茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
写真は、8 月の物理サークルの合宿(2010/8/11)に参加したとき白馬で撮ったもの。
例年、年賀状をつくるとき、その年の写真をざっと見て、適度にイベント性にあって、ぼくがちゃんとうつっている一枚を選んで使っている。 ところが、今回は、なんとぼくが一人でうつっている写真はこれ一枚しかなく、選ぶ余地もまったくなかったのであった。 なんともイベントに欠ける一年だったということか。
まあ、真面目な話、イベントなどどうでもいい(というより、別に、年の変わり目などどうでもいい)わけで、自分で満足できて楽しめるようしっかりとやりたいと思う所存ですので、どうかよろしくお願いします。
いま、流行の先端を行くナウいヤングのあいだでもっぱらの話題なのが、ツイッター! 時代はついったーじゃ!!
というわけで、わしも時代に先駆けて Twitter のアカウントを取得したのであるのである。しゅごいだろ。
と、言っても、他人のを読むためだけのアカウントです。
主に物理関連の若い人の書いていることをなんとなく眺めようと思ってます。
というわけで、自分ではな〜んも書きません。
Twitter の正しい使い方ではないんだろうけど、でも、あそこに書こうという気はおきないので、お許しください。
こっそりフォローするのも申し訳ないので、ちゃんと本名で登録しております。 ユーザー名も HalisFollowingYou とか説明的なものにしようと思ったら長すぎたので、HalFollowsYou にした。 でも、こっちのほうが、なんか地味について行っているっぽい感じがでていて、かわいいかも。
明日からちょこっと会議などの雑用が入り始めるので、今日がいわゆる「仕事納め」だな(というのは去年も書いた気がする)。
朝、屋上にあがると富士山があまりにきれいだったので、iPhone で写真を撮ってみた。
目で見ると、真っ青な空を背景に富士山がまぶしいくらいに白く光っているのが、東京の雑然とした家並みの彼方に見える。 実に素晴らしいのだが、なかなかその空気は伝わらないね。 まあ、あんな小さなレンズでデジタルズームなんだから、これくらい撮れれば十分かな(家人はちゃんとした一眼レフを持っているので、借りればいいんだろうが)。
もう一つ、隙間を埋めるように高いビルが建てば、わが家から富士山は見えなくなる。 「富士山が見えるのも今のうちだね」と言いながら暮らしているのだが、なんだかんだで、十年近く「絶妙の歯抜け状態」が続いていることになる。
どちらの分岐を選ぶかは、あまり信頼できない一部の人たちの手に完全に委ねられている。 ぼくたちはその行方をそれなりに気にして過ごしていた。
そんなある日、ふと
「これから屋上にあがって、富士山が見えれば、物事はうまい方向にいくぞ」という気がした。
アホみたいなんだけど、ぼくは、結構そういう「願掛け」っぽいこと(ちょっと「願掛け」とは違うか?)が好きなのだ(ぼくのことをすごく可愛がってくれた母方のおばあちゃんの影響かもしれない)。 もちろん、単なる「精神的な遊戯」に過ぎないわけだけど。
それで、屋上に上がってみると。 おお! 冬の寒い空を背景に、富士山が見えるではないか。
実にきれいだ。
そうです。今、みなさんが生きているこの時間線は、ぼくらがあの時に思い描いた「ほぼ、どうしようもない未来」のほうの分岐なのです。やれやれ。
もちろん、統計物理学の研究が滅びたわけじゃないし、その後も優れた若い人は現れているし、ぼくたちだって、この状況の中でできるだけのことをやってきたと思う。 それに、考えてみれば、学問の場でもっともっと悲惨な選択がおこなわれた例はいくらでもある(し、これからもいっぱいあるだろう)。 だから、まあ「ほぼ、どうしようもない」と言っても、本当にひどいってわけじゃない。 ぼくは未来への希望もしっかりと持ってがんばっています。
やっぱり、富士山の占いは当たっていて、今の時間線こそが本当の「うまい方向」だったのかもしれませんね・・・
富士山がなんと言おうと(←いや、なんも言ってねえし)、あのときの洗濯じゃねえ選択をした連中は(少なくとも日本の基礎的な)物理学に対する犯罪者に等しいと、ぼくは今でも信じているのであります。
フォローしてくださっても、ほんとうに何も書かないですよ。
夕方から所用があって出かけるので、それまでは地味な仕事をしよう --- というわけで、家にこもってひたすら「イジング本。」の作業。 とはいえ、どうも能率が悪いのお。
実は、最近はかなりこの本の作業が進行している。 基本的に、乗り越えるべき山はすべて乗り越え終えた。 先日からは、本の先頭に戻って、体裁を整えたり全体の整合性を確保したりする作業に入っているのだ。
なにせ、いつ書き始めたかは考えたくないほど、ずっと書いている。そうなると、やっぱり整合性の問題が色々と出てくるのだなあ。
たとえば、TeX のマクロの使い方についての二人の思想もかなり変化してしまったし、そもそもマクロを定義したことを忘れてしまうので、同じことを表現するマクロが何通りも定義されて使われていたりする。これは、かなり汚い。 とはいえ、まあ、そんなのは「内蔵」の問題なので気にしないでいい。
中身に関わることでも、たとえば、初期の計画では臨界指数は最低限の α, β, γ, η だけ定義して話を進めるつもりだったのが、やっている内に気が変わってきて、指数 δ や非線形磁化率の指数Δが途中のセクションに急に定義してあったりする。 これじゃ、やっぱり汚いから、はじめのほうの平均場の解析とか、臨界指数の定義のところをちゃんと修正して、これらの臨界指数も同じように扱ってやらないといけない。などなどなど・・
こういうところを丁寧に親切にやらないと、やっぱり、本としてダメだと信じている。 だから、やろうと思って立ち向かうわけだけど、なんというか、こういう仕事は面倒は面倒なのだけれど、本当に頭を使うような大仕事じゃない。 大変な割りには喜びや充実感に欠ける作業と言ってもいい。 そうなると、なかなか燃えなくて、どうも能率があがらないというわけだ。
で、つい、日記を書いてしまうわけだが、それではいけませんな。 出発までまだ時間があるので、ちゃんと働きましょう。
さて、休みに入るとひたすら仕事に集中して、通常の大学業務になかなか復帰できない・復帰したくないのはいつものことなのだが、今回の休みは、特にそれが顕著だった。 特に「イジング本。」にいよいよピントがあって、ばんばんと仕上げ作業に入ってきたので、それを中断して雑務をやるのはイヤじゃイヤじゃ --- というわけだ。
実をいうと、すでに 7 日には、朝から大学のかなり中枢の人たちが集まる打ち合わせ(例によって男性は全員が背広にネクタイだった、ぼく以外)に顔を出し、午後には主任会議。さらに、本日は、理学部パンフレットの打ち合わせ、主任会議から教授会への提案の(締め切り寸前の)作文、そして、教授会という具合に、いやが上にも雑用がやって来ている。 しかーし、それぐらいであっさりと雑務モードに戻る私ではないのである。 こういう雑務は、ある種の一発芸的にその場でピントを最大限にあわせてこなせば十分なのであって、ガチ仕事モードは決して解除されないのであった!
のであったが、しかし、講義は別格なのだなあ。明日は「量子力学 3」の最後の講義。 これは、きちんとやらねばならないから、ちゃんと集中するぞ。
と思っていると、M 君の卒業研究が(ぼくは何もしないうちに)またしても非自明に進んでおるではないか。 まずは、そっちを聞いてから、講義の準備じゃ!
「量子力学 3」の最後のほうは「量子力学の本質」というすごいタイトルを掲げて、「ベルの不等式と局所実在論」についてかなりしっかりとした(かつ、きわめて分かりやすい!)解説をした。
われわれの世界は(どんな理論で記述されるにせよ、記述されないにせよ、ともかく)何らかの局所実在論で記述されることは決してないというのは、すさまじい命題だ。教えているだけで、ぞくっとするような興奮と静かな戦慄を感じてしまう。
今日の最後の講義では、このあたりを強調したあと、「量子ゼノン効果」をもっとも簡単な例で解説し、さらに、量子力学における観測の位置づけや「シュレディンガーの猫」の話題など。 角運動量の合成や摂動論などのハードな計算をしっかりとやった上で、こういった「量子力学のセクシーな部分」を(これも、もちろんきちんと)講義するのは無上の快感である。
最後は、いつも通り時間が足りなくなるわけだけれど、それでも時間の許す限り(ていうか、時間オーバーしながら)
この世界に生まれて来て、量子力学を知り、この世界(の一部)がわれわれの想像力をまったく越えた仕組みで動いているかを理解するのは、真にすばらしいことだといったことを一生懸命に語りながら教室に並ぶ顔を見回す。 みんな、けっこう素直に「そうだ」っていう顔をしてくれているように見えたぞ!
そして、もうすぐ 80 歳になろうという、履修生の S さんもしっかりとうなずいてくださっているのを見ると、やはり、うれしい。 すべてのお仕事から引退された後、S さんは「残りの人生で物理を、量子力学を学びたい」とおしゃって学習院にいらっしゃった。 基礎の数学や力学も含めて堅実に学び、ぼくの数学の教科書の(誰もやらなかったような面倒な)例題をしっかりと解いて教科書のミスまでみつけてくださった。 すでに S さんには、数学や統計力学の講義を聞いてもらっているが、今回、かれの一つの目標である量子力学をぼくの言葉で伝えることができて本当によかったと素直に感じる。 今さらだけど、やっぱり、ぼくは教えるのが好きなんだなあ。
来年度の卒業研究の研究室を決めるための、研究室紹介。
主任として会を仕切るだけでなく、研究室への配属を決めるための手続きの説明など。
研究室への配属を決めるのは、主任の仕事のなかでも、もっとも気を使うものの一つなのだ。 「ぼくらの物理学科に『ハズレ』の研究室なんてない。どの研究室に行っても、絶対に充実するから、深く考えすぎるな」としつこいくらいに強調し、さらに「かの(F1 回転分子モーターの仕事などであまりに有名な)安田涼平さんは卒業研究の研究室を決める『くじ引き』に落ちまくった末に希望していなかった生物物理の研究室に行ったところあれよあれよと世界のトップになってしまいました」という有名な故事(?)を語って聞かせたりするのだが(検索したら、このインタビューでご自分で話してますね)、それでも、少なからぬ学生さんたちがどの研究室に行くかでナイーブになっているのは事実。 みんなができるだけ気持ちよく研究室に所属できるよう、精一杯がんばろう。
そういう気負いもあるのだろうけど、会が終わったら、妙に疲れてしまった。
学内の様子も随分と変わった、あ、でもここは変わっていない --- などと話しながら歩いていくと、ほら、そこの自動販売機の前あたりに、入学して間もない S さんとクラスメートが集まって楽しそうに話しているところにぼくが通りかかって他愛もない会話を交わしたことをありありと思い出した。 もう 6 年以上も前のことか。びっくりだね。
M 君の卒業研究が非自明に進んでいる。 こうなってくると、得られた結果をもっと広い文脈のなかで位置づけ、ここから先にどう進むべきか考察する必要がある。 しかし、扱っているテーマに関して、ぼく自身、周辺の知識は十分でないし、そこまでしっかりと見通す力はないのじゃ。
まあ、こういう状況は珍しくないわけで、普通は、学生と指導教員で一生懸命に文献を学んだりして、なんとか進めていくわけだけど、実は、ぼくらの場合、「元ネタ」になっている論文の著者で、このテーマについてはもっとも深く理解している沙川さんがすぐ近くにいらっしゃるのだ。 議論していただくことになり、しかも、本来なら教わる立場のこっちが出かけてくのが筋なんだけど、目白までやって来てくださった。 ありがたいことである。 せめてお茶をいれて、お菓子を出しておもてなしするのじゃ(←あ、それ、昨日 S さんが持ってきてくださったお菓子では・・)。
でも、こうやって当初の予定とはぜんぜん違う方向の話が進むのは、なんといっても楽しいよね。 いつも言っていることだけど、理論物理学にとって最良の環境とは、
沙川さんが帰られた後は、部屋に戻って、沙川さんが黒板でやってくれた計算を、ぼくなりに分かっている式から出発して自分で再現する(ゼミのとき、「ここで計算して出した結果を、ゼミのあとで、何も見ないで自分でゼロから計算して出し直すと、ものすごく有効だよ」としょっちゅう言っているが、ぼくもちゃんと実行するのだよ)。 ふう。ちゃんと同じ結果が出たぞ。 学生の気分だけど(ていうか、このテーマについては、ぼくは素直に自分が学生だと感じている)悪くないものだ。 謎だとしか思えなかった QC-相互情報量についても、実は、急に霧が晴れるように分かった気がしている。わーい、うれしいな。
さて、Twitter である。
6 日にアカウントを取ったと報告したけれど、その後、どうなったか?
いやあ、「人のを読むだけで、自分では書かない」と宣言したけれど、つい書いてしまうと、もう止まらなくなって中毒状態。 Mac だけじゃなくて iPhone でも読み書きできるから、もういつでもどこでもついった〜。ちょっち抜粋すると、
といった具合である。 やあ、気楽に書けて本当に楽しいよねっ!
また、そのうちゆっくりと理由を書くかもしれないけど、やっぱり、あそこに自分の考えとか研究のこととか風呂に入ったこととかを書く気にはならないのだ。 (ごくわずかな)他人の書いたものを読むのだけに使うつもり。
ただ、複数の人から、せっかく Twitter のアカウントを作ったなら、せめて「日々の雑感的なもの」の更新情報を Twitter でつぶやいてくれという、おそらく至極まっとうなご意見をいただいた。 たしかに、未だ旧式の web 日記であり、RSS も出していない(「なんでも RSS」は動いていないみたいですね)のだから、そういったことをして読者を得る努力をすべきなのかもしれない。
というわけで、「何も書かない宣言」を破ることになるけれど(←へっへっへっ、一度でも約束を破ればあとは落ちるばかり。「トイレ行きたいなう」とか書く日も近いぜ(悪魔の声))、ともかく、この「日々の雑感的なもの」を更新したら、そのことを Twitter に書くようにしようと思う。 でも、そうなると、ユーザー名が HalFollowsYou では、つじつまが合わない。 考えるに、Hal Tasaki's logW の時間変化についての情報を与えるのだから、
Hal Tasaki's dS/dtというのが、もっとも適切に思える。 なんせ entropy production は最重要な研究対象でもあるしなあ。 ただ、これは Twitter のユーザー名としては長すぎるみたいなので、趣旨を汲んで、
HalTasaki_Sdotを新たなユーザー名とした。 今後は、logW の更新のお知らせ(と、わずかな人の tweets を読むこと)に Twitter を利用いたします。
プールカードを見ると、去年の最後は 10 月 6 日、11 月 4 日、12 月 2 日と月の初めに一回ずつプールで泳ぐペースになっている。週一回とは行かなくても隔週くらいでは泳ぎたいので、月一回はまずい。
で、今月はすでに後半になろうというのに、まだ一度も泳いでいない。これは、いよいよまずいではないか。
けっこう朝からちゃんと働いてちょっと余裕もできたし、今週の予定を考えるだに、プールに行けそうなのは今日くらいなので、これは行くしかないと自転車に乗って、大学の近くのプールに行くと、今日は一般公開はやっていないと言うわけだが、しかし、ここまで来て引き下がれるものではないわけで、そのまま自転車をこいで池袋へと向かい、久しぶりに駅の近くのプールへ --- と一気に書くと 171 文字で、やっぱりおいらは Twitter には書けねえぜ。
自転車で再び大学に戻り、仕事に復帰。 もちろん、(移動や着替えを含めて)二時間近い時間を使ったし疲れもしたが、なにか根本的なエネルギーみたいなものは確実に高まるという自覚がある。
誰でもそうなのだろうけれど(←と書いたけど、そうなのかどうかまったく知る由もないことに気づいた)、自分の昔の仕事が主要文献として引用されている論文にはつい厳しくなるのじゃ(もちろん、本当にいい仕事なら、ちゃんとほめるけど)。
ひょんなことで、しばらく病気で療養している知人の近況を知ることができた。 ネットの恩恵だ。
それほど親しかったというわけではないが、交わしたいくつかの会話の印象はつよく残っている。 ぼくのほうがかなり年長なのだが、いつもぼくが質問してかれに教えてもらっていた気がする。 落ち着いた態度でじっと何かを深く見通すように考えてから返ってくるかれの答えには重みがあった。
急病の知らせを聞いた日から、色々なおりにかれのことを思い出し、ぼくなりに案じてきた。 いま、ご家族の暖かくひたむきな看病とかれの回復の様子を、短いつぶやきを通して初めて拝見し、あのとき最悪の事態に至らなかったことを改めて喜んでいる。 そして、できれば、またお会いして色々な話をしたいとも思っている。
神も仏も信じていない私ですが、時折、かれのことを思い出して祈っています。 月並みなことしか言えませんが、どうか、ご無理をせず、がんばってください。
ばたばたと細かい用事があって時間がたりない。 お昼の時間を節約すべく、朝、目白の駅前のパン屋さんでパンを買っておいた。 コロッケパンと、あと、その場で焼き上がったのをお姉さんが運んできた「トマトソースと○○チーズを白パンで包んで焼き上げた××××」というの(←単に覚えていないだけなのだが、なんか、やばい物みたいに見えるね)を選んだ(あと、家にあったレーズンパンも持ってた。ま、どうでもいけど)。
で、教室会議の準備やらをしたところで、コーヒーをいれて、さあ食べようと、トマトソースとチーズのパンを一口食べた瞬間、頭が軽くクラッとして、小学校 4 年生のときに通っていたアメリカの小学校が「出現」した。 たまたま、トマトソースのスパイスとかチーズの種類とかの絶妙の組み合わせが、アメリカの小学校の食堂(←生徒一人一人がトレイをもって好きな食べ物を注文してよそってもらうという、ゴージャスなお昼だった。日本の給食との差はすさまじかった)の何かと酷似していたのだろうね。 学校の横に広がる蒼い芝生、煉瓦の壁の校舎に入ったときの独特の冷やっとした空気の匂い、教室の壁のコルクボードにとめてある派手なさまざまな色の(お知らせなんかの)紙、食堂の外を通るとき換気扇から吹き出てくる様々な料理の派手な匂い --- なんかが、一瞬のあいだに、ものすごく生々しくよみがえってきた。 久々のプルースト的体験だけど、こんな鮮烈に、しかもアメリカでの小学校時代が帰ってきたのは初めて。 ラベンダーの香りで時をかけてしまう気持もよくわかるというものである。
二回目の(つまり、本番の)志望届のあとは主任(=ぼく)が個別に調整した。 当初は解がないのではとあせりかけたれど、学生・教員双方のご協力をいただき、きわめて上手に全員の配属が決まった。
みなさん、どうもありがとうございました。
これで、主任としてもっとも気を使う仕事も終わって、心底ほっとしている。 次の大きなイベントは卒業研究と修士論文の発表会だ。
ぼくは大学 3 年生で、どこの研究室で卒業研究をするか迷っている。 自分は一生ずっと理論をやって過ごすことになるだろうから、どうせだったら一年間くらい本気で実験をやろうと考え、(なぜか)生命科学の先生のところに行って、そういうことを相談している。 今、自分の研究の状況をみると、非平衡熱力学の仕事はかなり行き詰まっているし、電子系の強磁性の研究も次のステップに向けてアイディアを蓄積している段階だから、しばらく気晴らしも兼ねて実験をするのもちょうどいい時期ではないかなどと考えている。というのが、今朝方、目が覚める直前にみていた夢。
自分の状況を激しく勘違いしている気がするが(しかも、ぼくの出た学科では一年間の卒業研究はなかった)、それでも、ぼくの理論研究の現状の部分については正確で現実そのものである。 そのためか、目覚めて、これが夢だったと分かってからもしばらくは、自分は卒業研究で実験をやるんだと思っていた。
この夢のことを何人かに話したら、一様に「精神年齢が若いのはいいことですね」と言ってもらえた。 ほめられているのか、適当に調子を合わせてくれているのかはわからないけど、まあ、いいことなんだと思うことにしよう。
数理物理・物性基礎セミナー(第7回)
日時:2011年1月29日(土)14:00〜17:30
場所: 学習院大学 南 7 号館 101 教室
齊藤 圭司「カオスの量子古典対応問題」
次回の数理物理・物性基礎セミナーは、私の友人かつ共同研究者(←論文書かなきゃ)の斉藤さんです。
量子カオスは誰もが気になる問題なので、入門から聞けるのは絶好のチャンスだと思います。
ところで、当日、学習院で昼食をとる場合、学食以外に、中央教育研究棟(いちばん新しい建物)の1階のサブウェー、12 階の日比谷松本楼(ランチは 1000 円くらい)も使えると思います。
その後、Twitter の情報網ではまったく把握していなかった人たちがぞくぞくと訪れ、セミナーはすばらしい盛会になった。
齊藤さんのセミナーはお世辞抜きでたいへん面白かった。 2 時間を越す「前半」で、問題設定(量子カオス系の form factor (だっけ?) K(tau) (状態密度の相関関数のフーリエ変換)がランダム行列から得られる類似の量と一致することを示したい)をしたあと、Gutzwiller formula の導出をかなり丁寧に説明し、休憩をはさんだ後半では Gutzwiller formula から K(tau) を如何に評価するかのアイディアを次々と説明してくれた。 前半は教育的で頭を使ったし、後半のスピード感は爽快だった。 Berry の最低次の近似だけでも十分に面白かったが、次のオーダーの補正をだすための Sieber と Richer の結果(とそれに続く流れ)は素晴らしい。 基本的なアイディアを示す八の字の軌道の模式図を見た瞬間、これは「自分の研究と関係あろうがなかろうが、この話を聴けてよかったと思える素敵な話」の一つだと直感して思わずゾクッとした。楽しい。
困った。
左の写真を見ていただくとわかると思うのだが、発売以来ずっと使っている MacBook Air のディスプレイの蝶番の部分が壊れかけている。 しばらく前から、ディスプレイの開け閉めの際に、ピキピキというような危うげな音がしていたのだが、構わず開け閉めして使っているうちに(ラップトップは閉じてコンパクトになるから重宝するわけで、当然、使わないときは閉じる)急激に蝶番の具合がおかしくなり、ついに、ベキベキッと音がして、左側の蝶番が本来の位置から大幅にずれてしまい、シャフトを格納しているとおぼしきプラスティックに激しく亀裂が入ってしまった。 考えてみると、以前使っていた MacBook Tintanium も、本体は全く健全なのにディスプレイの蝶番が壊れてグラグラになって使えなくなってしまった。 そんな無茶な使いかたはしていないはずなのだが・・・
しかし、この浮いた蝶番を見ていると、これを力尽くでもとに戻せばパチンと本来の位置にはまって、元通りになるのではないかという気がしてくるであろう。 ぼくもそういう気がしたので、少し力を入れてディスプレイを押し込んでみた。 すると、またしても、ゲギゲギというイヤ〜な音がした。そして青ざめた。
あ、青ざめたのは、ぼくじゃなくて、MacBook の画面ね。
全体が青い変な色になって画面がギロギロしている。 ついに、本体とディスプレイをつなぐケーブルが破損しかかっているのだ。こりはやばい。
修理(?)はあきらめて、ディスプレイの角度をそっと調整して、なんとか色が戻る微妙な位置を発見。
これ以降は、決して、ディスプレイを閉じないことにしたのだ。
嗚呼、だがしかし。
すごい論文を読んでいるうちに、完璧にそっちの世界に引き込まれてしまって、MacBook がやばい状態にあることも何もかも忘れてしまった。
「おお、これはすごい。しばし読むのをやめて頭のなかで整理せねば!」と思って、いつもの癖でバチンとディスプレイを閉じると、ガゴゴゴガと破滅の音がして、ディスプレイの蝶番が完璧に壊れた。 ディスプレイの手応えが完全におかしく、ついに完全に外れてしまった感触。
失敗だ。おしまいだ。これで MacBook を使った作業はできなくなってしまった!
と絶望しかけながら、本体から離れたディスプレイを見て、ぼくはまず我が目を疑い、そして、何がおきたかを理解したとき Apple のおそるべき技術力を心から褒め称えた。
これぞ、ジョブス一流のどんでん返しの大逆転だ。
右の写真を見ていただければわかるように、な、なんと MacBook のディスプレイは、本体から切り離されても立派にページを表示し続けている上に、驚くべきことに、画面を軽く触ってやるだけでページめくりもできるし・・・ って、もういいですよね。すみません。
だあああ、よく働いたぞ。
朝は目覚めてからもしばらくベッドにいて、連続系の強磁性についての妄想をさらに進める。 どうしようもない初等的なレベルで間違いまくりながら、めちゃくちゃ初歩的なモデルをいじろうとしているのだが、はっきり言って、こういうアホに徹する段階というのは、ものすごく楽しいのだ。 それから、洗濯をしたり(←妻は朝一番で仕事に出てしまったのだ)イジングモデルの本の作業をしたり。早めのお昼を食べてから大学へ。
少しだけ雑用をした後、3 時限目は「量子力学 1 」の試験監督だ。
教室に入っていって「みなさん、こんにちは〜」とやると、みんな大声で「こんにちは〜」と返してくれる。 「おお、元気だな。ご褒美に 10 点アップしようかな?」というとみんなわーっと大喜び。かわいいね。 ま、もともと 110 点満点でつけるつもりだったんだけどさ(今年は過去問もないし)。
監督中は、まず(ぐっとガマンして)自分で試験問題を解いて採点用の解答をつくる。それから、齊藤さんとやりかけている量子系の拡張クラウジウスについての齊藤さんのまとめを読み直し、あと、ずっと読みたかった Smirnov の 2 次元イジングの共形不変性の論文(このあいだのフィールズ賞の業績の一部)を少しだけ読み進める。これは、ぼく自身の仕事とは絶対に関わることはない話なんだけど、でも、できればちゃんと理解したいとずっと思っているのだ。 前にパーコレーションの論文は読んだけど(2006/5/18)、かれの仕事には、なんというか、ぼくを異様にワクワクさせる色気があるんだなあ。 ぼくが数理物理学者になるきっかけを作った Aizenman の論文にもすごいマジックがあるのだが、それとちょっと似たところがあるかもな。 そうこうしているうちに試験終了。
少しだけ事務などにでかけて用をすませ、家からもってきたアンパンを食べたところで、さっさと採点を開始。 こうやって試験問題が完璧に頭に入っているあいだに採点するのがもっとも能率的で、採点の時間を最短にして、研究時間を最大化するのだよ。 ただし、若い頃は、このやり方が能率的と分かっていても試験がおわるとどうしても(採点は後回しにして)研究を始めてしまっていたんだなあ。ガマンできなかったから。 これはきっと前にも書いたよね。
ひたすら採点し、夕方には禁断のカップヌードルで栄養補給をして、さらに採点。働くおじさんである。 9 時過ぎには採点表への記入も含めてすべての作業が終了。すばらしい。
合格率は、すごくよくもなければ、悲惨でもない。まあまあか。
標準的な初歩の量子力学の問題なので、もちろん、完璧な満点も何人かいたし、なんというか、しっかりと問題を把握して「量子力学のノリ」を会得している感じで危なげなく解いてくれている人がけっこう多かったのはうれしいな。 こればっかりは高校の蓄積とは皆無だし、直前の詰め込み学習でどうなるものではないから。 あと、一年生のころの数学でけっこうギリギリで合格する点をとってた印象のある人が、しっかりと高得点をとっているのをみたりすると、なんか妙にうれしくなるよなあ。
これだけ働いたので、明日は、午前中はちょっとした会議に出るんだけど、午後からはぱーっと遊びに行くのだ。 うれしいな。 正確に言えば、某所に行ってセミナーを聞いたり議論したりするのでした。 では、寝なければ。おやすみなさい。