2001年度卒業生 共同研究 
2、両国議会の基礎知識
3、イギリス
5、最後に
3、イギリス
  【議会】

 上院(貴族院)

 男女の世襲貴族、二名の英国国教会大主教、「聖職上院議員」としてつかえる24名の主教、一代(生涯)貴族で構成される。議員数は一定ではない。1997年で1207名となっているが、議会への出席率は低く平均400名以下で、定足数はわずか3名である。貴族院議員は供与こそないが、出席手当てと経費の支給はされる。

 下院(庶民院)

 選挙権 : 18歳以上の男女
被選挙権 : 21歳以上の男女 (上院議員、一部聖職者、国家公務員、一部地方公務員などはない)
  定数  : 651名 (法律により10年から15年に一度区割りの全面的な見直しがされる)
  任期  : 最長5年 (選挙は、首相が政治的な必要性や有利性を考慮して設定。選挙は最短で3週
         間の期間をへれば実施することができる)


  【選挙制度】

 候補者は政党に所属していようといまいと自由に立候補することができる。(現職の議員の場合、選挙区支部の再度の承認が必要)

*保守党の場合・・・党本部の国会議員候補者諮問委員会が、応募者の諸計画に対する討論・共同作業のディベート・面接、経歴を検討して、適切な人物を議員候補有資格者と認定し、リストを作成する。
【二大政党】
  保守党 労働党
略歴
1832年


1841年

1846年






1915年

1975年

1979年
|
1990年






 トーリー党の後継政党として誕生

 総選挙で勝利


 党内の造反で分裂し、政権を失う

  その後、熱血党首ベンジャミン・デ
  ィズレーリによって党を(土地所有
  者の)個別利益の政党から国民政
  党へと転換が行われた


 自由党と連立政権を組織する

 マーガレット・サッチャーが党首就任


 サッチャー時代

  政府は、個別利益(特に労働者の
  利益)を代表する集団とは距離を
  置き、公共支出削減を断行した。


1900年

1906年







1951年

1997年










 労働代表委員会誕生

 労働党に改名

  第二次世界大戦後政権を獲得。ク
  レメント・アトリー首相は、急進的諸
  政策を実行に移した。鉄道など主
  要な公益事業の公有化。
  行き届いた社会保障制度の導入。
  国民保健制度(NHS)の創立。

 政権を失う

 総選挙で勝利








支配層   中産階級   労働者階級
政策   経済→小さい政府
  地方→大きい政府
  経済→大きい政府
  地方→小さい政府
イギリスでは1885年まで完全連記・中選挙区制がとられていた。これも小選挙区制も大政党に有利な選挙制度であった。しかし、選挙権の拡大にともない、投票方法を変更せざるおえなくなった。イギリスには、第一次、第二次、第三次選挙改革が存在する。

 第一次選挙改革が実現したのは1832年のことで、それまで選挙権は特権階級(貴族、ジェントリ)のみに与えられ、産業革命によって増加した中産階級と労働者階級には与えられていなかった。そこで中産階級と労働者階級は、選挙権、腐敗した選挙区の廃止、新興産業都市地域への議席の増加を要求する運動を起こした。結果、財産規定があり中産階級にしか選挙権は与えられなかったものの、有権者は十数万人から、一気に72万人に増加した。議席の配分も変更されはしたが、不十分なものであった。

 次に、第二次選挙改革前に起こった、チャーチスト運動について述べたいと思う。   チャーチスト運動とは、1838年から1848年まで行われた労働者階級が選挙権を求めた運動である。前述の通り、第一次選挙改革では労働者階級には選挙権が認められなかった。また、34年に制定された新救貧法によって低所得者への救済が廃止されるなど、労働者階級の不満が爆発した。保守勢力はこれを脅威とみなし弾圧したが、その後、掲げられた要求は次第に実現していった。

 チャーチスト運動後、不況によって、労働者は失業と貧困に苦しんだ。また、労働組合の運動が違法とされ、そのため再び選挙改革運動が活発化した。そして1867年都市部の労働者に対して選挙権が与えられた。しかし以前同様以下の制限が設けられた。

@救貧税(地方税)を納付する家屋所有者・借家人で12ヶ月以上居住するもの
A年価値10ポンド以上の貸間の間借人で12ヶ月以上居住するもの

 このような制限を設けた理由は、当時、保守党と自由党が、労働者たちによって既存の政治体制が変化してしまうのを恐れたからである。

 最後に第三次選挙改革であるが、これが実現したのは1884年のことである。これによって、地方の労働者へも選挙権が与えられたが、第二次選挙改革での制限が適応されていた。

 このような三つの段階を経て、有権者が増加していったわけだが、その度に選挙区の改定が行われ、特に第三次選挙改革によって一気に選挙権が拡大されたため、それまでにない大きな問題となった。新たに選挙権を持った労働者階級は、いずれ政界に進出してくることは火を見るよりも明らかで、支配政党として君臨してきた保守党と自由党にとって、いかにして自分たちの力を維持していくかということが急務の問題であった。そこで考えられたのが、少数派に有利な比例代表制ではなくて、多数派に有利な小選挙区制の導入である。保守党も自由党も、労働者階級の政界への進出は時代の流れからしても避けがたいことは認識していた。だからといって、自分たちの支配体制を揺るがす労働者階級を野放しにしていくわけにはいかなかったため、小選挙区制を導入し、その影響力の減殺を図ったのである。

 これまでに述べてきたように、イギリスの小選挙区制は党利党略的な動機から生まれてきたものである。にもかかわらず、現在まで続いたのはなぜなのだろうか。イギリスでは、選挙をする際に懸かるお金は、全て政党が用意する。そのため、政党と候補者の結びつきが強く、候補者は地域固有の問題ではなく、党の公約を地域で訴えることを課せられる。上記のようなことが起こるのは、中央が自治体に配分するお金が機械的に行われる割合が多く、国政と地方政治がはっきりと役割を分けている、ということも一つの要因であろう。

 このように、中央と地方がはっきりと役割が分かれているのは、政治の集中(政党・国会議員は国民全体に係わる問題=社会保障、教育、環境、外交などを論争すること)と行政の分散(地方自治体が自立的に政策を作り実行すること)がされているからである。小選挙区制が、政党同士の健全な政策競争の舞台となりうるかどうかは、実は選挙制度それ自体の問題ではなく、国のお金をどのように国民のもとに還流させるかという行政の仕組みに依存しているのである。国民はこのようなシステムのおかげで、小選挙区制によって誰を首相にするか、どちらの党に政権をゆだねるか選択することができる。

 そうなると、自然に注目されるのは党が掲げる公約、政策である。イギリスではマニフェスト(党が国民に対して約束する事柄)が日本の公約に相当するものだが、日本の公約のような現実味のないものではない。やはり政策立案能力、政策実行能力の違いであろう。日本の公約のような現実味のない願望の羅列をウィッシュリストといい、コストの裏付けがきちんとされているものをポリシーという。イギリス国民は新聞記事などを読み(新聞に公約が掲載される)、自分の一票を有効に活用するのだ。

 以上のことをみると、「死票が多い」「民意が反映されにくい」「少数派に不利」といわれている小選挙区制も、イギリスではまずまず機能しているように思われるが、成立当初から議論は続いている。成立からしても、労働者が本格的に政治に参加してくる前にできた制度である。それも、当時の二大政党(保守党、自由党)が、自分たちの権力を維持するために導入したものである。当然廃止を論議されるべきものであるにもかかわらず、保守党の一貫とした反対、労働党の小選挙区制のもとでの健闘、自由党の衰退。そして戦後の保守党と労働党の議会「二大政党制」の完成、こういった政治の動きによって小選挙区制は守られてきた。

 先にも述べたとおり、イギリスは二大政党制であるが、政党が二つしかないのではなく、二大政党が長期間政権交代をしている状況をいうのであって、ほかにも自由党、スコットランド民族党、ウェールズ民族党、緑の党などがあり、議会は二大政党制だが社会は多党制といえるだろう。

 日本国民よりも政治に目の肥えたイギリス国民が、政治家の思惑に、いつまでも踊らされ続けることはないだろう。そうした時、各政党がどのように国民の支持を集めていくか、同じ小選挙区制を採用している私たち日本国民は、注目しなければならないだろう。

  −参考文献−
   『イギリスの政治日本の政治』    山口二郎  筑摩書房  1998年   詳しく
   『二大政党制と小選挙区制 アメリカ、イギリスの制度研究』
                              柳沢尚武  新日本出版社 1996年