2001年度卒業生 共同研究 
2、日本赤軍派の背景
3、日本赤軍が起こした事件と最近の動向
4、パレスチナと日本赤軍の関係
6、レポートを終えて
 昨年11月8日重信房子が大阪で逮捕された。重信房子?もう、日本の人々の記憶のかなたへ、消えかけていた名前である。   1971年レバノンに去った彼女は、カリスマ的女性リーダーとして、その後日本赤軍派のおこした数々の凶悪な国際テロ事件と共にその名が知られて行った。中東で活動を続けていると目されていた彼女が何故日本に潜伏していたのだろう。あれから、30年近い年月を経て我々の前に現れた彼女の存在は何を語っているのであろうか。赤軍派とは何だったのか、彼等のおこした事件とは、彼等とパレスチナとの関係とは、そして国際テロリズムとは、とそれぞれが違った角度から日本赤軍派を見ていくことにより、この30年間の日本そして国際社会の変容を考えてみたいと思う。
  【はじめに】

 
自分達が目指しているものは世界同時革命であって、各国それぞれの革命ではない。堅牢なブルジョア権力を粉砕するには、武装革命しかありえない。日本は、マルクス主義というところの高度資本主義社会の様相を呈しており革命のときは近い。しかし革命はただアメリカや日本でおこすのではだめで、全世界的なものであるべきだ。ブルジョア国家間だけの革命では、意味がない。起こすべきは世界同時革命、そしてあらゆるブルジョア権力の一斉粉砕である。」   (岡本公三 インタビューより)

 上に述べた赤軍派革命のアウトラインであるが、世界同時革命論、革命戦士と自らを名乗り世界でテロ活動を展開しつづけた学生たち。彼らの大半は中流家庭に育ち、教育を受けた、言うならば普通の若者達であったといわれている。一般旅行者ら100人以上を殺傷した無差別テロ、テルアビブ・ロッド空港事件。日航機をハイジャックし人質と交換に仲間6人の釈放と約16億円を移送させた、ダッカ事件。赤軍派はどういった時代の流れの中から生まれてきたものだったのか? いわゆる普通の学生がなぜこうした活動に参加し世界を目指すようになっていったのか? この二点について私のレポートの中で注目したいと思う。


  【赤軍派の成り立ち】

 1960年代、学内問題をめぐり学園闘争が激化していく中で、学内の問題への政府の介入を許可する「大学管理法」が制定される。この結果、学生当局と大学当局の間の学園闘争が、学生の政府、国家権力の対立に構造が変化し、学園闘争が学生運動へと広がりを見せることになる。ヴェトナム戦争が勃発し、日本は直接的に法によって軍事行動が不可能であっても、ヴェトナムへの戦闘機の離発着として日本にある基地を提供など、アメリカ側の要求に協力的な日本政府に対して反対運動が起こり始める。70年代に入って、安保条約や沖縄問題に対して徐々に抗議活動が武装化の広がりを見せ始める。学生運動は国内問題とどまらず国際問題にまで拡大していくようなる。政府からの弾圧が厳しくなり、逮捕者が出始め、学生の中でも活動から離脱するものとより活動を熱心に人行っていくものと運動が分裂していく。1975年ヴェトナムからアメリカが撤退することによって運動は衰退の傾向を見せるが、同時に少数化した運動がより戦闘化の流れをみせるようになる。日本の学生運動はこのころから二つの柱、問題に重点を置いて活動するグループと、様々な問題に組織として取り組んでいくものと分かれていく。(日本赤軍派は前者に入る)

 50年代「全学連」に学生運動は統括されており、50年代後半から共産党の指導下に運動の路線転向が起こり始める。党の管下に残ったがくせいのグループは比較的穏健派であったが、もう一方は武装化の流れをたどった。赤軍派の基は、60年代安保闘争で指導の役割を担っていた。1968年、関西ブント塩見孝也の指導のもと、「赤軍」として結成される。国内でさらに戦闘化し国外ともに共闘していこうというものであったが、より政府の弾圧を受けるという組織内からの批判にあい、組織内で少数派であった者は赤軍派として独自の路線を進んで行くことになる。


  【なぜ学生は赤軍派の活動に参加するようになったのか?】

 はじめに、国内での運動がより武装化されればされるほど、国家権力からの弾圧が厳しくなる。国内での運動に限界や無力感を感じるようになってきていたときに、世界での活動というものが学生を魅了したのではないだろうか。

 60年代から70年代にかけてアメリカにおいても学生運動が盛んであった。日本の学生運動と類似点も見受けられるが、アメリカにおいての学生運動はあくまで学内問題に焦点が置かれ大学当局に対する運動にとどまっていた。しかし、日本では「大学管理法」が制定され学生運動が国レベルでの問題にしてしまったことがなによりも、学生運動をより過激にしていった一つの原因といえるのではないだろうか。

 2つ目に、学生の武装闘争への憧れである。赤軍派の運動の一つの特徴として世界でゲリラなどの軍事訓練を行い革命の戦士として活動するというものが挙げられる。国内での武装闘争に限界を感じ、より戦闘的なものを求めていたものにとって魅力的であったのであろう。

 3つ目に、赤軍派の革命理論にある種の特殊さロマンのようなもの感じたのではないだろうか。実は目的事態は明快であるわけではないが、日本からの戦士として世界の抗争に参加できるというあこがれ意識が芽生え、理論に陶酔していったのではないだろうか。

   4つ目に、「革命へいたる真の道は革命的闘争の実践によってのみ招かれるという信念」
「グループも個人もブントという(党派)のメンバーであろうとなかろうと関係なく革命への推進力となる」 

 この岡本公三の言葉からなにか一種の個人の尊重、意思が反映されていると捉えた学生が存在したのではないだろうか。活動において自分は推進力であるし、また革命闘争に重点が置かれているので学生運動をしている一学生ではなく自分がより主体的なものとして活動に必要とされていると容易に誤解できるものだったといえよう。


  −参考文献−

   『日本赤軍派−その社会学的物語』    パトリシア・スタインホフ  河出書房新社  1991年
   『あさま山荘1972(上)』    坂口弘  彩流社  1993年
   『「彼女」達の連合赤軍−サブカルチャーと戦後民主主義』
                大塚英志  文藝春秋  2001年   詳しく
   『日本赤軍派 その社会学的物語』    パトリシア・スタインホフ  河出書房新社  1991年
   警察庁ホームページ     http://www.npa.go.jp
2、日本赤軍派の背景
3、日本赤軍が起こした事件と最近の動向
(U)