茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
ひええ。もう 3 月だ。
と思っていたら、もう 18 日だ。早い。
今日もちょっとしたイベントがあって出かけてたのだけれど、その話はいずれ気が向いたら。
少し前の日記(2/27)にも書いたけれど、依頼が来たあと、随分と躊躇し、一度は断り、それでも、ぼくに話せる基礎のことでいいからしっかりと話してほしいという主催者の方の誠実さと熱意に押されて引き受けた講演だ。
やるからには全力を尽くそうと思い、一週間以上前からスライドを作って人に見てもらって改良を加え、直前には何度も声に出して練習した。 無人の部屋で(ぬいぐるみを並べて聴衆になってもらって(←これって、きもいかな?))ちゃんと立って歩き回りながら大きな声で話して練習し、次は(ぬいぐるみと)息子にも聞いてもらって注意すべき点についてのコメントももらっった(←ぬいぐるみにじゃなくて、息子にだよ)。 実際にしゃべってみてスムーズに言葉がでないところ(特に、デリケートな部分はそうなる)については、話す言い回しを紙に書き、余分なことは言わないと心に決めた。
大変な準備に見えるかも知れないが、人前で話すからには、いつでもこれくらいの準備はしているものさ
とか書けるとかっこいいのだが、そりは嘘。
これまで国際会議とか色々なところで話しているけれど、これほどに丁寧に準備をしたのは生まれて初めて。
そして、これほどに緊張したのも初めてだった。 物理について話すのとはまったく違う責任感。せっかく会場に来て聴いてくれる人たちとうまく噛み合わなかったらなどと想像すると不安になる。 夜なんかは特に「あー、なんで引き受けたんだろ。やっぱりやめればよかった」という気分になった。毎晩、なった。
おかげさまで、まあ何とかしゃべれたと思うし、幸いにも、参加した人たちには一生懸命に聴いていただけた。当日の会場にいた何人かと、ネットでの中継を見てくれていた何人かには、面白かった分かりやすかったとも言ってもらえた(←まあ、「つまらない」とわざわざ言われる方はいないだろうけど)。
人生でもっともちゃんと練習したと言う割には、まだ言い間違いは多いし、前半は明らかに緊張気味で堅いのだけれど、せっかくやったのだから、できれば多くの人に見てもらいたい。 というわけで、以下で録画などにリンクします。 また、この日記やぼくの解説を読まないような人にも是非とも見てほしいので、できれば、そういう人たちにも伝えていただければ幸いです。
田崎晴明 + 野尻美保子:講演会「やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識(柏にて、2012 年 3 月 10 日)」の記録
講演関連の資料、スライド、そして当日の録画へのリンク(ぼくの講演は約 60 分あります。そのあと、野尻さんの講演と質疑応答)
時間がないので、なるべく簡単に。
で、今日から始まっている物理学会での「科学と社会」カテゴリーのシンポジウムのリストがこちら。
もちろん、「ニセ科学」なんてものに比べれば、はるかに重厚で切実なテーマだ。それでも、「学会の重鎮」が開いたシンポジウムでもなく、また、「一貫して運動を続けている社会派物理学者」が企画したシンポジウムでもなさそうだ --- という点で、ぼくらがやった松山のシンポに近い気がして、親近感がわく。
もちろん、内容については、実際にシンポジウムが開かれるまではわからないわけだが(そして、ぼくが趣旨や個々の講演の主張にどれほど同意できるかもわからないわけだが)、こういう企画にごく普通の物理学会員が参加し、討論にもどんどん加わわって素直な意見を言うことには大きな意義があるとぼくは信じる。 というより、多くの(特に、若い)普通の会員が参加するかどうかで、シンポジウムの空気も大きく変わるんじゃないかな?
登壇者を見ると、吉野さん(←会って話したことがある)は科学者と社会の関わりについて真面目に考えていらっしゃる(ぼくより)若い方だし、ぼくの古くからの友人の押川さんは事故のあと放射線の健康リスクについて積極的に発言し地元の柏での除染プロジェクトなどに積極的にかかわっている。 さらに、お二人目の登壇者である奥村晴彦さんというのは、なんと、みなさんご存知の「LaTeX2e 美文書作成入門」の奥村先生だぞ! ぼくとは「晴ちゃん」仲間でもある(←いま気づいた)。奥村マクロや、jsarticle, jsbook スタイルファイルにお世話になっている人も多いはず。奥村本を持って行ってサインをしてもらうだけでも、シンポジウムに出る価値があるというものではないか。
というわけで、26 日に会場でお会いしましょう!
と言いたいところだけれど、ぼくは学会に行かずに仕事と海外出張と新学期の準備をするのじゃ。
みなさん、ぼくの分まで出てください。
(3月31日に少し修正しました。)
昨日、内村さんの tweet で、
放射線と被ばくの問題を考えるための副読本というものを知ったので、ざっと眺めてみた。 文部科学省が作っている「放射線と被ばくの問題を考える ための副読本(web ページ)」への批判を一つの目的として書かれたもののようだ。
福島大学放射線副読本研究会
ぼく自身、文部科学省の作った副読本には不満をもっている。 だから、それに対抗する、あるいは、それを補完するものを作りたいという動機には賛成だ(←ぼく自身の解説や講演は、文科省の副読本のような一連の動きへの批判であり、補完でもあると思っている。でも、できればもう一歩踏み込んでがんばりたいという気持ちは持っている)。 たしかに、この新しい副読本では、文科省の副読本や「定番の安全ですよトーク」への正面からの反論が堂々と述べられている。これは意味のあることだし、評価すべきことだと思う。 ただ、福島大学の副読本が目指しているのは、ぼくが思い浮かべている対抗策・補完策とはかなり異なっているという感想をもったのも事実だ。
もちろん、目指すところや基本の考え方が異なるのは仕方がない、というより、むしろ当然のことだろう。
それとは別に、福島大学の副読本にはかなり不正確な記述が見られるのが気になった。 放射線に関する記述を読むかぎり、執筆チームには放射線に詳しい自然科学者のメンバーがいなかったように思える。 文科省にアンチテーゼを突きつけるにせよ、やはり正確でなければせっかくの副読本の意義も弱まるとぼくは考える。
以下、特に目立った点を二つほど指摘しておきたい(別に、目に入った文書の不完全な点を片っ端から指摘していこうと思っているわけではないです。他ならぬ内村さんのご紹介だし、大学教員がボランティアで編纂したということのようで親しみを感じて眺めてみたので、せっかくだから簡単なコメントを書いているというところです)。 これらの点は是非とも早急に修正していただきたい。 それ以外にも、気になるところはあるので、やはり放射線に詳しいメンバーを迎えて再検討・再武装するのがベストだろうというのが、ぼくの率直な意見だ。
なお、ぼくは「内部被ばくは危険じゃない」と言っているのではない。この議論では内部被ばくの危険性の説明としては間違っているということを言っているだけ。
実際は、原子核反応のエネルギーが化学反応のエネルギーに比べて桁違いに大きいのがすべての大元なので、自然だろうが人工だろうが、放射線のエネルギーはとても大きい。 放射性カリウムからのガンマ線・ベータ線のエネルギーは、放射性セシウムからのガンマ線・ベータ線のエネルギーと同程度だし、ラドンからのアルファ線のエネルギーは、プルトニウムからのアルファ線のエネルギーと同程度(ちょっと高いくらい)。
別に身の回りに人工の放射性物質があるのを許せとは言わないが、やっぱり情報は公正に書きたい(そのすぐ上の【自然の放射線と人工の放射線】を見ると、著者は自然の放射線のエネルギーは低いと思っているのかも知れない。だとしたら、それは困ったことだと思います。あ、さらに同じ 6 ページの下の半減期の説明を読むと、「分子結合のエネルギーと同じになる」などと書いてあって、放射性物質のことをご存知ないのがよくわかる。やっぱり、専門知識のある人と協力する必要があると強く思います)。
年間の被ばく線量 100mSv 程度以下の,いわゆる「低線量被ばく」による健康影響については,未だ解明されていません。影響が解明されていない以上,「正しい怖がり方」というものは論理的に成立しません(2 ページ)。という議論には問題があるとぼくは考える。
まず、言葉の意味についての前置きから。 前にも書いたかもしれないけれど、ぼくは「正しく怖がる」という標語はちっともいいとは思っていない。 「怖い」というのは人の感情なので、「正しい」とか「正しくない」とかいえる対象ではないからだ(なんと言われたって「怖い」と思ったら「怖い」。で、それを認めた上で、自分の「怖さ」とどう向き合っていくのかというのが重要。ぼくは、そういう風に「怖さと向き合う」ためのお手伝いを(ほんの少しでも)するために解説を書いたり、講演をしたりしているつもり)。
というわけで、ぼくに言わせれば「正しい怖がり方」などというものは前提条件抜きで「論理的に成立しない」ということになってしまう。 ただ、上の引用文では(全段に前提条件をつけていることからも明らかなように)「正しい怖がり方」という言葉をぼくとは異なった意味で使っている。それは、16 ページの関連部分を読んでもわかるのだが、おそらくは「リスク評価に基づいて合理的な対応を取ること」を「正しい怖がり方」と呼んでいるのだろう。 その解釈にもとづいて先を続ける。
「低線量被ばくの健康への影響が『解明されていない』から、合理的な対応を取るという態度が『論理的に』成立しない」という主張は、いくら何でも極端すぎる(そもそも、世の中には「解明されていない」ことは無数にあるので、それら全てにこういう議論を使っていたら、とんでもないことになってしまう --- というアホな批判もこの場合には正当)。
そもそも、低線量の影響は「解明されていない」というけれど、それがどういう意味かは慎重に考えなくてはいけない。 たとえば、種々の疫学調査から、「害があるとしても、この程度よりは小さい」という情報は得られている。 核実験のフォールアウトの時代にも人々が死に絶えたわけではない。 あるいは、(これは、ただの例だけれど) 相当に悲観的な人でも 10 mSv の被ばくの影響が 100 mSv の被ばくの影響よりも小さいということには同意するだろう。
つまり、「解明されていない」とはいっても、「影響はこの程度よりは小さいだろう」という一定の「目安」はある(何を「目安」として受け入れるかには個人の判断が入ってくるだろう。しかし、どんな立場の人だろうと、真面目に考えていれば、「目安が一つもない」とは言わないはずだ)。 「何も分かっていない」というのとは、ほど遠いのだ(←「だから安全だ」と言っているわけではない! 危険と考えるにせよ、危険さの一定の目安はあると言っているのだ)。
世の中の危険への対処というのは、つまるところ、「大ざっぱな目安」が与えられた上で、どう行動するのが合理的かを判断していくことに尽きると思う。 そういう意味で、低線量被ばくについても変わるところはない。 ぼくらが持っている情報の信頼性をしっかりと吟味し、その範囲内で、何がもっとも合理的かを一生懸命に考えていく努力を続けるしかやり方はないと思う(で、しつこいけど、そういった努力をほんの少しでもお手伝いしようと思って、ぼくは解説を書いたりしている)。 「『正しい怖がり方』というものは論理的に成立しません」という議論は、論理的に誤っているばかりでなく、そういう堅実な努力を否定することにも繋がりうるという点で有害でさえあるとぼくは信じる(「ただでも心配事の多い世の中で、低線量被ばくについての余分な心配をしなくてはいけないのはひどい話だ」という意見には賛成するけれど)。
すさまじい風と雨の荒れた一日だったので家で過ごし、定理を証明していた。
できるはずだと思っていた命題たちを整理し条件を整え、一つずつちゃんと証明に乗せて定理に昇格させていく。別にすさまじいアイディアを要する定理を証明しているわけではないが、すべての仕掛けと風景が頭に入っていないとできない作業だ。 ようやく、こういう仕事をする余裕ができて時間がとれたのは、とてもうれしい。
「どんな簡単なことでもいいから、一日に最低でも一つくらいは新しい命題を証明したい。今日は、まだ一つも証明していないから、もうちょっと集中しよう」などという台詞を言ってかっこをつけていたこともあったなあ。いつだったか。Princeton 時代かもしれない。 あの頃に比べると随分とヘボくなってしまったものだけれど、それでも、頭の中が十分に準備されると、ごく自然に証明が進んで行くようになる。やっぱり楽しいなあ。こうやって時間と頭を使っているのがいちばん好きだ。ぼくは。
まず、入学式が終わったらすぐに、ベルギーに行って、JEAN BRICMONT 60th ANNIVERSARY'S CONFERENCEに出て話をしてくる。 懐かしい人たちに会えるのでとても楽しみ。ただし、スケジュールは、いささか慌ただしい。
今年も夏学期の月曜日は駒場でやります(二時限目 10:40 から、おそらく 723 教室)。 今年の現代物理学の講義はこちらのとおり相転移をやるのだった(このテーマをやろうと決めた経緯(?)は、2011/8/12 の日記に書いてあるね)。 ぼくにとっては「心のふるさと」的なテーマなので、がんばりたい(いや、例年がんばってますよ)。まあ、最初のあたりくらいは考えた。
なお、本来の一回目のはずの 4 月 9 日はベルギー出張のため休講。ごめんなさい。4 月 16 日からやります。
物理学会シンポジウム「福島原発事故と物理学者の社会的責任」発表スライドファイルまだ、上から三つの知り合いのファイルをざっと見たところ。残りも時間をとってみます。
「TeX の神」奥村さんのスライドをざーっと眺めていると、なんかものすごく圧倒される。ひたすらファイルがでてきて情報処理する様子を見せているわけだけど、あの日々の緊張感がよみがえるだけでなく、そこに立ち向かっていく奥村さんのすごさを感じて、なんか涙が出そうになる。ほんと、こうやって実質的な仕事をしてくださった(してくださっている)全ての皆さんには感謝してもしきれない(とはいっても、まだ何一つ終わっていないのだから、論功行賞にはまだまだ早すぎる)。 それにしても情報を処理する技能というのは真の力になるのだなあと(まったく今さらながら)痛感する。俺なんか本当に非力。
押川さんのスライドには、なんと、ぼくが昔「ニセ科学」のシンポジウムで使った「ネタ」のスライドが引用されていた。 押川さんに引用してもらうのはうれしいんだけど、昔みたいに、量子スピン系の仕事を引用してもらっていたほうがずっと楽しかったしうれしかったなあ。 押川さんとは楽しく物理の話だけをしていたかったというのが、最近、しょっちゅう思うこと。あ、シンポジウムと関係ないけど、日記だから許して。