「東アジア国際政治学」研究教育プログラム

長澤 裕子(NAGASAWA YUKO)

「東アジア国際政治学」研究教育プログラム・招聘研究者

   
1993年獨協大学卒業
1998年高麗大学校大学院修士課程国際政治専攻修了
2000〜2002年高麗大学校亜細亜研究所研究員
2002〜2003年Harvard-Yenching Institute 招請研究員
2007年高麗大学校大学院博士課程国際政治専攻修了政治学博士を取得
2008年〜現在韓国学中央研究院招請学者

研究テーマ
「戦後日韓関係設立における
旧朝鮮総督府官吏の役割についての研究」




戦後日本はアメリカの極東アジア政策上、
戦略的に重要な位置にあった




これは冷戦研究の先行研究によって、すでに指摘されていることである。


それだけでない。


こうした日米関係の結果、
戦後日本の対植民地との関係改善や賠償問題が
日本に有利になるよう展開されたのである。



この研究でキーワードとなるのは以下の三つである。

戦後の日米関係、日韓関係の設立、旧朝鮮総督府官吏


このことを頭に入れたうえで、この文を読んでいただきたい。



さて、先に述べたこの日米関係は戦後当時から、
韓国や周辺国の政治家から認識、問題視されていたことが一次資料からも確認できる。


戦後において日本と韓国の関係を位置づけた問題であることは事実である。


しかしながら、
戦後直後から1951年サンフランシスコ平和条約締結までの間の日本政府資料は、
いまだに非公開のものが多い。


実際のところ「日本の国際的な地位」や「寛大な賠償」については、
具体的な実証がまだ数少ないのが現状である。




私自身、当時の日本政府の主要な主張やそれに対する米国の対日認識を、
一次資料から確認してきた。


とはいえ、両者の相互作用としての日米交渉の詳細や、
両国の妥結の理由については、現時点でも調査が進行中である。


また、当時の韓国や米国の対日イメージが、間違いである場合、
それがそのまま日本の認識や主張として研究に反映される危険性がある。



その点を踏まえると
異なる角度からの資料を追加的に検討することが今後必要になると考える。




本研究では、
私自身の事前研究に対して、 旧朝鮮総督府官吏の分析を加える。

そして、
戦後日本の国際政治の位置について日本政府がいかに認識し、
戦後日韓関係を設定したかについて研究を補完する作業を行う。



旧朝鮮総督府官吏の分析によって、
日本が旧植民地に関する戦後政策を
日米外交の枠組みの中で
いかに設定、合意したかを探ることを目的とする。





実際、旧朝鮮総督府官吏は、
戦後も、十分に関連政策への影響力を発揮できる位置にいた。




彼らは戦後に政府の要職に就き、
戦後処理や関係国との戦後関係の設立に関わっていたのだ。


具体的には、
植民統治期に南朝鮮を管轄した第17方面日本軍の
上月良夫司令官の第一復員局局長就任や、
山名酒喜男朝鮮総督府官房総務課長が
外務省管理局北方課長に就任した例などが挙げられる。


こうした植民統治担当者の戦後政府への登用は、
日本の新国際秩序への復帰としての
国際平和や脱植民地化の流れとは逆行しているので、
注目に値する。


本研究では、
政府要職に就いた旧総督府官吏の動向や考えを抽出できる個人文書や
引き揚げに関連した民間団体など、
学習院大学東洋文化研究所の友邦文庫の資料を中心に検討し、実証を試みる。



資料は、総督府官吏の戦後政府への登用という歴史的事実を、
植民統治期から日本の対韓政策が受け継がれていったという点から検討してみたい。


これに関しては、以前、当文庫の戦後の関連資料を調査したことを事前作業として、
植民統治期への時期をさかのぼった資料検討という作業工程を計画している。

具体的には韓国の帰属財産の整理過程で、
日米韓三者の間の合意事項に関する旧総督府官吏の意見やその影響力を分析する。




決定事項への帰結は誰がいかなる論理によって主導し、合意に至ったのか、
その過程をみてみたい。

また、その合意が、歴史的・政治的に日本の対韓政策の何を受け継いだのかを、
明らかにできればと思っている。

そして、その合意の結果、何が問題として残され、
さらにはなぜ問題が残されてしまったのかについても、
将来的に論じていける根拠の一端を見つけられたらと望んでいる。


以上の関連研究の結果は、その成果を原稿にまとめて学術誌に投稿することを計画している。





以上