茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
一昨日と昨日は天気も悪いので家にこもって、斉藤さんとの共著論文を書いていた。 最後の展望のところがなかなか明快に書けないのだが(要するに、明快な展望がないからなのである! しかし、本当に未知のことをやる研究だったら展望が見えていないのは当然なのであるっ!!)、それ以外はイントロも含めてすべて論文の形になった。 実は結果はかなり前からできていて色々なところでアナウンスはしていたのだが、ついつい、きちんとまとめずに放置してあったのだ。 今月に入ってから斉藤さんと議論して再起動し、導出全体を見直して少し本質的な改良もした。 早々に論文の形にまとまって、めでたいことである。やっぱり講義がないと(入試とか色々あるんだけど、それでも)仕事が早い。
論文やまとめのノートの書き方は、同じ理論物理学者でも人それぞれである。 佐々さんみたいに、仕事を進めながら(のたうったり、絶望したり、腰を痛めたり、復活したりしながら)、どんどんリアルタイムで論文形式のノートを書いていく人もいるけど、ぼくはたぶん正反対だ。 論文というのは「作品」だと考えているから、基本的には、仕事が完成してその全体の姿が見えてから書く。 自分のやった理論は完全に頭に入っているわけだが、さらに、それを如何に人に伝えるかをしばらくのあいだ考え続け、その結果として、書かれるべき論文の姿も完全に「見えた」と感じてから一気に書く --- それがベストだと思っている。 もちろん、書き始めてみると、やはり「話のもって行き方」を変えたくなったり、複数ある導出のうちの別の物を見せたくなったり、新しい量を定義したくなったり、構成を変えたくなったりと、いろいろなことがでてくるのは事実で、そういうときには妥協せずにばんばんと計画を変更するのだけどね。 そうやって、まず骨格となる問題の定義や主要な結果や導出などをがっちりと書き上げる。 それが終わったところで、全体を読んで見たうえで、イントロダクションや展望を書いていくというのが、ぼくの最近の定番の書き方。
そう書くと、古典系での導出をそのまま量子力学に置き換えただけなのだろうと思われるかも知れないが、(わざわざ論文にするわけで)それほど単純なものではない。 もちろん、古典系でやったことを単純に真似するだけでも、量子系でも何らかの関係式を強引に示すことはできる(だろう)。 ただ、そういうことをやっても、量子系としてみたとき自然できれいな関係はなかなかでてこないのだ。 乱暴なことをいえば、古典系というのは、量子系の(密度行列の)非対角成分を捨て去ったようなものだから、量子系に比べるとずっと情報が少ないのだ。 情報が少ない古典系から情報のリッチな量子系に話を無理にもっていこうとすると、一般には、無限に近いさまざまな拡張が考えられるし、それらのほとんどは「量子物理的」に見て、美しも自然でもないということになる。
今回のぼくらの結果は、「KNST の関係式を、もっとも自然に美しく、量子系に拡張した関係式がちゃんと成立する」というもので、これはやっぱり激しく非自明だと思っている。 というか、こんな美しい結果が成り立つとは、ぼく自身は、できるまではまったく信じていなかったくらいなのだ。 最初は、斉藤さんが工夫して色々な「美しさも中くらい」のバージョンを作っていたのだけれど、あるとき、ついに一山越えて、この「考えうるもっともきれいな拡張」が可能なことがわかったのだ。 (ついでに書いておくと、それをやったのも斉藤さんで、ぼくは聞いていただけ。 今回の公開版の導出を作るにあたってはぼくも多少の技術的な貢献をしてはいるけれど、本質的には、これは斉藤さんのお仕事である。) もちろん、これによって非平衡系の研究が大きく進むとかそういうことはない。 物理的にも、すでに KNST 論文ででてきたのと同じ関係が出てくるだけなので、大きな驚きはない。 ただ、この斉藤さんのお仕事によって、拡張クラウジウス関係式の普遍性が高まり、「KNST のアプローチには、やはり、何かがある」と考える根拠が大きく増したことは、きわめて重要だと考えている。 特に、佐々さんが発見して、KNST 論文で発表された(猛烈に示唆的な形をしていて、一目でも見た人は誰もが魅了されるという)「対称化シャノンエントロピー」の対応物が、今回の仕事ではみごとに「対称化フォンノイマンエントロピー」になっているのは驚異的というより感動的だし、ものすご〜〜く示唆的だ。 こんなことを告白してしまっていいのかどうか分からないけれど、ぼくらは「対称化シャノンエントロピー」の意味を何年間も考え続けてもなかなか明瞭な答えがでてこないことに半ば絶望し「あの示唆的な形は、単なる偶然、あるいは罠なのかも」といった弱気な発言をすることもあったのだ。 しかし、量子版の拡張クラウジウス関係式にも、まったく同じ形の「対称化エントロピー」が登場するということになると、ぼくらが「単なる偶然」に翻弄されているという確率はぐんと低くなると考えてよい。 やっぱり、この形には、必然的な何かがあるに違いない! そう信じて、(実験との本質的な相互作用がないという致命的な欠点をなんとかしたいということが最重要課題であることは決して忘れないのだが)「対称化エントロピー」のもつ数理的・物理的意味を探るための道を模索する私なのである。 それが、より深く周到な「罠」への道だったとしても・・
さて、2 月も半ばを過ぎたということで、話題の Twitter である。
ちょうど一ヶ月前の 1 月 16 日の日記も同じような書き出しだったわけだが、 そっちを読んでいないという方は、申し訳ないけれど、軽く読んでいただいてからこの先を読み進めていただくほうがよいかと思う。
ご本人のためにお名前は伏せておくが、琉 K 大学の M 野 [ I もの物理学者] M 弘さんという方のように、日記の書き出しを少し読んだところで「なんだ、田崎さん、Twitter には書かないって言ってるからフォローしなかったのに、こんな書いてるんじゃないか」と思って、速攻で Twitter に切り替えて、ぼくをフォローしてみて「あれ? 書いてないぞ? おかしいな」と思って、また日記に戻って先を読んでみて完璧にだまされたと気づいたという、ある意味、舞台に置いたバナナの皮一枚で派手に転んでみせて大爆笑をとるといった高度なボケの芸のレベルに匹敵する見事なだまされ方をしてくださった方もいらっしゃったという話で、web 日記作家冥利に尽きるというものである。
実は、身近なところでは家族もひっかかってくれた。 日記を書いて少しした晩、ぼくがお風呂から出てくると、iMac の前で妻と息子が何か話している。 ぼくが近づいていくと、「なんだ、あなた Twitter 書いてるじゃない。」「書かねえとか言ってて、いつの間にこんな書いてるんだよ。」 「え、いや、あ、先まで読んでみて・・」という、絵に描いたような流れ。
あとで、息子に「いや、あれだ。『敵を欺くには家族から』というやつだ」と言うと、「なるほど、そうして家族を敵に回したというわけか」と即座に返されて、なごやかな親子の会話となった。
たとえば、
みたいなことなら、書きたいなって気になることがある(念のため断っておくけど、一つ目は冗談だよ)。若い人が「Twitter っていうのは、教室でなんかぼそっと変なこと言うと、隣にいた子がそれを聞いて何か言って、また、それを聞いた別の子がなんか言ってくれてっていう感じで楽しい」と言ってたけど、きっとそれは正しいんだろう。 しかも、その「ぼそっと言ったこと」は普通は(ゆるやかに)閉じた内輪のあいだにしか聞こえないのに、場合によっては、もうちょっと広い範囲に、時には、ものすごく遠くまで伝わりうるという、愉快な階層構造になっているわけだ。 そういう(自己組織化的に発生した)巨大で込み入った階層構造のなかに、無数の他愛もない発言が蓄積していくことで独自の新しい文化が生まれてくるのかもしれない。
確かに、それも面白いそうだなあとは思うんだけど、でも、ぼくは書かないみたい。 きっと、ぼくはすごく傲慢なんだろうね。 上に書いたみたいなしょうもない発言をするにしても、Twitter の言説の海の中にぶちこんで、もみくちゃにされ、流され去っていくのを眺めるのがイヤなのに違いない。 アホ発言だろうが何だろうが、自分の「作品」は、まとめて自分の管理できるところに置いておきたいんだろう。 まあ、それほど意味のある執着ではなく、単なる惰性と気分の問題なのはわかっているけど。
そうはいっても、少しずつ告知の回数も増えてきて、すでに tweets の数も二桁の大台に乗って、椎名林檎さんを大きく引き離し、ヘヴィーツイッターの仲間入りをしつつある私であった。 おまけに、「140 字以内で日記の宣伝をする」ということになると、つい、そのたびに色々と考えて、日記の内容紹介というか、CM というか、そういうものを書いてしまう。 最近は、どうせなら 140 字を有効に使おうと、日記へのリンクの URL(←短縮 URL は美観を損なうので使わない)も含めて過不足なくちょうど 140 字で書くことにしているのだ。 はい。意味ないし、アホだと思います。
そもそも 140 字ではまとまった発言はできない。 また、敢えて、140 字ごとに切って発信することにはまったく意味を感じない(長い文章を書くときには、読みやすくするために段落やパートに分けるべきだが、それは文章に構造を持たせるという constructive な作業である。単に決まった文字数でぶった切るのは destructive な作業であって、根本的に意味が違う)。 さらに、なんらかの文脈のなかでの発言だったとしても、とくに目立った 140 字だけが切り売り的に一人歩きして多くの人に読まれているのも、なんか、がっかりする。
それ以上にイヤなのは、Twitter では、人によって見ている内容が食い違っているので、コメントしたり議論したりしても、読んでほしい人に読んでもらえないだろうってこと。 たとえば、ぼくがよく分かっていることについてごく初歩的な誤解をしている発言があったとして(まあ、たまに、あるんだけど)、その人にぼくが(あるいは、誰か他の分かっている人が)コメントしたとしても、それを読むのは一部の人に過ぎない。適切なコメントがあっても、その存在も知らずに、多くの人がもとの発言を喜んで再引用していくということが、すごくありそう。 実際、それほど多くを読んでいるわけではないのに、すでに「いっけん賢くて深いことが書いてあるみたいで行間からも自信があふれているんだけど、ある程度わかっている人から見ればこっちが恥ずかしくなるくらい絶望的にレベルが低い tweet」と呼ぶべきものに(主に Retweet の形で)何回も出会っている。 web 掲示板だったら、分かっている人から速攻で指摘が入ると思うんだけど、Twitter ではそういう抑止力はきわめて弱いように見える。
ひとつのテーマについて、Twitter での複数の人の発言や議論をまとめたページというのも存在するわけだけど、ほとんどの場合、話の噛み合わなさたるや、学級崩壊した巨大幼稚園並だと思う。 「おまえら、お互いの話を聞いてんのか?」と言いたくなるけど、実際にほとんどの場合はお互いに聞いていないんだから、噛み合わなくて当然なのだ。 なにか真面目な主張をしたいと思う人は、この騒然たる学級崩壊した体育館の雑音のなかで、人に負けないよう声を張り上げて、140 字ごとにぶった切って、言いたいことを何度も何度も何度もくり返さなくてはならないようにみえる。 痛々しくさえある。 なんたる知性と労力の無駄だろう(議論はダメだと思うけど、よく分かっている人が、ぎりぎり足りない知識を補ってもらったり情報へのリンクを教えてもらったりという意味はあるだろうね)。 ちゃんと議論するためには、
「イジング本。」の査読可能バージョンに向けての見直しが、高温相をあつかった 6 章の終わりまで来た。
最後のたった 4 ページほどの小節の見直しと書き直しだけで、昨日と今日の丸二日を使ってしまった。
ここは、無限体積極限と微分の交換といった、きわめて技術的な内容をあつかっている部分で、まあ、多くの読者は読み飛ばすようなところなのだ。 ところが、ぼくらは書き直しのたびに新しい証明を書き直しているみたい。 こういう技術的なところは、かなり色々なやり方で証明できる。 これまで、「アドホックだけどきわめて初等的なバージョン」から、「ちょと高級な定理(ルベーグ積分の dominated convergence theorem)を使うかわりに汎用性のあるバージョン」まで、いろいろな物があって、既に記憶も曖昧だが、今日完成したのは四つ目とか五つ目とかそれくらいのバージョンのような気がする。 こだわる必要はないんだろうけど、ぼくらの本の読者にとって何が最良かということを模索して、改訂のたびに証明を直してきたというわけだ。
しかし、この手の技術的な証明は、内容(単に知識だけじゃなくて、特定のジャンルの証明をするための頭の使い方そのものも含む)が頭に完璧にロードされて空で証明ができるレベルにまで復帰しないと、ちっとも進まないということを痛感。 昨日やり始めたころはひたすら前のバージョンを読んだり紙に書いて証明したりしていたのだが、もう自分がアホになったんじゃないかというくらい進まなかった。 まあ、この手の証明は、かなり長いあいだ(二十年近く・・)やっていないから。 でも、そこは昔取った杵柄というやつで、夜くらいになると、家に帰る道で歩きながら証明したり、お風呂のなかで証明の続きをしたりするようになっきた。 まだ完璧なアホではないようで、ほっとする(と言っても既存の定理の証明を整備しているだけ・・)。 で、そういう風にリハビリが終わって、ようやく本格的に動き始めたという感じ。 時間の無駄と言えば時間の無駄のだが、他にどうしようもないのだ。 「頭の中の状態をどこかに保存し、またロードする」技術(イーガンにあったね)ができれば、理論物理学者や数学者には最高にありがたい。
今回の証明は、原が一回前に書いた「高級バージョン」を下敷きに、でもルベーグ積分に関わる定理はいっさい使わずに初等的にやろうという方針。 きちんと書いてみると、なかなかきれいにまとまって気持がいいです。
この調子で、低温相に突入して、どんどんと仕上げていきたいものである。
もともと大学と家の Mac でのファイルのやりとりを USB メモリだけでやるのは不安だったので、iDisk というのを使ってファイルをネット上に置いておこうというのが一つの目的。 ただ、同じようなことは大学の計算機センターのアカウントと ftp を使ってもできるわけで(というか、既にやっていた)MobileMe がどこまで有利かはまだ不明(今日も、ちょっと動作が不安定な時があった。お金を払ってないから??)。
ただ、使い始めるまで知らなかったのだけれど、iDisk の一部を公開のファイル置き場に使えるという機能があって、これは便利。 さっそく、昨夜のあいだから、原と本のファイルの交換に利用中。 むしろこちらの方を頻繁に使うことになるかも。
で、何と言っても、やっぱり便利なのは、iPhone, iPad と複数の Mac のあいだで、アドレス帳やカレンダーが自動的に同期できることだなあ。 iPone でアドレス帳に入力するのはやっぱり面倒だけど、今や、Mac 上でちょこちょこと情報をいじると、ちゃんと iPhone 上の情報も変わる。もちろん vice versa。 これまでは、Mac 上のカレンダーは使わず、紙にカレンダーを印刷した物に鉛筆で予定を書き込むローテク人間だったのだが、これでついに電子的なカレンダーを利用し始めるナウい IT なおじさんになれるかもしれない。
今日、Jordan Horowitz 氏が来日。
2007/11/3の日記に、「大学院生の Jordan Horowitz は、回転が速く意欲的な(しかし、決して安直ではない!)アメリカの若者」とあるが、今はスペインでポスドクをしている。 これから一週間滞在し、沙川さんや M 君も交えて議論をする。
昨日、早川さんと野尻さんの Twitter でのやりとりから、京大入試問題 Yahoo 知恵袋事件のことを知ったのだった(何年か後のためのメモ:京大の入試の時間中に、問題文がそのまま Yahoo 知恵袋に質問として掲載され、回答も寄せられていたという、あの事件。そうそう、あれを契機に入試について見直すことになった、あの忌まわしい事件ですよ)。 その場のやりとりを読むだけで、だいたいの事情はわかったし、後の新聞報道などよりずっとしっかりした分析にも触れられた。
新聞などには「携帯の電源は切ったはずなのに」といったコメントが見られるが、さすがに、受験生が会場で試験問題の内容を携帯端末にタイプして Yahoo に投稿するのは無理だというのが早川さんたちの分析だし、ぼくもそう思う。 少なくとも、うちの入試ではつねに複数の試験監督が監視しているから、絶対に無理。京大(や同志社や立教や早稲田)でも同じだろう。 受験生は(単に携帯のカメラ機能を使うのではなく、超小型のカメラか何かで)問題文を撮影し、それを受信した外部の協力者がタイプして投稿したと考えるのが自然だろう。
そうなると、でも、なんで Yahoo 知恵袋みたいなところ(←Yahoo 知恵袋は玉石混淆で知られているのです。的確な答えが得られることもあるけど、すっごくマヌケな回答が出てくることも多い)に投稿したのかが、実に疑問。 明らかにバランスが悪い。 もちろん単にマヌケだったのかもしれないけれど(付記:どうも、その可能性が高いというのが最新の情報のようだ。やれやれ)、写真を外に送ることに易々と成功するくらいの腕と準備力があるなら、外に回答チームを用意するなどの方法をとるんじゃないのかな? これは、「こういうことが可能だ」ということを、世間と大学関係者に周知するためのデモンストレーションなのかもしれない。
被害届が出たらしいから、これから警察が動いて、どこまで「犯人」を特定できるかが大きな分かれ目だろう。 携帯電話からの Yahoo への投稿ということで、あっさりと身元が割れるのなら、まあ、マヌケな奴ということになるだろうけど、そこからは身元が分からないように周到に準備してあったとしたら、おそろしいことだ。 警察が、被害にあった入試の受験者名簿を照合して共通の受験者を割り出すというのも、なかなかどうして諸刃の剣。 共通の受験者が複数いたとき、その人たち全員をマークするのか? そもそも、チームで行動しているなら、同じ受験者である必要もないわけだ。
実際、袖口などに隠した超小型のカメラをズボンの中の携帯電話につなぎ、左手でスイッチを押せば画像を撮影して自動的に決まったアドレスに送信するしかけなど、専門家でなくてもすぐに作れるだろう。 画像を受信した外部チームからの音声を別の携帯電話で常時受信し、たとえば頭の毛の中に隠した骨伝導イヤフォンかなにかで聞くことにすれば、ほぼ確実に誰にもばれずに正解を聞くことができる。 数学や英語の記述での御利益はほどほどだろうが、選択肢から選ぶ問題の場合には、これでほぼ完璧な答案が作れるだろう。
今回の事件が、(四つの大学で同じことをやったにもかかわらず)「現場を押さえて」ではなく、ある意味で、犯人が堂々と告知することで発覚したということを思うと、上のような手口での犯行は、少なくとも現在の監督方法を続けるかぎりは、ほぼ確実に発覚しないと考えられる。 おそろしいことだが、すでに、そういった不正はおこなわれているのかもしれない。
携帯の電波を遮断するとか、受験生全員のボディーチェックをするとかいうのは、無理。 (少なくともぼくらの大学では)受験生は「お客様」なわけで、たった一人いるかいないか分からない不正行為者のために全員に過度の迷惑をかけるわけにはいかないし、だいたい、そこまでやるのはアホくさすぎる。
結局は、各大学で、ハイテク不正の手口などを勉強した上で、試験監督をより徹底して挙動不審者を監視するといったところが落としどころなのでしょう。 きっと、これから携帯からの電波を探知する装置を大学に売り込みに来る業者がどっとでてくることになるんだろうな。 で、「○○大学では、今年は・・・・円の予算をかけて、こんな対策を」みたいなのが来年の入試シーズンのニュースになる。 考えてみると、そんな装置をつくるのは簡単だから、理学部とか工学部とかの学生実験で、毎年、そういうのをたくさん作るというのはどう? 作った装置は大学に渡してもらうことにして、試験会場ではそれをもった人がうろうろと歩くと。 これで学生実験にも大学から補助がもらえるし、一挙両得ではないか(けっこう、まじです)。
とはいうものの、最終的には「そこまでの不正を働いて入学したとして、入ってから本当に満足のいく学生生活が送れるのか」という、しごく単純な論点がやっぱり大事だと思うのだった。 アホみたいな結論だけど、素直にそう思っているんだから、まあ、しょうがない。
数理物理・物性基礎セミナー(第 8 回)
日時:2011 年 2 月 19 日(土)14:00 〜 17:30
場所: 学習院大学 南 7 号館 101 教室
桂 法称「Graph theory, supersymmetry, and topology in strongly correlated systems」
次回の数理物理・物性基礎セミナーは、桂さん。
ぼくの向かい側の部屋にいらっしゃる桂さんです。
かれは、若い割にネタが豊富なのですが、今回は超対称性とかグラフの性質を使って強相関系のモデルを作ったり調べたりしようという、かなり「かっこいい」系の話。
とはいえ、別に場の量子論とかの話はまったく出てこないので、「超対称性とか、かっこよさそうだけど、なんのことだろう」と思っている人にはお得感の高いセミナーになるでしょう。
どなたでもお気軽にご参加ください。
終わった後は、恒例の飲み会。 さまざまな意味で「濃い」メンバーが集結した気がする。
主任として会を仕切り、さらに、すべてのトークをガチで聞いた。 入学の時から知っているみんなが、それぞれ自分なりの物理の世界を体験しその成果を発表するのを聞くのは、感無量だ。 例によって疲れ切ったが、それを補って余りあるほどに楽しい時間だった。
今年の卒業研究では、理論の二人の発表が飛び抜けてすばらしかった。 こういうことは珍しいのでやはりうれしい。 とくに、O 君の発表は、内容もオリジナルで立派なだけでなく、徹底的に吟味され準備された完璧に近いプレゼンテーションで、ただただ圧巻。