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【時代背景】
a)50年代のアメリカ b)アイゼンハワー政権 c)アメリカとソ連 d)そして60年代へ
1950年代のアメリカの経済は国民総生産(GNP)が5千億ドル(180兆円)で夢の半兆ドル経済の達成を目標とした豊かな経済と、共和党のアイゼンハワー大統領(任期‘53〜61)のもと、「アイゼンハワーの繁栄」と呼ばれ安定していた。
しかしその一方、宇宙開発でソ連に差をつけられていたアメリカでは、米ソ軍の優劣に関する問題や、米ソ間の経済競争、2つの体制(共産体制と資本体制)間の成長の比較など、後進国への影響力競争といったソ連からの挑戦に不安を感じていた。そして、それは「停滞より進歩を、継続より変化を、対立より強調を」をという気運の高まりにつながっていった。
国内では次第に黒人差別反対運動やWoman’s lib(女性解放運動)のような新しい男女関係を求める社会運動が高まりつつあったが、依然として黒人はアメリカの繁栄を下から支える役割であるとみなされ、女性は家庭におしとどめられ夫に従うという生活に大きな変化はなかった。
ケネディが大統領となる60年代は激動の時代であり、アメリカ国民の保守的・現状維持的なムード、リベラルで変革傾向的なものへと変化していった。また50年代は国民の精神を鎮静させるタイプの消極的な大統領(アイゼンハワー)が人気を保ちながら、60年代に入ると一転し、このような人々を覚醒させる積極型の大統領ケネディに支持が集まったのだった。
【州の予備選挙(プライマリー)〜民主党全国大会】
a)ケネディの戦略 b)ケネディの問題点 c)結果
まず大統領になるためには自分の属している政党からたった1人が大統領候補として正式に選出されなければならない。ケネディにとっては民主党内の戦いであった。
1960年1月2日に記者会見を開いたケネディ上院議員は大統領選挙に出馬表明をした。ケネディは全国的知名度こそ高かったが、政治手腕は未知数だった。政界に入ってから14年しか経っていない「年齢の若い新人」であった。何よりケネディを大統領にさせるのが難しい最大の理由はケネディの宗教問題であった。新教徒が大多数を占めるアメリカではケネディ家の信仰するカトリック教は少数派とみなされ、カトリック教会はその信者の絶対服従を要求するもの。教会の指示があれば大統領といえどもそれに従わざるを得なくなる。そしたら、アメリカの外交問題などに教会の影響力が、ひいてはバチカンの法王の力さえ及ぶのではないかという懸念がアメリカ国民にはあった。
ケネディは国民のこのような不安に対し、1960年9月26日 テキサス州で演説を行い、それは全国にテレビ放送された。そこで彼は「私はあくまで政教分離の原則をつらぬくつもりだ。もし自分の心のうちの良心とアメリカの国益を犠牲にしなければならない事態が発生したら大統領を辞任する。」と宣言した。ケネディ陣営や民主党陣営はカトリック教徒をその信仰ゆえに非難するのはプロテスタントが大半を占めるアメリカにおける非寛容の精神の現れである。それはアメリカが陥ってはならないことだと一般論のすり替えをして訴えた。このアメリカの偏狭さを戒める正論は多くの有権者を納得へと導いた。
ケネディは戦略としてマスメディアを利用した。従来の伝統的な手法は各地に赴き、その土地の民衆と酒場で語り合ったり、地方の有権者に便宜を図ったりしながら影響力を広める方法だが、ケネディは『ルック』などの全国向けの雑誌や、『ニューヨーク・タイムズ』のような著名新聞に取り上げられたり、テレビに登場することにより国民と触れ合うなど新しい試みをした。また父親ジョゼフを柱とするケネディ一族の財力を駆使して自家用機を購入し、全国へ遊説してまわることも度々あった。ケネディの側近で作られたコンピューターや世論調査、テレビなどの情報を使いこなし選挙戦で生かそうとする“ケネディ・マシーン”と呼ばれる新しいタイプの政治家たちもまたケネディの強い味方だった。
州の予備選挙は1960年3月8日、東北部ニューハンプシャー州を皮切りに開始され、17州とワシントン特別区の18区で行われた。その18区の予備選挙には公式に登録した大統領候補に投票する“人気投票”(美人ミスコンテストともいう)と、大統領候補を支持できる代議員だけを選ぶ二通りの方法がある。州によって違うが拘束性はあまり無いため、民主党から名乗りをあげたハンフリー、サイミントン、ジョンソンら各候補者とも絶対確実な州だけで予備選挙に出馬しようという慎重な姿勢を見せている中、ケネディだけは全州の予備選挙に出馬する強気の姿勢をとった。
3月9日 ニューハンプシャー州ではケネディの圧勝に終わった。(4万2千909票 地元実業家フィッシャー6千761票 サイミントン374票)
ウィスコンシン州の大統領予備選挙は予備選挙の“天王山”と呼ばれ、ここで負けると全国大会の指名はおぼつかないと言われていた。その4月5日に行われたウィスコンシンでの予備選挙は隣州ミネソタの有力候補ヒューバート・ハンフリーとの一騎打ちだった。ケネディはそこで「ケネディ・コーヒー・アワーが作ったコーヒーを飲んでケネディを語ろう。」というコンセプトのもと、75万といわれたミルウォーキー市民のうち3万人の女性ボランティア部隊を組織してこれを進めた。また当時人気上昇中だったフランク・シナトラに「High
Hopes」というケネディの応援ソングを吹き込ませ、それは州内のいたるところで流れた。その歌詞は「みんながジャック(注・ケネディのこと)に投票する。ジャックは誰も持っていないものを持っているもの〜」という内容であった。このような選挙活動は他の議員にはないものであった。対抗馬ハンフリーのウェスト・バージニアでの出費総額は2万5千ドルでしかなかったが、ケネディが同州で使ったテレビだけの宣伝費用はそれよりはるかに多い3万4千ドルだった。4月6日ウィスコンシンでの予備選挙の結果はケネディが10選挙区中6区で勝ち、同州史上最多の得票数を獲得した。
5月20日の“第2の天王山”と呼ばれるウェスト・バージニアの予備選挙でもケネディは圧勝し、ハンフリーは同日敗北宣言を発表した。
その後、メリーランド、オレゴンでも勝利したケネディは7月14日ロスにおいて驚異的な得票数を得た、43歳2ヶ月という若さで民主党の次期大統領候補に指名された。全国大会の必要過半数の761票を84票上回る支持だった。
ケネディは自分の次に得票数の多かったジョンソンを副大統領候補に指名した。これは南部での影響力があるジョンソンの南部票を目当てにしたものだった。
党大会最終日、ケネディは指名受諾演説を行い、民主党政権が生んだ2人の偉大な大統領のキャッチフレーズ「ウィルソンのニューフリーダム、ルーズベルトのニューディール」にちなんで自分自身も「ニューフロンティア」の演説を行った。この中で彼は停滞したアメリカの内政を打破することを呼びかけた。
一方、その2週間後、共和党は満場一致でニクソンを大統領候補に指名した。
【大統領選挙】
a)2人の印象 b)テレビ討論 c)キング牧師の釈放と黒人票の獲得
民主党ケネディと共和党ニクソンの選挙戦は9月から本格化し始めた。
国民の2人に対する印象としてまずニクソンは8年間副大統領を務めた経験がある。また、彼はモスクワで開かれた会談に出席してフルシチョフロシア大統領に、「ロシアはロケットでアメリカに勝っているかもしれないがアメリカはカラー・テレビで進んでいるぞ。」という台所討論(Kitchen
Deviate)を繰り広げ、また反共活動の実績もある。またニクソンはチェッカーズ・スピーチといって以前不正な資金をもらったことへの弁明を生放送のテレビでする際に明快で冷静かつユーモアのある弁論をしたことで演説の評価も高かった。ニクソンは国民の目に頼りある外交政治家とうつった。
かたやケネディはただのマサチューセッツ上院議員で、経験不足が否めないが、ジャクリーン・ブービエとの結婚は社交界の大きな話題となり、『勇気ある人々』という著作の本はベストセラー。これからが前途有望の好青年」というイメージを生んだ。
このようにニクソンのほうがケネディよりはるかに名声があり、現段階で経験もある政治家という印象があったため、ニクソンの有利と思われていたが、ニクソンがテレビ討論に応じたことから思わぬ展開となっていった。
ケネディにとってテレビ討論は少しでも顔を売るチャンスだったのでは引き受けたかった。しかし、ニクソンはそんなことをしなくとも勝てた選挙で何故敵に機会を作ったのか。
理由は定かではないがニクソンは自分には経験が豊富だし、弁論を得意としているから討論でケネディに負けるはずが無いとふんだのではないか。
このテレビカメラの前で大統領同士が意見を述べ合うという今まで行われたことの無い新しい選挙運動の形態は、3大放送網(ABC、CBS、NBC)によって4週にわたり4日計4時間生放送でおこなわれた。
両候補が自分の所信を述べてから4人のジャーナリストの矢継ぎ早の質問にそれぞれ3分以内に答える形がとられた。所信でケネディはアメリカの抱える問題を指摘し、ニューディール政策の復活の必要性を訴えた。一方、ニクソンはアメリカの平和と繁栄を賞賛し、既存の政策の継続を主張した。しかし、その他の政策に両者の大きな違いはなく、両者の資質や性格をめぐる争い、テレビ画面を通してみる両者のビジュアルに視聴者の注目は注がれていた。
1回目のテレビ討論で取り返しのつかない決定的な失敗を犯したのはニクソンであった。ケネディは質問に対し即座に躊躇することなく答えた。また動作はきびきびとしていてハンサムでエネルギーにあふれ、機転のきく人物のように見受けられた。
一方のニクソンは考え込んだりし、緩慢な動作が目立った。何より疲労してエネルギーが無いように見えた。照明の関係もあってか、目が窪んでやせた顔には薄い影があり、頬やあごにはうっすらとヒゲが生え始めていた。テレビを見ていた国民は圧倒的にケネディに好感を抱くことになった。皮肉にもラジオで2人の討論を聞いた人々はニクソンの勝ちだと感じたらしい。ジョンソン副大統領候補もそのうちの1人で、タクシーの中でラジオ討論を聞きながら、「もう終わったな、民主党も」と思っていたら、実際はケネディが大成功を収めていて驚いたという。まさに新しいタイプの政治家ケネディは新しいメディアに助けられたかんがあるように思う。
テレビ討論の2回目以降、ニクソン側は1回目の反省点を踏まえて精一杯の努力をした。人気を取り戻すため、特に身なりには気をつけ、テレビでやせて見えないように毎日大きなコップ2杯のミルクセーキを飲み、2回目までに体重を5ポンド増やした。またテレビでの話し方の研究などにも熱心に取り組んだ。
しかしその甲斐むなしく、テレビ討論の前、ギャラップ調査では有権者による支持はニクソン47パーセント、ケネディ46パーセント、未定7パーセントだったのが、テレビ討論の後ではケネディ49パーセント,ニクソン46パーセント、未定5パーセントと逆転していた。最後のテレビ討論が終わるまでニクソンの支持はケネディのそれを上回ることは無かった。
ケネディ自身、大統領選に勝利した後の談話で「テレビこそが流れを変えたのだ。」と述べている。
また、このテレビ討論はどの回の放送も少なくとも6千5百万人から7千万人の人々が視聴し、4回の放送のうち1回でも視聴した人の数は8千5百万から1億2千万人に達したと言われている。このテレビ討論は大いなる論争(The
Great Deviate) と呼ばれ、高視聴率を獲得した。
終盤戦でケネディを有利としたもう1つの出来事が、南部黒人運動の指導者マーチン・ルーサー・キング牧師の逮捕事件にケネディが敏感に対応し、黒人層の信頼を勝ち取ったことであった。キング牧師がアトランタの食堂での座り込みを指導して逮捕され、重労働刑の判決を受けたことを知ったケネディは直ちにキング夫人に激励の電話をかけ、さらに弟のロバートを通じて判決を下した判事に抗議の電話を入れ、キング牧師を保釈させた。一方のニクソンは何の働きかけもしなかったため、もともと民主党びいきであった黒人票は決定的にケネディに傾いた。これはのちに僅差で勝利するイリノイなどの5州において大量の黒人票を獲得し、それが勝利の決め手となった。
【結果】
a)得票数 b)ケネディ大統領就任
1960年11月8日 6千9百万人近くのアメリカ人が大統領選挙に投票した。僅差だったため、なかなか決定的な結果が出なかった。最終的にケネディには49.7パーセント、ニクソンには49.6パーセントというわずか0.1パーセントの得票率の差だった。
実際の得票数でみるとケネディがわずか11万2千8百3上回ったにすぎない。選挙人の数はケネディ303人,ニクソン220人であった。ケネディはこれから史上最年少の43歳で初のカトリック教徒の大統領として誕生しようとしていた。
翌1961年1月20日 ケネディはワシントン国会議員の前で大統領就任演説を行った。「今やたいまつは新しい世代の米国民に引き継がれた。」は有名な演説の一説だ。また、自由を守り、勝利させるためにはいかなる犠牲も払うということを強調。また「我がアメリカの同胞諸君,国家が諸君のために何をしてくれるか問う無かれ。諸君が国家のために何をなしうるかを問いたまえ。」と演説した。
(My fellow Americans;ask not what your country can do for you, ask what
you can do for your country.)
【感想】
ケネディが大統領になる前、共和党は社会の安定と継続を代表する勢力であった。豊なアメリカの継続を求めるのなら国民は依然としてアイゼンハワー大統領に引き続きニクソン共和党政権を選ぶべきなのに何故ケネディは勝利したか。そこにはアメリカ国民の心の中に新しい波が勢いを増して今か今かと変革を求めていたのではないだろうか。
対外では共産党ソ連が急速に発展し、その脅威を感じながら冷戦構造の一角を担うリーダー国、アメリカはもっと強い所をアピールしなければならない。国の現状維持の安定を望むのではなく、多少のリスクを背負っても革新の道を選ばなくちゃ何も変わらないと感じたのだと思う。
その国民が新しいものを渇望している中、従来の政治手法とは打って変わった新しいタイプの若くてかっこいい大統領候補が現れた。それがケネディだ。
ケネディの選挙活動の中で資金や物がかなりいったのは重々理解している。ケネディが大統領に選ばれた真の理由はアメリカ国民がケネディに新しいアメリカの繁栄、待つだけじゃなく自分から手に入れる積極性を見出したのではないかと思う。
たぶんそれは時代の潮流にものっていたのだと感じる。折しも黒人差別反対運動や社会運動などこれまでまかり通ってきた悪名高い常識に国民が疑問を持ち、真の権利を自分たちで手に入れようとする心の芽生えが育ってきた国民のところに直接国民とコミュニケーションをとろうとするケネディは信頼の置けるリーダーとして移ったのだろう。
今回ケネディの生涯、そして選挙活動について調べていくなかで、人々はケネディに何を望んだのだろうというのを常に考えてきた。実際のケネディがどういう人物なのか今となっては資料からしかうかがい知ない。けれども、その当時の人々にとって理想・夢の全て「ミスター・アメリカ」だったのだろうと感じた。
−参考文献−
『JFK 大統領の神話と実像』 松尾弌之 ちくま新書 1994年
『ケネディ 挑戦する大統領』 大森実 講談社 1978年
『ジョン・F・ケネディの謎 権力の陰謀とアメリカの悪夢』 堀田宗路 日本文芸社 1992年
『JFK THE LIFE STORY』 峯正澄 メディアファクトリー 1993年
『現代アメリカ政治』 砂田一郎 芦書房 1981年 詳しく![](right03.gif)
『アメリカの大統領政治』 花井等 NHKブックス 1989年
『アメリカ大統領のリーダーシップ』 本間長世 ちくまライブラリー 1992年
『政治とテレビ』 G.E.ラング/K.ラング 1997年
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日にち |
場所 |
内容 |
第1回 |
9月26日 |
シカゴ |
国内問題について |
第2回 |
10月 7日 |
ワシントンD.C. |
外交問題について |
第3回 |
10月13日 |
ニクソン − ロス
ケネディ − ニューヨーク |
ケネディ政権の実績に関
する論議 |
第4回 |
10月21日 |
ニューヨーク |
総合的な論議 |