茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
けっきょく、3 月は予想していたよりずっと忙しい。
特にこの一週間は、10 日(月)、11 日(火)は斉藤さんとぼくが主催する研究会
統計物理学懇談会のお知らせ
3 月 10 日(月)、11 日(火)、学習院大学南 7 号館 101 教室にて
昨年、大成功だった統計物理学懇談会を今年も(慶応の齊藤さんといっしょに)開きます.
今年も幅の広い面白そうな講演が並んでいます。
どこを聴いても楽しいと思いますので、ご都合のつく方は是非どうぞ。
懇親会にも是非ご参加ください!
週末の今日はようやく一息ついたところ。 日記に記録している余裕もないのだけれど、ともかく昨日の講演会に関連したことを書き留めておこうと思う。
昨日は日本数学会の一貫として公開で開かれた市民講演会を聴講してきた。お目当ての講演は、
時枝 正(Univ. of Cambridge, Harvard Univ.)だった。おもちゃからの数理モデル
当然、有名人のはずで、ぼくもお名前だけは知っていた。 ただ、今回の来日まで詳しいことは知らなかったのだ(もったいないことをした)。 かれの活動の拠点が主に海外だということが大きいのかもしれない。
時枝さんの研究分野は流体力学とか応用数学にも及んでいる。近年は、こういう分野を研究するときには「おもちゃ」と関連づけることを心がけているという。 なんらかの数学的な結果が得られたら、できるかぎりその数学を反映した「おもちゃ」をみつける、あるいは、作る。 逆に、日常の中で面白い「おもちゃ」を見付けたら、それに対応する数理を作ることを目指すというわけ。 実際、時枝さんとは旧知の知り合いの編集者に聞いたところ、かれは来日するたびに新しい手作りのおもちゃを持参して見せてくれるのだという。
なんともありがたいことに、日本数学会での講演のために来日した時枝さんが、あわただしいスケジュールの合間をぬって私を訪問してくださった。 しかも、やたらひどい風雨の日だったので、ありがたさも五割増しである。
短い午後の一時だったけれど、コーヒーをのみながら、物理や数学の話題から、アメリカでの暮らしや語学や言語のことなどなどを愉しく(かなり高密度に)話した。 そして、期待通り、いくつかの実に興味深いふるまいをする「おもちゃ」を持参してくださった(下の Radcliffe Institute での講演なんかの最初に出てくるクルクルまわる円筒のおもちゃも見せてもらったよ)。 まさに目の前で実演してもらい、ぼくも実際に触って考え、それから、明快きわまりない数理的な「種明かし」を教えてもらうという至高の贅沢を味わうことができた。ありがとうございます。
どこに座ったものか考えていたら司会の松本さんにどうせなら一番前の真ん中に座るようすすめられた。 まあ、日頃から学生には「前に座ろうよ!」と言い続けているんだから自分でもそうすべきだよね。 図々しくも一番前のど真ん中、演壇の真正面の席に座った(普通の一般客用の席だよ(お隣には理事長の舟木さんがいらっしゃったけど))。
時枝さんの講演は本当にすばらしかった。
もちろん、面白いだろうとは思っていたのだが、その期待を遙かに越える圧倒的な見事さだった。 文句なく、ぼくがこの生涯で聴いた最高のレクチャーだ。 万能の天才の時枝さんはレクチャーの天才でもあった。(ま、今さら驚かないけど・・) (ちなみに、ぼくも講演は(相対評価では)かなり上手なつもりだが、時枝さんは明らかに次元が違う。「負けた」とかそういうレベルじゃないし、何かを学ぶというにもレベルが違いすぎる・・)
講演のスタイルは、下に紹介する英語や仏語での講演の動画を見ていただくとわかる。 色々なおもちゃを使って不思議なふるまいを実演してくれる部分と、それを数理的に解き明かしてくれる部分とが交互にやってくる。 次々と色々なおもちゃを見せながら、全体としては大きく四つか五つのテーマを扱っていた。 語り口も上品だけれど多彩でアドリブ感に富み、聴衆をしっかりとつかんで決して離さない。 科学をほとんどを知らない人が見てもマジシャンのショーみたいな感じで楽しめるし、数学や物理を少し知っていると色々と発見や学ぶところがあってすごく愉しかっただろうと思う。 さらには --- これが本当にすごいなあと感心するところなんだけれど --- ぼくみたいな数理物理のプロが聴いてもめちゃくちゃ面白いのだ。 ぼくは、もう開始早々から、ひたすら興奮したり悔しがったり必死で頭を使って「謎」を解こうとしたりで、もう楽しくて楽しくて仕方なかった。
ああ、出席して本当によかった。幸せです。時枝さん、そして、講演を企画してくださった数学会のみなさんにはひたすら感謝するばかり。
フランス語版は質疑応答まで入っていて長いけれど、ほとんどの内容は英語版にも入っているので、(ぼくみたいに)フランス語がまったくわからない人は無理に見ないでも大丈夫。 唯一、32 分以降の紙製のコーンを落とす流体力学の実験だけは英語版にないので、そこだけを見ればいいでしょう。
コインを堅い床の上なんかに落とすと、チリン、カシャカシャカシャカシャシャシャシャ・・的な独特の音がするよね? 特に、音が急に途切れてコインが止まる寸前に音の高さが急激に上がるように聞こえるはず。 時枝さんはこの音の様子を調べるために、なんと特大のコインを作ってきて実演してくれた。これは本当に面白いよ。 いくら説明しても面白さは伝わらないので、動画を見てほしい。英語がわからなくても面白いから、英語講演の 33 分 30 秒からを見よう!
しかも、昨日のレクチャーは英語版やフランス語版よりも進んでいて、この音が「じゅえええええええ」と高くなるところの数理的な解析にまで踏み込んでいた。 振動の様子とエネルギー散逸についての仮定からごく簡単な微分方程式を書き下すと、コインからでる音の高さは \((t_{\rm sing}-t)^{-1/3}\) に比例して発散することがわかるということだった( \(t_{\rm sing}\) の sing はもちろん singularity の意味だけど、この時刻に向かってコインが sing するという意味もあるそうです(上品な洒落だよね))。 しかもかれらの実験結果はみごとにこの -1/3 という指数を再現するらしい。すばらしい。
さすがに、微分方程式を出す部分の詳しい解説はなかったのだけれど、今日、長い散歩に出かけたら(本当は色々と考えたいことがあったんだけど)頭が完全に時枝ワールドに入っているようで、このあたりのモデル化のことを自動的に考え始めていた。 そのおかげで、導出は理解したと思う。とても簡潔でエレガントな極小モデルだ(付記:このときの理解は間違っていた.その後、時枝さんにも教わって、もっとまじめに考えた。かなり理解は進んだが、いろいろと深いところのある問題のようだ)。 実は、昔の(あのネイチャー誌に載った)理論はコインの下敷きになる空気の影響を振動の主要因としていたらしいが、時枝さんが見出した真実はもっとシンプルで美しい。
カイラルな逆立ちゴマ
逆立ちゴマというのは、みなさんご存知だと思うけれど、コマをまわすと途中で上下が勝手にひっくり返って、まるで不安定ではないかと思うような体制になってしまうコマのこと。
カイラルというのは「右手と左手の違い」といった意味の言葉。 「掌性」とかいう日本語もあるらしいが普通は使わない。 (ちなみに、時枝さんは chiral の日本語がわからなくて chiral と英語で発音されていたので、講演後に質問したついでに「chiral の日本語は『カイラル』です」と教えてあげた!)
で、「カイラルな逆立ちゴマ」とは、ある方向にまわしたとき(右手で自然にまわしたとき)には、普通の逆立ちゴマのようにひっくり返るのだが、逆方向(左手で自然にまわしたとき)には、ふらふらと歳差運動するばかりで、ひっくり返ることはないという不思議なコマだ。いや、本当に、ガチで不思議なコマなのだ。
これも、この動画の最初に登場することを今日になって知った。 ぜひ見て下さい。
派手な現象には見えないでしょうが、これは、ぼくら物理屋にとっては激しい衝撃なのですよ。
もちろん、既存の物理法則が破れているとか、そういう話じゃないのでご安心を。 この不可思議な挙動は、重力および面との摩擦力を受けて運動する剛体のニュートン方程式の解になっていることには微塵の疑いもないのだ。 ただ、いったい、このコマのどういう特性が影響して、一体何がおこってこういう挙動が生じるかというのは、もう、さっぱりわからない。 もちろん、何らかの方法で右回転と左回転の対称性が破ってあるのは確実なのだが、それがどう効いてこんなことがおきるのかは、見当もつかない(散歩しながら大ざっぱな仮説を作っていたのだけれど、戻ってきて動画を発見して見れば見るほど、またわからなくなっている。「逆立ちゴマと rattleback を組みあせている」とかいうのは印象であって説明じゃないですから、そういうメールを送らないでくださいね)。
ただ、これがわからないのは実はぼくだけではないようだ。 時枝さんは、これをデザインされたのだから、何が重要なのかは理解されているはず。 ただ、そのかれも、この「カイラルな逆立ちゴマ」のふるまいを完全に理解されているわけではないらしい。 ということは、相当な難問ということだけれど、これは愉しい。
クルクルまわるボール
これは、rattleback を理想化したおもちゃを見せてくれた後に、小ネタ的に時枝さんが見せてくれたおもちゃ。
ビーチボールみたいな模様をつけた小さなボールをテーブルの上に置いて、そこにアシカの人形の鼻の部分をスーッと近づけると、あら不思議、ボールがクルクルとかなり速く回転するのだ。 ボールをひょいと手にとってアシカの鼻に乗せてやるとピタリとくっつく。 だから、磁石を使っているのは明らか。 しかし、単に磁石だったら、反発して逃げていくか、クルリとひっくり返ってくっつくだけじゃないか。 なんでクルクル回るんだろ????
わかんない。悔しいなあ。でも考えればわかるはず。いや、わかんないかな。別に、こういうの得意じゃないし。うううむ。誰か知っている、あるいは、わかる人いる? あ、でも、まだ教えないで。自分で考えたほうが愉しいし。ううううむ・・・・
STAP 騒動についてぼくの考えを簡単にまとめておく。
もちろん専門的なことはわからない。あくまで、別の分野の科学者としての意見です。
なお、以下の文章では、STAP 論文の筆頭著者を「O 氏」と呼びます。 その理由は以下(特に、2, 3)を読むとわかると思います。
そのあたりの真偽とは切り離しても、Nature に載った論文は驚くほど杜撰(ずさん)なものだった。 STAP 細胞ができていたことの決め手となるはずだった写真が、O 氏の学位論文からの使い回しだったのだ(他にも問題はいっぱいあるみたいだが)。 学位論文の題材は今回の論文とは違うので、これは完全なウソだ。
大事な証拠がウソだったという時点で、論文はまったく無価値になる。別に「科学の世界のルール」とかいう話ではない。一般社会の常識として、誰もが信じられないような突飛なすごいことを言い出して「ほら、これが証拠だ」と出してきたものが完全なウソだったら、それはダメだろ。
2. O 氏のさらなる問題点: 新聞報道によれば、O 氏は論文に用いたのと同じ学位論文からの写真を、共同研究者の内輪での勉強会でも使っていたという。 これが本当であれば、O 氏は(若山氏ら)共同研究者にも「ウソの証拠」を見せて意図的に騙(だま)そうとしていたということになる。 常軌を逸した話である。
ぼくには、O 氏の動機や心理などはわからないし、それを分析するつもりも全くない。 いずれにせよ、「Nature に投稿するきわめて大きなテーマを扱った論文に『ウソの証拠』を載せ」、「共同研究者にも『ウソの証拠』を見せた」人が一人前の研究者でないことは確実だ。
「皆で寄って集って O 氏を批判してかわいそうだ。O 氏には皆の前に出て堂々と反論する機会を与えよう」といった意見を目にすることがあるが、これは適切ではない。上のような事情が発覚した以上、O 氏を独立した研究者として扱うことはあり得ないからだ。 同様に、「問題をおこした O 氏にはしっかりと釈明してもらい責任をとってもらおう」という意見にもぼくは賛成できない。 O 氏にはこれほどの大事の責任はとりようがないと考えるからだ。 O 氏を「引っ張り出した」ところで得るものはなく、むしろ暴力的な個人攻撃にしかならないと恐れる。
3. O 氏の周囲の問題: 日本を代表する研究所である理研から、なぜこれほどに杜撰(ずさん)な論文が発表されてしまったかは、大きな謎である。 理研の会見で「O 氏の未熟さ」という言葉が出た。 もしそれが原因であるなら、そのような未熟な人物が研究所にユニットリーダーという職を得て研究プロジェクトを引っ張っていくという状況を作ってしまった理由をこそ問題にすべきだ。
O 氏が未熟で研究の初歩的なモラルを身につけていなかったのだとしても、一人だけであれば世界的な科学スキャンダルをおこすことなど決してできない。 理研という環境があり、さらにきわめて強力な後ろ盾がいたからこそ、O 氏の杜撰な「研究」が日本の科学の信頼を揺るがすとさえ言われる「事件」になってしまったのだ。 そういう意味では、O 氏を支えた人々の果たした役割は、O 氏本人の役割より大きいとさえ言えるのではないか?
今後、今回の問題について掘り下げていくなかで、O 氏に責任ある地位を与えることになった経緯を真摯かつ批判的に分析しなくてはならない。 それによって過去の人事、あるいは、研究所の体制そのものまでもが厳しい目に曝されることになるだろうが、それは避けてはならないことだとぼくは信じている。
4. 笹井芳樹氏について: 問題の Nature 論文には多くの共著者がいるが、論文末尾の記載によれば、論文を執筆したのは O 氏と笹井氏ということだ。 また、実験を主に行なったのも、この二人と若山氏だと書かれている。 若山氏はすでに論文の結論に疑問があると表明しているが、今のところ、笹井氏からの発言はないようだ。
「笹井氏こそが悪」という(ネットなどで広がっているらしい)意見に同調するつもりは全くないが、上で触れたように、論文に書かれたことだけからでも、O 氏と笹井氏の二人がこの論文で重要な役割を果たしたことは明らかなのだ。 笹井氏はきわめて優れた業績をもつ一流の研究者だと聞いている。 理研の調査などとの関係もあるのかも知れないが、時期を見て、「表に出て」事の経緯と自身の考えをしっかりと表明してほしいと願っている。
(実際、「証拠の写真」が偽物だったと知っていれば、笹井氏が論文を Nature に投稿したはずはないと思う。いったい、何がおきて彼までもが「騙された」のか? あるいは、多少は危ないところがあっても「細胞への物理的・化学的刺激によるリプログラミング」という着想に「唾を付けておきたい」という強い動機付けが笹井氏らにはあったのだろうか?? わからない(←ま、わかるわけないけど)。)
5. その他の背景: STAP 騒動は様々な背景と関わっている。
O 氏(および同じ研究室出身の人たち)の学位論文に剽窃(コピペ)がみつかっている。 この問題は、そもそも研究室でしっかりとした研究の指導・評価が行なわれていたのかという重要な教育問題に拡大しつつある。 本当に杜撰きわまりない教育が行なわれていたのなら、それが今回の騒動の下地になった可能性はあるだろう。
あるいは、Nature, Science のような過剰にポピュラーな雑誌に派手な実験結果を発表し、競争的な研究資金の獲得につなげることこそが最大の成功だとする風潮が今回の騒動の背景にあるという意見も耳にする。
こういった(そして、その他の様々な)問題が今回の STAP 騒動に何らかの意味で関連していることは確かだと思う。 しかし、STAP 騒動は、やっぱり、そういうレベルを大きく越えている。 1, 2 で述べた常軌を逸した杜撰(ずさん)さは、これら背景だけでは決して説明できないだろう。
背景にある問題点を論じるのはもちろん大事なことだが、これをやり過ぎると今回の騒動に固有の問題の洗い出しがおろそかになってしまう。 3 で述べたような分析は、様々な背景とは切り離して、是非とも厳しく実行すべきだと考える。
O 氏の性別や年齢などの属性はもちろん科学の研究の本筋とは何の関係もない。単なる背景に過ぎない。 そうではあるのだが、3 で要求した分析をすすめる中でそういった属性はどうしたって取りざたされるのだろう。STAP 騒動の何が悲しいといって、これがもっとも悲しい。
東海大学で開かれた物理学会の年会に行ってきた。
ただし、出席したのは以下の二つの「物理と社会」カテゴリーのシンポジウムだ。 もちろん物理に関係するセッションだし、物理学者にとって重要なテーマなのだが、ぼく個人にとって栄養と喜びの元になる物理の成分はきわめて低い。 なんとも、気疲れがたまる割には喜びと報われることの少ない、きわめて特殊な学会になってしまった。 (学術的なセッションにももちろん参加すべきだったので、それをしなかったのは単にぼくの怠慢だ。ただ、体力的にも精神的にも色々と余裕がなかったのだ。お恥ずかしい。)
以下、プログラムをコピーして掲載しておこう。
28日 CA会場 28pCA 13:30〜17:00 1 趣旨説明:3年後の福島〜今どうなっているのか〜 大同大教養 原科浩 2 原子力発電プラントと福島 NPO法人APAST 後藤政志 3 福島における汚染、被曝、そして社会 学習院大理 田崎晴明 休憩 (14:40〜14:45) 4 福島原発事故をふまえた原子力政策のあり方 九州大院 吉岡斉 5 福島原発事故によって、何が破壊されたのか 福島大行政政策学類 荒木田岳 6 講演者による補足と講演者間の応答 後藤氏,田崎氏,吉岡氏,荒木田氏 7 全体討論(司会・進行は座長が行う)
29日 BC会場 29pBC 13:30〜17:30 1 シンポジウムの趣旨説明 日本物理学会会長 斯波弘行 2 福島第一原子力発電所の現状と課題 名大工 山本章夫 3 汚染水問題と海洋拡散の状況 原子力機構・原子力基礎工学研究部門 小林卓也 4 事故後初期の放射性物質の環境汚染状況 東大原子核センター 大塚孝治 休憩 (15:10〜15:30) 5 福島の内部被曝と外部被曝 東大理 早野龍五 6 被災動物の包括的線量評価事業の立ち上げと経過報告 東北大加齢研 福本学 7 放射線測定データアーカイブズへの道 名大STE研 伊藤好孝 8 おわりに 日本物理学会副会長 兵頭俊夫
28 日のシンポジウムで、後藤さん、吉岡さんは、具体的なデータと詳細な知識にもとづいて、それぞれ、原発の技術的問題や原子力発電の将来を語ってくれた。もちろん彼らの立場が中庸ではないだろうが、単にスローガンだけの話とは本質的に異なる重みがあった。 荒木田さんは(未だに続いている)福島での極めて厳しい時間についての個人的な視点と大局的な視点を明確に提示してくれた。特に、事故前に定められていた膨大なガイドラインやマニュアルが、実際にはまったく実行不可能なものだったという指摘は重要だし、今後の様々な災害に向けて本気で考えるべき点だと感じた。 インフォーマルミーティングでの武藤類子さんのお話も(事前の不安とは裏腹に)重いながらも率直で、たいへん感銘を受けた。 (ぼくの話は、物理屋向けの「シーベルト入門」と福島の現状のきわめて短いまとめ。スライドはこちら。)
29 日のシンポジウムでは、原子核物理学者らのボランティアによって(主に初期の)被曝が記録に残された経緯についての大塚さんのお話に衝撃を受けた。 また、警戒区域で被曝した動物たちを最大限利用するための研究プロジェクトについての福本さんのお話には真の迫力と学問的熱意を感じた。酷暑のなか、殺処分された牛たちを次々と解剖しサンプルを採取していく様子の描写にはただた圧倒され、また、かつて訪れた南相馬の牧場の様子(2012/7/30 の日記)を思い出し、涙が出そうにさえなった。加えて、福本さんは独特の一流の話芸の持ち主でもあった。早野さん(←もちろんすごいお話で、初めての人はぶっ飛んだだろうけど)の後で出ていってしまった人たちは損したよ。
そんな話はみなさん読みたくないだろし、ぼくも書きたくないんだけど、まあ、記録のために書き留めておく。
まずは 29 日のシンポジウムから。なにしろ物理学会の理事会が提案して会長と副会長が挨拶するという鳴り物入りのシンポジウムだから、まず、こっちというわけ。
重く切実なテーマに関する理事会提案のシンポジウムであり、さらに、内容を考えれば様々なデリケートなトラブルも生じうると思われたのだが、主催者側にはまったく緊張感が見られず、運営の姿勢もきわめていい加減だった。
そもそも前半の座長である田村裕和氏が開始時刻の 2 分前にヘラヘラと笑いながら会場に現れたのだ。そして、その様子を見た「関係者一同」がどっと楽しそうに笑う。びっくりした。これが面白いの? たとえ研究室のセミナーだってもう少し真剣にやるものではないか? たいへん失礼なのは承知しているが(そして、ピンクの Perfume T シャツにパーカーを羽織ってシンポジウムに来るようなふざけた奴に言われたくないと思われるだろうけれど)田村氏および楽しそうに笑った人々を私は軽蔑します。
このシンポジウムの冒頭では「不規則発言」をする人が現れた。 彼に対する田村氏の態度は(最初は発言を断ったくせにごねられると彼に自らマイクを手渡し、その際に時間を制限したくせに結局は無制限に話させるなど)まったくの行き当たりばったりに見えた。 しかし、この人物が不規則発言を行なうことは(一連の経緯があって)理事会では確実に予想していたはずの事態なのだ。 その際の対応をしっかりと考えていなかった(ように見えた)のは大きな問題だ。
いや、不規則発言の処理などという高級なレベルの話以前に、講演者のマイクやポインターの使い方、会場の照明の設定など、シンポジウムの基本となるようなことも最初はろくにできていなくて、山本氏の講演の途中でごそごそとやっているというお粗末ぶり。 開始時刻二分前にやって来る田村氏が一人でやっているのだから、まあ、グデグデになるのはうなずける。 というか、座長以外にも運営の世話をする人材を確保しておけばいいのに。マイク回しまで座長がやるって、なんか情けなさ過ぎる。
不規則発言をする人は途中で会場から出て行き、その後は、幸いにもトラブルはなく、ぼくらは素晴らしい講演を堪能した。
これで上手に終わるのかなと思っていたら、最後はまた杜撰な展開になってしまった。 副会長の兵頭氏が「おわりに」という話をされたのだが、これが想像を超えてひどかった。 発言内容を事前に考えずに臨んで行き当たりばったりで話しているとしか(ぼくには)考えられない話っぷりなのだが、アドリブにしてももう少し上手にやってほしかった。 六つの講演をそれぞれ簡単にまとめるなんて、別に兵頭氏にやってもらわなくても、聴いた人はみんな頭に入っている(小学生相手じゃないんだから・・・)。それが終わったら、今度は、ご自身が放射線関連の情報発信を手がけて努力したお話に始まって、ついに、事故をおこした原発を処理するための彼の「思いつき」(←ご本人が「いや、これはほんの思いつきですが」と言いながらしゃべっている!)のアイディアを延々と聴かされる羽目になった。 副会長としてシンポジウムの最後に話をするのに、それをやったらルール違反でしょう。
そもそも、会員でない人たちにも講演をお願いして来てもらっているのだから、最初と最後に何を話すかなど、会長と副会長とシンポジウムの責任者でしっかりと事前に相談しておくべきではないだろうか? それをしないのは(←相談した上であれだったら、みなさんの能力と常識を疑わざるを得ない)参加者にも講演者にも失礼な話ではないか?
というわけで、座長がギリギリにやって来て不規則発言に対応できないところから始まり、副会長の「思いつき」で終わるという、考えうる最悪の運営だったと思う。 くり返しになるが、講演は全て入念に準備されており、素晴らしかった。 シンポジウムの運営にあたった人たちは「中身よければ全てよし」というお考えなのかもしれないが、私の意見は違う。 一流の中身があるのに準備をおこたり緊張感のない運営をするのは恥ずべきことだ。 関係者には大いに反省していただく必要があると信じる。
27 日には学会に出席せず、プレゼンテーションの最終的な手直しと練習に費やした。 時間を完璧に計って大声で話す「通し」の練習を数回やって喉が痛くなったくらいだから、かなりの気合いの入り方だ。
それで夜になってプログラムを確認し、教室一覧を見て愕然とした。 シンポジウムに割り当てられた教室の定員は、なんと、102 名なのだ。 これは普通の教室ではないか。 物理学会の基準で言えば、あまり人が多くない、マイナーなセッションに割り当てられる会場である。
何かの間違いか陰謀かとあわてて世話人の吉野氏にメールで尋ねてみると、シンポジウムの提案の際に参加人数の予想を 100 名と書いたとの返事。 なんだそれは?? ぼくは、原発事故、放射線問題、福島の現状などに特別の予備知識のない「普通の物理学会員」にこそ聴いてもらとうと思い、ぼくなりに時間をかけて講演を準備してきたのだ。 その考えは吉野氏にも伝えて賛成してもらっていたはずなのに・・
物理学会の年会は、そもそも参加者が猛烈に多いので、そのぶん「浮動票」も多い。 たまたま面白そうな専門のセッションがない時間帯に、なんとなく興味をひく講演やシンポジウムがあって、ゆったりとした会場でやっていれば、ぶらりと入って聴くという人がかなり多いのだ。 テーマの重要性を考えれば、三百人規模の階段教室を確保するのがおそらく適正で、それでも十分な人数が入ったと確信している。
ぼくが疑問を呈したために、けっきょく、当日になって会場を変更したのだけれど、それでも 155 名が定員で、可動の机がいっぱい入ったフラットな語学教室のような普通の教室だった。スクリーンも小さい。
けっきょく、この新しい部屋がほぼ一杯になり立ち見の人まで出てしまったので、会場変更は「正解」ということになった。 とはいえ、もとの会場に行ってわざわざ歩かなければならなかった人、歩くと間に合わないからと参加をあきらめた人、あるいは、窮屈な机にぎっしり座っている人と狭いところに立って聴いている人を見て、あきらめて帰って行った(おそらく、少なからぬ)人たちのことを考えると、申し訳なくて仕方がない。
(ぼくにも、かなり前のことだけれど、経済物理のシンポジウムを主催したとき会場を変更したという「前科」がある(2007/10/4 の日記)。ただし、このときには会場が不向きなことが判明して大慌てで変更し、二日前からネットや掲示での告知に努めた。)
他にも運営がグスグスしているなあと思うところはあったが(ただし、座長はちゃんと早めに来てセッティングしてたよ)、最後の討論についてまったく企画がなく、単に押川さんに丸投げだったのは、かなり問題だったと思う。 その結果、たとえば、後藤さん、吉岡さんを中心に原発の技術や廃炉問題について専門知識に基づいた実り多い議論がおこなわれるときと、専門家がいないテーマについてうろ覚えの知識にもとづく質の低い「話し合い」が続くときのギャップはすさまじかった。 主催者は事前にもっと考えるべきだったのではないだろうか?
まあ、こちらについては世話人にも個人的に言いたい事を言っているので、これくらいにしておこう。
付記:「第69会年次大会の『物理と社会』シンポジウム採択経緯に関する質問と要望」についてというものを書いた。