっこいいと思って感動したんだけどなあ・・・
OSX 付属の Mail は基本的な機能に加えて、サーバーに一定の期間だけメールを残す機能なども付け加わって、かなり使い物になると思われる。 Eudora の mail box を読み込む機能もある。 (ただし、途中でおかしくなって、全部は読めなかったが。)
もっとも気がかりなのは、Apple がいつまでこのソフトをちゃんとくっつけてくれるか、ですね。
古くからのユーザーはご存じのように、Apple のソフトに対する姿勢はかなりいい加減で、無料でシステムに付属させていたのを、有料にかえてしまったり、そもそも作るのをやめたり、とか、かなりひどい前科がある。 最近は、Mail 以外にも、iTunes(←使っている)、iPhoto(←使ってない)などなど、かっこいいソフトが付属していることが Mac の売りになっているわけだけれど、こういうデータの蓄積が重要な意味をもつソフトを急に打ち切ったりすると、本当に評判落とすと思うなあ。 お願いしますよ。 アップルさま。
ぼくが遊んでいるおもちゃについて、基本的な問題点等を検討。 少なくとも、いくつかの論点を明示的に考えるきっかけには、なる。 (もうちょっと意味をもってほしいとも願うのだが。)
おもちゃで遊んだ計算の内容を佐々さんに伝えるのに、わざわざ TeX で打つまでもないと思い、手書きのメモをファックスで送ることにする。
実は、家のファックスをほとんど使ったことがないので、常識がない。 やり方がよくわからないので、妻にやってもらう。 なんか、頼りなげに、紙がじいいいと電話機に吸い込まれていく。 家からファックスなんか出してしまって、通信費がかかって家計に迷惑がかかったらどうしようと不安になってくる。
で、送信が終わったところで、表示をみると、なんと金額は、
10円かよっ!あ、電話代といっしょなんだから、そりゃそうか・・
書類作成のため、教室メンバー何人かが集まって事務的手作業をする。
ぼくは、自分がこの作業に向いていないことを悟った。下手だし、のろい。すぐ失敗する。一生懸命やっても上達しない。のろまな亀だ。のろのろ作業しても、けっきょくきれいにできない。もっと素早くてはるかにきれいに仕上げる人もいる。ぼくは何の貢献もしていない。それでも、やる。あぎゃ、失敗して反対側をのり付けしてしまった。不良品だ。だめだめです。ああ、こんな構図はいやだ。
と、まあ、考えてみると、大人になってからのぼくは、ほとんど自分の得意なことしかしないで生きているから、たまにはこういう思いを味わった方が薬になるでしょう。
文字化けを主たる理由に Eudora から OSX Mail に乗り換えたのだが、なんと、Eudora では文字化けしないのに、OSX で文字化けするメールというのがあることを知ってしまった! というか、そういうのが、届いた。
ただし、その内容は、なにか画像がどうしたこうしたとかいう、世間知らずのおいらには意味不明のもの(←若干の嘘があります)だったので、ま、よしとするか。 というか、そういう公序良俗を乱すメールは自動的に化けるのかな?
天国の Onsager 先生、regression hypothesis では無理みたいです(あ、生きていらっしゃるのかな??)。
しかし、平衡統計力学というのはよくできている。 統計力学で計算している圧力は、ほぼ、entropic force なのだけれど、それが、希薄気体などでは、運動学的に求めた圧力とちゃんと一致するのだから。 ほとんど魔法だよなあ。
統計力学的な理論の範囲で圧力の異方性をひっぱりだすのは至難の業だとあらためて痛感。
しかし、この一連の考察に失敗した今、どういうわけか、Sasa-Tasaki を信じる気持ちが強くなっている自分に気づく。 不思議なんだけど、すなおに。
ぼくが OSX では文字化けすると騒いでいるのをごらんになって、
かかる web 界の集団無意識を察知してか、ついさっき、ドアをノックしてアップルの人がいらっしゃいました。
どういうネタだよ、とお考えでしょうが、ネタではなく、まじで。 アップルリゾルーション担当という方が林檎マークの名刺をもっていらっしゃいましたよ。 学習院に着任して Mac Plus を買って以来、ずっと Mac を使っていますが、アップルの方のご訪問は初めてでした。 ようやく、ここに学習院で Mac を広めた貢献者がいることを知り挨拶に来たのだな --- ということではなく、なんか「現場の声」を聞きにいらっしゃたらしい。
文字化けで悩んでいることなど、きちんと伝えておきましたから、解決される日も近いでしょう。
というわけで、最近お送りしてきた Mac OS 切り替え関連話は、アップルの人の登場でめでたくクライマックスを迎えたので、オチがなくても許してください。
「終焉をむかえた」と二日前に書いたばかり(4 日)なのだが、それでも、どうも regression しかないという気がしてならない。 別に圧力に異方性がでなくても FIO があってもいいじゃないか、などとも思おう。
前にやったおもちゃの計算で、凸性について理解しきっていないところがあることが気になり始める。 そのあたりを真面目に調べてみると、この例で予言通りの FIO や SST の求める凸性がうまく現れているのは、かなり非自明なのではと思えてくる。 思い過ごしなのか、意味のあるサインと解釈すべきなのか。 いずれにせよ、もう少し執念深くねばろう。
しっかあし、私のような十数年来の Mac user というのは、そういうものではない。 やっぱり、今月の日記用のアイコンがあって、それをダブルクリックすると自動的に ftp されてウィンドウが開き・・・というんじゃないと、やなのだ。
で、その後、だいたいそういう方向になってきて、なかなかに快適です。 3 月に入ってからのファイルの入れ替えやシンボリックリンクのはりかえなんかも、ぜんぶ OSX から簡単にできて、よい感じである。
ついでに、OSX 付属の Mail も、けっこう使いやすい。 Address Book との連携や Mail Box に関連する操作も、さすがアップルという感じで、きわめて直感的でよくできている。
と、Mac OSX への満足を書いているだけでオチもなく終わってしまうのだが、さては昨日のアップルの人に何かもらっただろ、などと勘ぐらないでください。
金曜日の教授会の途中、平野さんが届いたばかりの新しい物理学会誌に目を通していた。 (平野さんの奥様へ:別に、さぼっているんじゃないですよ。 彼は学会誌の編集委員だから、一刻も早く目を通す必要があるのです(と、思う)。 普段は、ちゃんと会議を聞いていらっしゃいます(と、思う、ぼくはさぼって計算とかしているから、よくわからないけど)。) 少しすると、ある記事の途中で、はっと何かに気づいたらしく、ぼくの方を見て何かを伝えようとしている。 なんじゃらほいと思ったけど、そのときは、よくわからなかった。
教授会が終わったあと、平野さんに教えてもらった。
学会誌の最初の方のページを開くと、編集委員長の秋光純さんの巻頭言がある。 その中ほどに、
一昨年、物理学会誌で若い人(?)が集まり。『物理学の明日』という将来の物理学の方向を論じている面白い企画があったことを覚えておられる方も多いであろう。 筆者も最近読み返してみて大変面白かったが、その中で特に考えさせられたのは、学習院大学の田崎氏が繰り返し述べられている、多くの物理学者が「面白い、面白い」と言ってやっていることが実は大部分が単なる“紙の山”ではないかという深刻なる危機感である。実際、・・・という部分があるのだった。
おお。
おそれ多くも学会誌の巻頭言で言及されるというのは、アインシュタインとかパウリとか偉大な物理学者だけだろうと思っていたが、この私の名前を出していただけるとは。 光栄という以上に、驚きである。
古くからの雑感読者なら、ここに出てくる『物理学の明日』のことは覚えていらっしゃるかも知れない。 ええと、3/5/2001, 3/6/2001, 9/13/2001, 9/15/2001 あたりに話がでてきます。 2001 年には、「二十一世紀になったぞ」的座談会がパリティと物理学会誌の両方に掲載され、ぼくは、アホみたいにも(←必ずしも謙遜とは言い切れないものがあるなあ)、その両方に顔を出して来たのでした。
しかし、上の秋光さんの「引用」をみると、まるで、ぼくが座談会のなかで、
田崎:一次元の解けるモデルだけを馬鹿みたいにこねくり回したり、いい加減な計算して場の理論だとかおめでたく騒いでいる強相関電子系の理論なんて、クズなんだよ、クズ! あんたらが、「面白い面白い」とか言いながら、ルーチン的な計算をやって書き散らしている論文なんて、ただの紙くずの山なんだよ、紙くずの山! (バンと粗暴に机をたたく。) おいっ。 なんで、そこでヘラヘラ笑ってるんだ。 おまえもいっしょだよ、おまえの書いている論文だって、紙くずなんだよっ、わかってのかっ? なに? 投稿もプレプリ配布もオンラインだし、雑誌も電子出版だから、紙くずはでないって。 こりゃまた失礼いたしました〜などと暴言を吐きまくっていたかのようではありませんか。 (やればよかったかな)
でも、実際は、そういうのとは違うし(←当たり前か)、秋光さんの書き方にはちょっとだけ違和感を覚えるところもあるので、若干のいいわけを書いておきたいのであります。
ところで、この座談会は、オンラインで公開されているのでした。 座談会「物理学の明日」です。 お時間のある方は、どうぞ。 司会者=企画者の細谷さんがきわめて有能でありかつ用意周到であったため、この手のものとしては、異例の面白い読み物になっていると思います。(しょせん、「この手のもの」であるという呪縛からは逃れられないわけですが。) 上で引用した私のコメント等とあわせて読むと一粒で二度おいしいかも。 (注:なかほど、「くりこみ群的なるもの」の冒頭で、ぼくが「関連することで,熱力学にがいるか?」とらりったような発言をしているところがありますが、これは、「熱力学に hbar がいるか」と言っているのが、外字が抜けて変になっているのでした。)
ただし、今回は、平衡系との理想接触(熱流をいっさいやりとりせず、エネルギーと粒子のみをやりとりする)を想定して、それに応じた解釈をしていく。 ちょっとだけややこしい計算であり、時々係数を間違えると、重要な符号が逆になり、青くなる。 しかし、きちんと、計算を遂行すると、熱流の二次までの計算で、非平衡効果のためにエネルギーと粒子が定常状態側に流入し、圧力も非平衡側が高くなる。 まずは SST の予言通り。 ただし、エントロピー経由で求める等方的な圧力と運動学的圧力(こちらは、非等方)が一致しないという問題は残る。 SST 等式を満たすのは前者のようだ(←と思ったが、まちがえていた。今の微分の仕方では、どちらも満たさない・・)。
妙に寒気がすると思ったら、本当に極端に寒い日だったので、寒気は確かに寒気だけど、正当な寒気だったのか --- などというネタを書くべきかどうか迷っている内に暖かくなってきたと思っていたら、でえい、とうとう風邪っぽくなって本当に寒気がして微熱もでてしまった。 ここで無理しても研究は進まずかえって後々に調子が悪くなって能率が悪いだけだからさっさと寝ようと思っている、というのは、やはり大人になった証拠であろうなあ。 おやすみなさい。ごほごほ。
松本元さんの告別式。
冷たい雨の降る寒い夜になってしまった。 狭い会場に多くの人がつめかけ、(われわれを含め)会場に入りきれずに外に立っている人だけでも二、三百人はいたように感じた。
待ち時間に、行きの電車で出会った久保健さんと、故人の話や最近の研究の話を。 思い出すと久保亮五氏の告別式の時にも、久保健さんと立ち話をしていた。 なんとなく告別式に出る頻度が高くなったような気がする。 年をとったせいか。
告別式がおわり、電車で信濃町から新宿に向かうあいだ(←みじかっ)に、磁性と統計力学の歴史と現状の総括(←テーマでかっ)。 といっても、例によって、主としてぼくが勝手な暴言を吐き、久保さんは冷静に同意してくれたりぼくをたしなめてくださったりする。
久保さんと別れて一人山手線に乗ると、隣のグループ(知らない人たち)がぼくの祖父の話をしているのに気づく。 祖父にとって元さんは最良の共同研究者だったからこれは不自然なことではないのだが、電車で隣の知らない人たちが祖父の話をしているのを聞くとはなしに耳に挟むというのも珍しい体験であろう。 ついでに、神経の興奮パルスはチャネルの開閉で伝搬していくという Hodgkin-Huxley の描像を信じない人も少なくないというような会話も聞こえてくる。 ほお、電車の中でたまたま聞いた会話で(←というのとは、ちとちがわんか?) Hodgkin-Huxley 懐疑論を耳にするとは。 彼らの説の圧倒的優位も長くはないのかも知れぬ。
冷たい雨の中を家に帰ると、ちょうどアメリカの祖父から電話。 告別式の様子と、ついでに、電車の中の会話のことを伝える。 祖父は元さんと書くつもりで相談していた論文の話をし、それから、彼の次の論文の構想をしばし熱く語った。
学内を行き来して半肉体労働的雑用を多くこなす。
とちゅう、西門付近にいたら、守衛所で、目白近辺の散策地図のようなものをもって道を尋ねている元気そうなおじいちゃんがいらっしゃった。 乃木館などを見てさらに学内をとおって高田馬場方向へ出たいとのこと。
守衛さんに道を聞いていたようだが、見ていると即座に方向を失って違う方向をみている。 工事中でもあり、一人では到底たどり着けまい、というわけで、乃木館のあるところまで案内する。 東京に四十年住んでいて学習院に入るのは始めただとか、学習院にも反戦の看板があるとは驚いたとか、おおあそこも学習院ですか大きいですなあとか、学習院などというと入る前に身を清めなくてはいけないのかと思ってしまう(←どうやって?)とか、頻りに喜んでくださるので、(まじで)暇ではないのに、わざわざおつきあいした甲斐があったか。
卒業式。
例年通り式には出席せず、記念写真と会食に出席。
書くことがたくさんあるような気がするし、そうでないような気もする。 別に、教員として感じたことを全てここに書いているわけじゃないし、まして、日記のネタを求めて学生さんと接しているわけでもないのだ。 こんなところにはとうてい書けないくらいたくさんのことを、私の胸にしっかりと書き留めておきます。 なんていう結びはどうよ。
とはいうものの、4年生の I 君が、日々の生活は言うまでもなく、卒業研究発表の日や、卒業式当日の今日までも、ずっと半袖で押し通していたというのは、ネタにすべきなのかどうなのか大いに迷ってしまう私なのだ。 (「雑感」で)取り上げてほしいのではないだろうかと推測する人もいるのだが、彼くらいになると、web などといった浮いた物とは無関係に己を高めるために(高まるかなあ?)ひたすら半袖を貫徹しているような気もするし。 というわけで、この記述が不適切なら即刻撤回しますので関係各位(←だれっ?)の連絡を待つ。
A Citizens' Declaration
夢のなかで、ぼくは少し年下のアメリカ人の姪(実際にはいません。もうすぐアメリカの従姉妹たちに子供ができるけれど、「少し年下」というわけにはいかない)に科学の話をしている。 天文に関心があるのかと思いきや彼女が興味をもっているのは宇宙飛行士のことだけで、やれやれアメリカの子はこれだから困った、などと思っている。 ぼくは21歳の物理の学生(姪に何歳かと聞かれ冗談で fifteen と答えてから、一歳ずつあげていって、21まで来たところでこれで本当だと思った)で、どういうわけか英語は native に近く話せるようだ(実際はそんなうまくない)。 これから数年間をアメリカで物理を研究して過ごしその後日本に戻ろうという人生のプランをなぜかもっている(実際の人生では、結婚し学位を取ってからアメリカで二年過ごしています、念のため)。
それだけならよいのだが、実は、この自分は、物理におけるある種の保存則が神の意志を直接に反映するものであるというきわめて浅薄な宗教的科学(しかもなんか怪しげな宗教っぽい気がする)に染まっていることがわかる。 本人は素朴に信じていてその数字の一致に素直に喜びと安心感を見いだしているのだが、さすがに夢を見ている主体たる私には気に入らないわけだから、夢の主体と(どこかにひそむ)真の私の奇妙な葛藤が生じる。 そこから(休日ということもあり)ごくごく緩やかに現実に向かって目覚めていくあいだに、夢の中の主体たる若きぼくに、いかにその数字あわせと神のこじつけが不合理であるかを論理的に納得させるという不思議な作業がつづく。
目覚めてからもなかなかベッドから出ず、この前のエントロピーの計算を再検討する。 ようやく自分のやった計算の意味がわかってきて、FIO の符号と Maxwell 等式が「あちらをたてればこちらがたたず」の関係になっていることが腑に落ちる。 計算するのも消化するのも遅いって。 しかし、肝心の Sasa-Tasaki prediction については、この程度の考察では、否定的なことも肯定的なことも何もいえない。 昨日も安易な拡張を出発点にする非平衡熱力学の論文なるものを眺めてみたが、Sasa-Tasaki が如何に緻密で隙がないかを再認識することにしかならなかった。 自画自賛のようだが、緻密で隙がないだけではよい科学かどうかはわからないので、半自画自賛である。 自分たちで生み出した仕事でありながら、これほど捉えがたく真の正体が見えてこず、それでいて、妙に思わせぶりで何かを強く示唆するように見える、などというのは、まったく初めてである。 いつも言っているが、もし本物なら、本当にすごい。 もし本物でなければ、いくらそれらしくたって、駄目は駄目。
江沢洋先生退職関連行事、無事にすべて終了。 ご尽力いただいたすべての皆様に感謝いたします。
私も、朝からシンポジュウムに出席し少々お手伝いをしずっと一番前で聞いて質問をするところからはじまってパーティーの司会進行まで。 けっこうよく働いたりしてしまった。
さすがにさっさとお風呂に入って、これからビールを飲んで寝るのであった。
何も面白くなくてオチもない雑感ですが(今日も、何人かの雑感読者の方にお会いし恐縮でした)ばてているので許してくれる?
記念パーティーでは司会で忙しかった合間にも何人かの方とお話をし、さらに、その後、東京に出てきた原と(原の学生の)O さんと議論したりで、いろいろと思うところもあり、その一部をここに書いたらよいな --- などとも思うのだが、いろいろとやることはあるし、(椎名林檎の)ポルターガイストの和音も覚えたいし、そうこうしているうちに、また別のことをいろいろ思い・・・というわけで、要するに書いている暇がないのである。
というわけで、とりあえずは、今日のことを書くか。
すっかり春っぽくなってきて、家の前の小学校の桜がかなり咲き始めている。 午後からの教授会にでるべく、目白駅前あたりを歩いていると、むこうからサングラスをかけたかっこいいおじさんが歩いてくる。 よく見ると、Y 先生であった。 Y 先生は、ぼくが大学三年になった時のホームルームの担当の先生で、それ以来、ぼくの科学者としての人生のいろいろな局面で、型にはまらない有益なアドバイスをしてくださっているのだ。 むう、考えてみると、やたら長いおつき合いである。 Y 先生もぼくに気づき、歩道のわきでしばし立ち話。
さてさて、ずっと書かずにいた 9 日の秋光さんの巻頭言の話のつづきを書こう。
ていうか、実は、この前の江沢先生の退職記念パーティーのときに秋光さんご本人とお会いして、ちょっとだけこの話をしたので、われわれのあいだでは決着(?)はついてるのです。 とはいっても、それだけじゃつまらないので、そこでぼくが話したようなことを書きます。
・・・その中で特に考えさせられたのは、学習院大学の田崎氏が繰り返し述べられている、多くの物理学者が「面白い、面白い」と言ってやっていることが実は大部分が単なる“紙の山”ではないかという深刻なる危機感である。実際、・・・まず言っておくべきは、座談会「物理学の明日」のなかで、ぼくは「紙の山」とか「『面白い、面白い』と言ってやっていること」などの表現は用いてないということ。 これは田崎節じゃなくて、実は秋光節なんだと思う。
たしかに、ぼくは、座談会の中で物理の現状について・物理の質の取り返しのつかないまでの低下の可能性についての深刻なる危機感を表明していた(そして、今でもそれを抱いている)。 それを読んだ秋光さんが共感してくださったのだろうと推察する。 おお、わしが日頃思っているようなことを、この若造も思っておるわい、と。 (←お、擬似博士言葉ですな。) で、巻頭言を書くときには、田崎が言ってたことだと書きつつも、ついついご自分の言葉で危機感を表されたのだと解釈しております。 どちらかといえば、名誉なことです。
ぼくがひとこと言っておきたいのは、「『面白い、面白い』と言ってやっていること」という部分なのであります。 たしかに「面白い」だけじゃだめかもしれない。 特に皮相な意味で「面白い」とだけ言ってやっていたんじゃ、すぐに堕落するとは思う。
でもね、
でもですね、
そういう話以前に、
今の日本の物理の研究者 --- 駆け出しの人とか学生さんとかは除いて(なぜ除いたかは、あとで説明)しっかりとしたポジションで堂々と研究している研究者ですが --- の仕事を遠目に見ていて(←国内にいても遠目かよっ、とつっこまないでください(でも、実際のところ遠目なのです))素直に感じるのは
おまえら、本当に面白いと思ってやってるのかよ?という疑問です。
まず、言わずもがなといはいえ、やはり言っておくべきなのは、物理 --- とくに、われわれが学部や大学院で学んだ物理 --- というのは、もう猛烈に面白いということ。 この logW は物理畑以外の方もたくさん読んでくださっているようなので敢えて波風を立てますが、「はいはい、それはそうでしょう。物理でも何でも、一つの学問をじっくり学べば、それはそれは面白いですよね」などという似非民主主義を語っているのでは、断じて、なーい!! 申し訳ないけれど、物理は特権的に面白いのですよ。 現実の自然のいくつかの局面と猛烈に深く精緻に向かい合い、そこから真に驚くべきストーリーと論理を読みとっていく。 ぼくらは、ニュートン方程式が惑星の運動と落体の運動をまとめて解き明かしてくれる威力に感嘆し、熱力学において不可逆性が定量的に把握される神秘に驚き(←ただし、佐々さんやぼくの教科書で勉強した場合だけどね)、量子力学の論理のあまりの非直感性とその実験的必然性に打ちのめされ・・・。 もう、それはそれは強烈な体験で、ぼくらは皆物理のおもしろさに心底しびれきってしまう。
そういう風に物理にしびれた人たちの一部が大学院に進み、さらにそのまた一部が研究者として物理に接しながら生きていく道を選ぶ。 そうなってくると、当然、しびれているだけでは駄目で、自分なりのやり方で物理に貢献していく必要がある。 すると、自分がおもしろがってきた物理と、自分が作り出す物理の明らかなギャップに直面して悩むことになる。
たとえば、大学四年生くらいで物理の研究に参加することもあるけれど、この段階では、自分で手を動かして自分なりの世界を自分の目でみることができれば、もう、それだけで十分に感動してしまう。 これは、別に悪いことでも何でもなくて、ともかく自分の足で物理の世界を歩くというのは感動物の体験なのだから素直に感動すればいいのである。 大学院くらいになると、少し余裕も出てくるから、なるべく深みのある物理をやりたいと思うようになってもくるが、だからといってすぐに難問に挑戦できるわけでもない。 そのあたりのバランスをとりながら、たとえ細かい事でも、自分なりの問題設定で何かの問題が解決できれば、素晴らしいし、大いばりできると思う。 でも、だんだんと大人になってプロになって「偉く」なってきたら、たとえば、一流といわれる大学で研究室を構えるくらいになったら、やっぱり自分なりのささやかな結果じゃ満足できないのが正常なのじゃないのかな? 自分が憧れてきた物理に匹敵するものを生むのは猛烈に大変だけれど、でも、それに少しでも近い物を生み出さない限りは、真に面白いなどとは思えないのじゃないだろうか? プロとして物理に向き合って一流と言われるくらいになっているなら、そういう心持ちでいるのが当然じゃないかと思うのだが。
要するに、
プロのなってくれば、自分の仕事を本当に面白いと思えるのは、よほどのことだぞといいたいわけだ。
重箱の隅には重箱の隅の面白さがあるんでしょう、っていう人もいる。 でも、重箱の隅をつついて得られる面白さは、自己欺瞞の面白さに過ぎない、とぼくは思う。 正直になってみれば、実は心の底から面白いと思っているわけじゃなくて、ともかく、「自分はこの程度だしこういう時代だし浮いたことは考えちゃいけないんだ」と自分をなだめて、ほどほどの面白さに妥協しているんだと思う。
というわけだから、ぼくは自分と同世代や少し上の世代の多くの「一流」の人たちの仕事を(遠目にだけど)見て、
この人たちは、本当は面白くないに違いないと結論しているのですよ。
実験にしても理論にしても、既存の物理のネタをいっぱい詰め込んで、曲芸のような仕事をして、けっきょく秀才的に予想通りの結果がでました、なんていうノリでやっていて面白いわけがない。 そういう人たちは、いろいろな事情で、その分野のそういう方向で仕事をするようになり、ほどほどに成功した結果、分野を引っ張る立場にあるとかいうことになってしまったので、もう面白くなくても、仕方なく、職業人として、そういう研究を続けているのですよ、きっと。 なんか、そうとしか思えない人ってけっこう多いのだ。 (あんまり詳しく書くのは何ですが、大学院の途中くらいから、物理への素朴な憧れを「封印」して妙にサラリーマン的に生きるようになる人を、少なからず見てきた気がする。 そして、(その一部は)そのままの生き方を続けて「一流」になってしまう・・)
以上の話を裏返せば、逆に、「本当に面白くなるかもしれないぞ」と心の底から感じて仕事ができているなら、まずは、合格としていいのではないか、ということになります。 (もちろん、それでも多くの「一流」が不合格になりますが。)
というわけで、ようやく、秋光巻頭言の
・・・多くの物理学者が「面白い、面白い」と言ってやっていることが実は・・・に話を戻すとですね、ぼくとしては、
この「面白い、面白い」が自分を偽らない本物の「面白い、面白い」であるならば、ともかく、「紙の山」なんて言わずに許したいと思います。 あるいは、
科学者が、自分の人生のプライドをかけて「面白くなりそうなんだ!」と言えるなら、それは基本的に認め合って、その先に何が来るかをみんなで期待しようとも言いたい。
(厳しいけれど、根本的には)楽観的な立場といっていいでしょう。 ひょっとしたら、おまえはまだまだ甘いと秋光さんにしかられるかもしれない。 (パーティーの時はしかられなかったけど。) しかし、それが今のぼくの考えです。
そして、もしこの楽観主義が通用しないということになるなら(その可能性はある。通用しない理由としては、科学の本性がそういうものになってしまったというものと、研究者の質があまりに低下して「面白さ」の感覚がインフレをおこしてしまうということと、二つ考えられる)、基礎科学の将来は猛烈に厳しいものになると恐れます。
じゃあ、おまえ自身はどうなんたよっ??という有形無形の厳しいつっこみの嵐に自らをさらすこととなるでありましょう。 これだけ偉そうに言った以上は、自分のことについても何か書いておかねばなりますまい。
ええと、なんですなあ、
あれですねえ、
と、急に筆が鈍るわけだが、
最近のことを具体的に思うと、Hubbard model の仕事は胸をはって面白いと言えるつもりだけど(世間的にはさして認知されていないんですが、ま、歴史の長い問題なので焦ってはいないのだ)、この問題はその後は行き詰まっている。 第二法則がらみの再発見+わずかな貢献は、ま、まだ面白いのと面白くないのとの中間あたりか。 これからのがんばりようでどちらかに転ぶわけだけれど、非弾性衝突とか、散逸の起源とか、マクロ系の特徴付けとか、そういうことも地道に続けて粘らなくては、次の(より面白い)局面には進むまい。 そう思っている割に論文も書きかけのままだし、いかんなあ。 「雑感」読者には耳タコの SST(定常状態熱力学)は、最初の頃は猛烈に面白かったし、Sasa-Tasaki は、今みても面白いなあと思う。 できることとできないことの狭間を絶妙のバランス感覚で進んでいるという実感があったから。 ただ、そこを越えようという次のステップは、なかなかに苦しい。 Sasa-Tasaki の設定そのままに熱伝導そのものに焦点をあてようと思うと、課題が難しすぎて、けっきょくは空回りしたりくだらないことをやってしまう、という、かつて(既になくなったらしいが)フクザツケーに向けていた批判が自分に戻って来かねない状況。 かといって、driven lattice gas などのモデルの上に座り込んでしまうと、一気に志が矮小化し重箱の隅にも劣る無意味に陥るおそれが常にある。 けっきょく、何一つ生み出せないリスクを承知の上で、両者を行き来しながら、知見を高め、ブレークスルーを呼び寄せるか、第三の道を見いだすか、しかないのだと思うが、正直なところ、苦しい道のりです。 ふうう。
というわけで、面白いと心底思える仕事をしていくのはやはり大変なことですが、とにかくがんばろうと。 (な、なんと、凡庸な結論・・・)
本日、江澤洋先生が学習院の理論物理学研究室を去られた。
奥さんとお二人ですべての片づけをすませ、大学を後にされた。 最後に、南一号館の横でお会いし、なんと言っていいのか、言葉につまってしまった。
江澤先生について、思うところは多いが、少しだけ。
そもそも、ぼくがこれまでの十年と少々のあいだ、学習院で好きなように研究をすることができたことについて、もっとも感謝すべきなのは江澤先生なのだと思う。 しかし、ぼく自身の研究者としての(それほど長くはないが、だんだん短いとも言えなくなってきた)人生を振り返ると、学習院以前の学生時代から、江澤洋という人物の存在は重要な意義をもっていた。 彼の書く圧倒的に良質の解説を通じて、ぼくらは場の量子論をはじめとする無限自由度系に対して数理的にアプローチすることが可能であり、そういうことを一生懸命やっている人たちがいることを学んだ。 それ以上に、そもそも、日本という国で、数理物理学を追究していくことが可能だということを、彼の書いたものから学んだと思う。 これは、何にも増して貴重だった。
最後の片づけのことを思うと、時々、大幅な片づけや不要物の処理をしておくべきだなあ、と突如部屋及び周辺の片づけをはじめてしまう。 疲れたが、収束せず。
一方、つっこみの勢いで書いてしまった最後の方は、あまりに基準が厳しすぎて発言が無意味になるというご指摘を受けた。 というわけで、例によって公然とこっそり、最後の方のトーンを少し弱めてあります。