1. 研究上の関心事

  1. 意味論と統語論のインターフェイス
    結果構文,不変化詞動詞
  2. 理論言語学
    生成文法,形式意味論,認知科学,言語情報処理
  3. 認知言語学
    用法基盤モデル、構文文法、心態詞理解の認知モデル
  4. 言語類型論
    日本語,ゲルマン系言語
  5. 言語教育
2. 参加プロジェクト
3. 研究業績

                                                                                                                     

『月刊言語』(Vo.38, No.5)の書評「認知言語学」 [05/02,03/2009]

2009年1月、次年度の「認知言語学ゼミ」をどのように展開するかを考えつつ、 研究費残金で認知言語学関連の和書を30冊、洋書を10冊程購入した。 通常、和書はめったに買わないのだが、 学部学生にいきなり英語の本をテキストとして与えて、すんなりと授業ができる訳ではないので、 参考図書として和書の購入に踏み切った。 時、ちょうどシラバスのネット入稿締切日が迫っている頃。 とりあえず、方針を決め、図書を指定し、購入した本を仕事の合間に読み耽っている2月のある日、 原稿依頼のメールを受け取った。

認知言語学関係の書評の依頼だった。 時期としては、まさにピッタリ。 すぐに引き受け、1週間で書き上げ、依頼の原稿量に合わせて調整した。 認知言語学を専門とする研究者は、現在ではかなりの数になるし、 いわゆる大家・著明な学者もいる昨今。まあ、よく私のところに依頼が来たものだ、と感心しながら、 思ったことを書かせてもらった。 本格的な研究論文と違い、書評ならいつでも書ける。

今回の枠組は、「特集:ことばへのアプローチ〜言語研究のためのブックガイド」(当時の仮題) であり、「とりあげる書籍の数は5〜10冊をめやすに、洋書は2冊程度」、 分量は約 400x10 枚(ブックリスト含む)というもの。 特に「認知言語学を研究するにあたって読んでおくべき書籍」という指定があった。 さらに「専門書だけでなく、他の分野からも、あるいは小説などジャンルを問わず、 研究のための柔軟な視野を育てるのに役立つと思われる書籍を挙げていただけますと幸いに存じます。」 という要望もあった。(05/03/2009加筆行)

洋書は2冊程度、という縛りがきついな、と思いつつ、翻訳のあるものを探して和書に加えることにした。 いくつかのもともと日本語で書かれた本以外は、実はすべて英語版を読んでいる。 翻訳書は後から取り寄せ、ぱらぱらと眺めた程度なので、 翻訳の出来不出来は分からないままで書いてしまった。

このような制約の元で書いたのだが、1冊の本の深いレビューではないので、 背景的な部分から書き進め、その中に本の紹介を混ぜ込む形にした。 特に、言語学初心者に向けてのブックガイドではない、 との認識で書いたのだが、実際に『月刊言語』5月号を見てみると、 明らかに入門者を対象に書かれている方もいる。 「うーん、違ったかな」、と思いながらも、完全にずれていれば、編集部の方で注文を付けたはずだ、 と思い直した。

紹介対象となった本に関して、ここでは、さらに感想をつけておく。

● V.S. ラマチャンドラン, サンドラ・ブレイクスリー著 (1999) 『脳のなかの幽霊』 (角川21世紀叢書) 角川書店.
これは前々から読みたいと思いつつ購入せずにきたもので、 原書は:
Ramachandran, V.S. and Sandra Blakeslee (1998) Phantoms in the Brain: Probing the Mysteries of the Human Mind. HaperCollins: New York.

1999年に出たペーパーバック版を購入。 ところどころイギリス英語の語彙が入っているが、 でもアメリカ英語、と思ったら、名前からも想像できるように、 インド出身のお医者さん兼研究者。分かりやすいポピュラーサイエンス本、 というだけでなく、とても読者を知的に刺激する書き方、論旨の展開に感心した。 実は、大学の仕事が多忙な中で読んだので、 まるまる1ヶ月読み終えるのにかかってしまったが、 知的刺激に満ちたとても楽しい時間を過ごせた。 この本の成功の後、ラマチャンドランは、 少なくとも2冊同類のポピュラーサイエンス本を書いているが、 どちらもPhantoms in the Brain のダイジェスト版的色彩が濃い。 もちろん、出版年が新しいだけ、新しいデータも散見される。

● マイケル・C.コ−バリス著 (2008) 大久保街亜訳 『言葉は身振りから進化した  進化心理学が探る言語の起源』 (シリ−ズ認知と文化)勁草書房.
原書は:
Corballis, C. Michael (2002) From Hand to Mouth: the Origins of Language. Princeton University Press: Princeton.

ペーパーバック版(2003)で購入したが、タイトルを想起させるちょっと「とぼけた」表紙の絵も面白い。 コ−バリスのこの本は、言葉遊び的な表現(pan)やウィットに富んだコメントがあちこちにある。 果してこれらの表現は、どのように日本語になっているのか、 気になって翻訳本を購入したが、結局、時間もなく確かめてはいない。 脚注というか、注釈がページの下に収まらずに横下に不規則な幅で挿入されているが、 これが結構参照しやすい。最初のあたりを読んでいると、 生成文法の入門書かな、と思ったが、すぐにそうではないことが判明する。 2週間程で電車の中で読んだが、進化の話は刺激的だ。

● マイケル・トマセロ (2008) 『ことばをつくる―言語習得の認知言語学的アプローチ』 辻 幸夫, 野村 益寛, 出原 健一, 菅井 三実, 鍋島 弘治朗, 森吉 直子 (訳) 慶應義塾大学出版会.
原書は:
Tomasello, Michael (2003) Constructing a Language: A Usage-Based Theory of Language Acquisition. Harvard University Press: Cambridge, Mass./London

この本、実は、最初に翻訳で読んだ。 というのも、この翻訳本が2008年に出版されるというのを広告で知ったからだ。後になって原書を購入して読み直した。 Tomasello は、すでに5〜6冊読んでいるが、 和書で言えば、マイケル・トマセロ著 (2006) 『心とことばの起源を探る』 (訳) 大堀 壽夫、中澤 恒子、 西村 義樹(訳) (シリーズ 認知と文化 4) 勁草書房.
Tomasello, Michael (1999) The Cultural Origins of Human Cognition. Harvard University Press: Cambridge, Mass./London.
の方が私は面白かった。それではなぜ Tomasello (1999) を推薦しなかったか、 というと、きっと心理学系の人、あるいは、 進化言語学系の人がきっと推薦するだろう、と予想したからだ (予想は的中。発達心理学の方が「言語の獲得と発達」の中で推薦していた)。 『ことばをつくる』方が、より言語学よりのトピックなので、 こちらを選択した。トマセロは、決して難解な文章は書かないので、 容易に読めるが、一冊読み終えるまでに、「同じ話をもう何回も読んだなあ」という感想を抱く。 学者というのは、自説を売り込むためには、徹底的にリピートして、 読者を見方につけなければならないので、多かれ少なかれこうなるのかもしれない。

Gallagher, Shaun & Dan Zahavi (2008) The Phenomenological Mind: An Introduction to Philosophy of Mind and Cognitive Science. London and New York: Routledge.

この本は、当初の予定では、推薦書に含めていなかった。というのも、
Gallagher, Shaun (2005) how the body shapes the mind. Oxford: Oxford University Press.
を哲学関係では取りあげるつもりだったからだ。 ちょっと神秘的・象徴的な表紙で、「身体性の哲学」を論じているが、 難解である。それと比べて Gallagher (2008) は、入門書であり、背景説明から用語の定義を含めてはるかに読みやすい。 ただ、2008年に出たばかりのものなので、 ハードカバーで購入(1万円を越えました;-()した。2009年には、ペーパーバックがでるかもしれない。

● 大堀壽夫 (2002) 『認知言語学』東京大学出版.

いわゆる認知言語学の入門書、というのは、調べてみるとかなりの数が出版されている。 翻訳ものから、和書までさまざま。 昨年は、 ジョン・R.テイラー (2008) 『認知言語学のための14章』第三版.紀伊國屋書店
を使ってみたが、実は、意外に難しい。英語で読んだ時には感じられなかった難解さがある。 翻訳そのものは、原文とてらしてみると、悪くないのだが、 なぜか翻訳書の方が分かりにくい箇所が散見された。
従来は、河上 誓作著 (1996) 『認知言語学の基礎』研究社出版. がコンパクトに的確な入門書だと思っていたが、 さすがに10年以上前の本になるので、それ以外の入門書を探した。 そこで、再発見したのが、大堀壽夫 (2002)だが、データの扱いかた、 認知言語学の考え方をぶれずに説明しているところ、 読者に媚びるところがない点で非常に好感が持てた(2002年に出版ということで、すでに最新の本ではないが)。 自分自身でも読んで勉強になるところがあった。
しかし、現実には、吉村公宏著 (2004) 『はじめての認知言語学』研究社. をゼミでは前期の教科書に指定した。書き方から内容の説明の仕方まで、 はなはだ不満なので、推薦書にしなかったが、 逆に、その点を反面教師として使うと、優秀な教科書になりうる、 という読みである。日本語と英語しか扱っていない点も、 他の言語ではどうなっているのかを調べるには好都合だ。 必要で十分な説明が欠けるところも、その分、学生は自分で調べなければならない。

昨今、研究者が本を読まなくなった、という声もある。 いや、他の研究者の論文すら読まない研究者もいる。 福岡 (2009)によると、そのような研究者は、学会で最新の研究動向を耳学問で知るそうだ。 そうして知った他者の論文を引用しているとすると、 結構ゆゆしき事態だと思う。 そういえば、そんなことを言っていた同業者もいたので、 言語学の世界でも同じようなことが起きているのかもしれない。

一年間に何本も論文を書かねばならない状況に追い込まれることは、 成果主義の世界に生きる科学者にとっては、日常的な状況だ。 でも、そんな状況では、他人の論文を綿密に検討したり、 専門書を読む時間はほとんどない。大学での研究者には、 さらに、教育もあれば、大学での運営や管理の仕事も回ってくる。 で、私のように年間に何冊もの本を読むと、 論文は書けない、というか、書いていても完成しない、ということになる。 自己弁護になってしまった。「とほほ」である。 ただし、世の中には他人の論文や本もきちんと読みながら、 毎年、すぐれた複数の論文を生産できる「超一流」の研究者もいる。 そんな研究者を見ると、救われた気分になると同時に、 自分の小ささを実感する。(05/03/2009、2文加筆)


日本独文学会(岡山大、2008年)でのシンポジウムでの発表 [10/17/2008]

「構文文法は、話しことば研究の救世主となりうるか?」 というタイトルで、2008年10月12日に岡山大学で話をした。 この発表は、「構文文法は、話しことば研究の(文法記述を確立するための)救世主となりうるか?」 という趣旨であり、裏読みして、「話しことば研究は窮地に陥っているから救い出そう」 ということをいわんとした訳ではない(会話分析が基本的に 「観察者の影響を受ける」という原理的問題を抱えているため、 自分ではコミットしたくないと思っているのは事実だが)。

「またまた立場を変えて、今度は Construction をやっているの?」とか、 「形式言語理論からの裏切りだ!」との声をもらったが、 本人は、自然な流れでここまで来たのだと思っている(2001年には、用法基盤モデルの紹介もしている)。 もともと形式化は大好きな人間だが、言語を形式的にトップダウンに捉えようとすると、常に規則が過剰生成してしまい、 押さえ込むのが大変なことになる。だったら、規則そのものをローカルにして、大きな声で「普遍、普遍」と叫ばないのがよい、 と思うこの頃。

タイトルに対しての答えは、「YES」なのだが、 条件がいくつか付く。その部分だけをハンドアウトから抜き出して、簡単に説明を加えておくことにした。 構文文法を(言語学的)会話分析に応用するには:

(1) 記述法が確定していない。
(2) 構文間の関係づけが不明瞭。
(3) 全体像が見えない(「どこまでを構文とするのか」という問いに誰も答えられない)。

(1) 記述法に関して:
応用例として、具体的には、Imo (2007) の分析例を提示したのだが、 属性と値のペアで構文(construction) を統語論から語用論的特徴までを記述しようという試みは「良し」としても、 値のところの記述があまりにも貧弱である。これでは、非言語学者が、 普通のことばで説明したものとあまり変わらない。 では、より形式的な Fillmore, Charles/Paul Kay/Laura Michaelis/Ivan A. Sag (forthcoming) の記述法を採用して会話分析に応用する研究が現れるか、 と問われれば、答えはおそらく NO だろう。そもそも会話分析にかかわる言語学者は、 それほどフォーマルな記述を目指していない(し、また、語用論的な分析のメタ言語に厳密性を求める人はほとんどいない。 Gazdar という例外はいたが...)。

(2) 構文間の関係づけに関して:
発表の中でも強調したが、日本語の「構文」という言葉は、 Construction とは違い、「文」を意識させてしまう。 Construction Grammar での Construction とは、「構築物」であり、「文」はその中の一部でしかない。
さて、そのような観点から構文文法を考え直すと、 (i) 形式と意味のペアとしての構文を単位とする、というのは、極めて一般的な「言語記号」に関する言明でしかないことが分かる。 また、二番目の要請である 「ある形式あるいは意味が、その構成素(あるいは、それを構成する他の構文)から厳密には予想できないもの」 は、「合成性の原理」を構文内部では否定する、ということを意味する。 Goldberg (1995) では、構文そのものは、単位として「合成性の原理に従う」 としてしまったため、一部無理が生じている。 つまり、構文は「分解できない単位」とした後、その構文間の関係をどうつけるかが大問題なのだ。 統語素性や意味素性の継承を認めるのか、項構造の合成を認めるか、 などは、閉じた構文の内部構造をどこまで「外に情報として出すか」 という問題だろう。この部分の見通し(というか、割り切りかた)がうまくいかないと、 構文文法は沈没してしまうだろう。

(3) 全体像が見えない
あらゆる言語単位を「構文」(construction)としてしまうことも、原理的に可能である。 つまり、すべてが計算によらないinventory に基づくとする考え方だ。 計算によらない言語単位を認めること自体は、さして目新しいものではないが、 「どこまでを構文とするか」という境界線は存在し、それが研究者の立場を明確にするとも言える。 例えば、次の3つの立場が考えられる。

(a) すべてを「構文」とし、計算(=「規則に従って語を処理する」)を全面否定する。
(b) 計算できる部分(従来の合成性を守った統語論と意味論で計算できる部分)とできない部分に分ける。
(c) 計算そのものを「構文」単位でしか認めず、残りは計算できないものとする。

(b) が一番マイルドな立場で、常識的ではあるが、これでは面白くない。 従来の計算主義では、計算できる部分が言語の中核であると考え、 それ以外の部分は、「残りカス」と考えていたふしがある。 (b) の立場で、計算できない部分に中心を置く考え方も原理的には可能だろう。 (a) は、あまりにも全体論的(holistic)であり、先が見えない。 そうすると、(c) が浮上するが、これは、「従来の合成性を守った統語論と意味論で計算できる部分」 を否定することになるので、十分に過激である。ただし、「構文単位でしか計算を認めない」 という言明の中身を吟味する必要がある。 つまり、「どのような計算を認めるのか」が核心である(ハードコアの計算主義者は、 「すべてが計算である」と断言するだろうが)。

それと並んで、Croft (2001) のように、「構文は、個別言語の中で決まる」 とすると、「人間の言語の共通点」を抽出したい普遍論的研究は、非常に困難な状況に陥る。 ここでは、従来あったような単純な普遍論の図式では表せない仕組みを用意する必要が生じる。

ということで、構文文法(Construction Grammar)は、従来の計算一辺倒の理論より、十分に面白い。 構文間の関係をどう処理するか、という問題こそが核心なのだ。 かと言って必要十分な合成性を求めたら、従来の計算モデルと同じになってしまう。 なんらかの制約を設ける、というのもあまりに安易な解決策だ。さてさて、どうしたものか...。

参考までに、今回のハンドアウト、 cxg2008-handout.pdf(8 頁、80,073 bytes) をアップロードしたので、関心のある方はどうぞ(3箇所の誤植は訂正済み)。 latex-beamerPDF ファイルは、1MB 近くあるので、アップロードはしないことにした。


日本認知言語学会での発表に関して [10/16/2006]

2006年9月23日に,日本認知言語学会で「オートポイエーシスを取り込んだ理論の構築へむけて」 という題目で研究発表をした. すでに一ヶ月近くたってしまい,気抜けした感もあるが, 背景説明と追加情報を書いておくことにした. Maturana and Varela (1973) に端を発するオートポイエーシス (autopoiesis) のシステム論は, 免疫システムや神経システムにおける観察と考察に端を発しているが, すでに発表から30年以上経過し,新しい理論というわけではない.

創始者の1人である Francisco J. Verela (1946-2001) も また社会学への応用として一斉風靡した Niklas Luhmann (1927-1998) も,すでに他界し, 当初第三世代のシステム論として注目を浴びた時ほどオートポイエーシスが今, 議論されているわけではない.なお, Humberto R. Maturana (1928-) 本人の許可のもと, 現在では,Maturana and Varela (1973) に収録(P.5-58)されている Biology of Cognition(1970) の原文は, http://www.enolagaia.com/M70-80BoC.html で読むことができる. この論文自体は,オートポイエーシスの概念規定がされる前の Maturana のものだが, すでにその基本的考え方の基本的輪郭を見て取れる. もう一編の Verela との共著論文である Autopoiesis: The Organization of the Living.に関しては, D. Reidel Pub. の原著にあたるしかないだろう. なお,同書の和訳は, 河本英夫訳 『オートポイエーシス ー 生命システムとは何か』1991, 国文社, として出版されているが,2006年夏の時点で絶版であった.

ついでに,和書として私が参照したものをコメント付きで挙げておく.
(1) 河本英夫 『オートポイエーシス2001 ー 日々新たに目覚めるために』2000, 新曜社
(2) 河本英夫 『メタモルフォーゼ:オートポイエーシスの核心』2002, 青土社
(3) 山下和也 『オートポイエーシスの世界 ー 新しい世界の見方』 2004, 近代文芸社
(4) マトゥラーナ,バレーラ著,管啓次郎訳 『知恵の樹 ー 生きている世界はどのようにして生まれるのか』 1997, ちくま学芸文庫

この分野での日本での権威と思われる河本英夫氏の著作は,実はあまり読みやすくない. 哲学的なバックグラウンドがある人は,楽しんで読める面もあるだろうが, 純粋学問的な扱いから一歩踏み出しているところがあるような気がする. (3) は,おそらくもっとも平易な入門書だが, あまりにも啓蒙書的であると感じる人もいるだろう.同じ啓蒙書でも,本人が書いたものの翻訳である (4) が一番よく書けていると思う(当然か). ちなみに1984 年に書かれたこの本は, 1987年に和訳され, 朝日出版社から意表をつく大型の本として出版され話題となった. 1990には,ドイツ語でも Goldmann Taschenbuch から Der Baum der Erkenntnis: Die biologischen Wurzeln des menschlichen Erkennens. として出版されている.

さて,肝心の私の発表の骨子だが,一言で言ってしまえば, 言語を動的なものとして捉えるモデルを構築するのに, オートポイエーシス的な見方に基づく理論が作れるのではないか, ということにつきる. メタファーで語れば,言語も,その本質を捉えようと思うのなら 「静止画としての写真では現実の姿を捉えられず, 動画で見なければならない」ということだ(複数の静止画を使って, あたかも動画のように見るという方法論でもかまわない). それは,語用論を周辺的な言語研究と位置づける現在の言語学の見方から離れ, 変化するシステムを「あたかも生物のように」再構築することでもある. 言い換えれば,「生物のメタファーで語る言語理論」の構築である.

折しも,生成文法が,自らの言語研究を「認知心理学の一部」 と見なすことから一歩踏み込み,「生物言語学」 であるとの認識へとシフトしているのと偶然「生物」という点で重なる部分があるが, 今回の私の発表の中心は,「システムとしての生物の柔軟性」にその基礎を置くので, その目指すところが大きくことなっている.そこでは,情報の冗長性が重視され, 局所的規則が互いにオーバーラップする(多くの生き物は,どこか一か所, 機能不全になっても,別の組織がその機能を代替することができる). そして,とりあえずは,文法化現象を扱えるモデルを想定している. もっとも, そんなモデル,できそうもない,と言われれば,今のところ反論できない (まだ細部を煮詰めていないので). 今の「認知言語学」には,何か大きなものが欠けている, と感じているのは私だけではないと思うのだが...