【日本赤軍の起こした事件と最近の動向】
日本赤軍は1971年「国際拠点地建築」構成(*革命を達成するため、北朝鮮、キューバなどの社会主義国に国際拠点地を作り、そこに赤軍派の活動家を送りこんで軍事訓練を受けさせ、再び日本に逆上陸し、武装蜂起を決行するというもの)に基づき、その前身である「共産主義者同盟赤軍」のメンバーのうち、レバノンに出国した奥平房子(重信)、奥平剛士などによって組織されました。結成以降、日本赤軍はパレスチナ・ゲリラと共同し、又は単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各国で展開してきました。
その日本赤軍が過去に引き起こした主な事件を検証していきたいと思います。
1、テルアビブ・ロッド空港事件(1972年5月30日)
イスラエルのテルアビブ・ロッド空港で、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3人が自動小銃を乱射し、一般旅行者ら100人を殺傷(うち24人が死亡)した事件です。
三人は空港の襲撃のためにパレスチナ人から基本的な軍事訓練を受けました。訓練を終えるとヨーロッパに行き、偽造旅券とスーツケースに収まるように改造された武器(ソ連製,又は東欧製)を手に入れました。そしてハイジャック防止のために行う乗客や手荷物の厳重な検査をかわすため、機内持ちこみにせずに預けた荷物を受け取って、テルアビブ空港に現れ、犯行に及びました。
この事件で大きな波紋を呼んだ問題があります。それは、日本政府の事件に対する対応です。政府は襲撃事件に関し、謝罪の意をイスラエル政府に公的に表明すると共に、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払いました。三人の行動は個人的なものであるから、諸外国の政府、市民にしてみれば、日本政府がやるべきことといえば謝罪の意を表する事でした。謝罪でさえ、不必要であるとも考えられていました。そして、同じ様な事件を起こす可能性のある青少年を抱えた他国の政府は日本政府が悪い先例を作ってしまった、と感じていました。
日本の習慣では家族や企業、国家など一定の組織の長は、その傘下にいる人間の行為に対して公的に責任を取るのが普通です。組織のメンバーが他の組織に対して危害を加えた場合、その長はたとえ自分の支配が及ばない状況だったとしても、相当の賠償をする事になっています。このような対応は、組織の人々の責任感、罪悪感を軽減してくれますし、犠牲者がそれを受け入れる事によって、組織間の関係はもとの友好状態を取り戻すことができます。多くの日本人は政府の対応を支持しましたが、果たしてそれがよかったのであろうか、今でも考えさせられる問題だと思います。
2、ドパイ事件(1973年7月20日)
パリ初東京行きの日航機を丸岡修と4人のパレスチナ・ゲリラがハイジャックし、アラブ首長国連邦のドパイ空港を経てリビアのペンガジ空港に着陸させた事件です。
3、ハ―グ事件(1974年9月13日)
西川純、奥平純三、和光晴生の三人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠してフランス当局に拘禁中の日本赤軍メンバーを釈放させた事件です。
4、クアランプール事件(1975年8月4日)
奥平純三、日高敏彦、和光晴生ら5人がマレーシア・ケアラルンプールのアメリカ大使館等を占拠し、アメリカ総領事らの人質と交換に、日本で拘留中の西川純,戸平和夫ら5人を釈放させた事件です。
5、ダッカ事件(1977年9月28日)
丸岡修ら5人が日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させ、乗員、乗客151人の人質と交換に、日本で在監・拘留中の奥平純三ら6人と現金600万ドル(当時約16億円)をダッカに移送させた事件です。
ここでも日本の政府の対応が国際的批判を受けました。政府はクアランプール事件(1975年)とダッカ事件(1977年)で日本赤軍の要求の応じ、法的根拠が明確でないまま服役、拘置中の赤軍幹部ら計11名を釈放しました。当時の福田赳夫首相は「人の生命は地球より重い」と発言しましたが、テロリストを野放しにした措置は国際的批判を受けました。
6、ジャカルタ事件(1986年5月14日)
インドネシア・ジャカルタの日米領大使館に爆発物が打ちこまれ、同地のカナダ大使館前で車が爆破されるという同時テロ事件です。日米捜査当局は、城崎勉を犯人の1人と断定しました。
7、ローマ事件(1987年6月9日)
ベネチアサミット開催中の6月9日、イタリアのローマにおいて発生した、米・英両国大使館にむけた爆発物の発射などのテロ事件です。イタリア当局は奥平純三らが犯人と断定しました。
8、ナポリ事件(1988年4月14日)
イタリアのナポリで米軍クラブ前に駐車中の車が爆破され、アメリカ人1人を含む5人が死亡した事件です。イタリア当局は、奥平純三及び奥平(重信)房子を犯人と断定しました。
この事件を最後に国際テロは沈静化しました。その後パレスチナ解放機構とイスラエルの和平プロセスが進展した事から、日本赤軍は93年レバノン・べガ―高原の拠点を離れ、中南米の反政府ゲリラなどとの連帯を模索していたようです。
日本赤軍は様々な事件を起こしてきましたが、最近の動向はどうなのでしょうか。最近では、レバノン国内にとどまる一方、他のメンバーは中東以外の地域に新たな拠点構築を目指し、世界各地で活動を展開していたことが、メンバーの一連の逮捕で明らかになっています。1995年3月には日系ペルー人を装ってルーマニアに潜伏していた浴田由紀子が発見され、逮捕されています。1996年にはペルーに潜伏中の吉村和江が逮捕、同年9月、城崎勉がネパールで身柄を拘束されました。
こうした中、1997年2月中旬、レバノン国内に身分を偽って潜伏していた和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三の5人が発見され、レバノン当局に身柄を拘束されました。5人は旅券偽造、不法入国などの罪で起訴されており、日本はレバノン当局に対し身柄の早期引き渡しを求めています。更に11月12日には西川純がボリビアのサンタ・クルスにおいて現地治安当局に身柄を拘束されました。警察庁は国外退去処分によってボリビアを出国し、帰国した西川純を、11月18日「ダッカ事件」による航空機の強取等の処罰に関する法律違反で逮捕しました。日本赤軍の本拠地ともいえるレバノンにおいて、レバノン政府当局によりメンバーが検挙されえた事は事実上、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味しています。メンバーの大量検挙とあわせて、組織として極めて大きな打撃を受けたものと見られています。
苦境に立たされた日本赤軍が、先にも記しましたが、新たな活動拠点を探っていた状況が明らかになりました。しかし、最近では物心両面の最大の支援組織であったパレスチナ解放人民戦線から積極的な支援が得られなくなった上、ハイジャックしても身柄受入国がない事などから活動は行き詰まっていたと見られています。